2022年前半に読んだ本の記録

2022年前半は、人生で一番穏やかで幸せな日々だったかもしれない。

ロシアが恐ろしい侵略戦争を始めたり、元首相が撃たれたりして、言いようのない不安にかられたりするけど、負けてはいられない。

明らかに読む冊数が減ってしまっていて残念だが、仕方ない。負けてはならない。


6/30

『猫がこなくなった』(保坂和志)を読み始めた。


6/3

『空気の検閲』(辻田真佐憲)を読み始めた。


6/9〜6/22【8】

『猫の舌に釘を打て』(都筑道夫)を読了。

単行本で読むべき大仕掛けが施されているミステリー。手書き(もしくは手書き風フォント)だったらもっと興奮できただろうな。作品全体が主人公の手記という形を取っていて、一つの視点から全てが語られる。途中からメタ視点も含めて描かれていて、かなり遊び心のある構造になっていた。

一方で、2022年に読むと、失われてしまった古き良き東京の風景が楽しめる作品にもなっていた。古典的名作と最近の小説の間にある、今一番語られない時代の作品だと気づいた。

なぜか登場人物が覚えづらかったのだけど、それはキャラクター付けが薄かったからかもしれない。マンガやアニメか隆盛を誇る以前の小説だからかもしれない。そう考えると、シマ・シンヤ氏のクールな文庫カバーがかけてあるのは、現代的再評価の施策として正しそうだった。


4/26〜6/3【7】

『プロジェクト・ヘイル・メアリー』(作:アンディ・ウィアー/訳:小野田和子)、読了。

久々にずっと先が気になる本だった。夢中で読み終わった。未読だけれど、おそらく『火星の人』の一人語り型小説の発展形なのだろう。

帯がネタバレになってしまっている、と言われていたが、読んでみて言わんとすることはわかった。この小説は、全く内容を知らずに、主人公と同じ「(自分に)何が起きているのかわからない」状態で読み始めるべきだろう。

見事に計算された構成で場面ごとに様々な状況が作られていて、その度に主人公がピンチやトラブルに陥る。しかし、彼はどうにかして前向きに行動して、主に理系分野の広範かつ多彩な知識と、それをうまく生かす知性をフル活用して絶対に諦めない。その不屈の意志の推進力となるのが、ユーモアなのが良い。ユーモアを持って、自分を宥めたり慰めたりしながら問題解決に向かう姿に、心を動かされる。読んだ時期が近いので、何となく『三体』とも比較しながら読んだが、このユーモアの有無が大きな違いだと感じた。

作中では、深刻な問題解決のために、いろんな人物が大胆かつ斬新なアイディアをたくさん出すのだけれど、それでちゃんと読者を驚かせる著者が凄い。


4/8〜4/26【6】

『ニワトリと卵と、息子の思春期』(繁延あずさ)、読了。

ある日、著者の息子が「ニワトリを飼いたい」と主張する。その行動が家族にもたらした変化と日常の記録。著者は写真家でもあるそうで、綺麗かつわかりやすい写真が添えてあるので、非常に読みやすかった。

まず、読み始めてすぐに、ニワトリを飼いたいと訴える長男のパーソナリティに関心を覚えた。自立心が強く、行動力があり、決めたら実行してしまう彼の意志の強さが、本書の展開を左右していく。ここに生じる家族との摩擦の中にある苦悩や学びが、本書の第一の魅力だろう。一人の少年が中心となる点から『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(ブレイディみかこ)なども思い出したが、本作の少年の方がより激しく周囲(主に家族)とぶつかっていた。

とある家庭の生活の記録であり、本来的には固有の事象の連続に過ぎないはずなのだが、かすかに『あるある』のような普遍性が脳を掠める感覚があった。買うことに決めた決定打となったのは、冒頭の『ゲームを買いたい長男を止められない』と著者が悟るシーンだった。

考えてみれば、確かに親が反対しようとも、お金さえあれば子どもでもゲームは買えてしまう。(中略)これまで、“お母さんに同意されたい”という子どもの気持ちを、ずっと利用してきたことに気づかされた。そういう気持ちがなくなってしまえば、親の意向など何の効力もない。堂々とそこを突かれたことが、腹立たしくて、悔しくて、不安だった。

まず、この率直さにハッとさせられた。カッコ悪い話も言いづらい話も、ちゃんと語る意志を感じた。そして、親が子に対して優位性を持つ際のズルさの話に、とても深い共感を覚えた。親としても子としてもわかる話だった。

終始、この著者が多くを曝け出す調子で進めるので、ヒヤヒヤさせられた。


3/16〜4/3【5】

『Schoolgirl』(九段理江)、読了。

クールな装丁が良かったし、芥川賞候補作で短めなのでサラッと読めるだろうと考えて購入したが、思ったより読むのに時間がかかった。想定より飲み込むのに時間がかかる描写が多かった。

収録されている2つの短編には共通点があり、その部分に注目するだけでも作家性は十分に読み取れる。

まず、それぞれ立場も状態も異なるが、両作とも親子関係を描いている。

『Schoolgirl』は母の立場から娘との関係を描いているが、先進的な考え方をしている娘の話をちゃんと聞いていない。表面的に取り繕ってはいるが、「自分に難しい話を聴く能力が無い」という卑屈さを持って娘と向き合うので所謂健全な関係性を結ばない。

『悪い音楽』の高名な音楽家の娘である主人公は、父親からの干渉を拒み、明確な意思を持って期待に応えない。

どちらも親子関係に絡め取られない自立心を表現できているのかもしれないが、人権を主張するような健全さを感じないのが独特だ。その奇妙な読み心地を生み出した要因は、特異なパーソナリティを持った主人公を語り手に設定した点だろう。芥川賞受賞作において、この形式の最高峰として思い出すのが、村田沙耶香の『コンビニ人間』だが、今作はそれほど分かりやすくないし、笑えるポップさも無い。

『Schoolgirl』を読み始めた時、『娘の成長に戸惑う母』というありきたりの構図を想定してしまったために、途中で何度も認識をひっくり返された。例えば、『精神科医がおかしなことを言っている』と主人公が感じるシーンでは、最初は読者も主人公と同様に認識できるのだけれど、次第に主人公の受け取り方がおかしいのでは、と不安になる。そういう段階を経るように書いてある。他にも、14歳の女子になりきってセックスをするシーンでは、『そのおぞましさでセックスができなかった』となる展開を想像できそうなのに、ぐるっと思考した末に彼女は性的快楽を得ていて、読者としてはその思考に戸惑う。

『悪い音楽』の主人公も、最初は『無気力な音楽教師』くらいのバランスで読めるのだけど、途中から所謂サイコパス(あるいは、ソシオパス)として描かれているように感じる。サイコパスとして認識される人を語り手にして小説を書き切っている点は凄い。その描き方は、サイコパスという存在が社会によって定義されている、という表現にもなっていた。

また、両作は共通して、ヒップホップという音楽の手法を参照してる部分がある。『Schoolgirl』は太宰治の『女生徒』をヒップホップのようにサンプリングしてると言えるし、『悪い音楽』の主人公が作る音楽はヒップホップだし、韻にこだわる文章もあるし、タイトルでも暗示している。この手法を使う意図はわからないが、外部の文化を取り込んで新しい小説に取り組もうとする姿勢には胸が躍った。


2/8〜3/15【4】

『時代劇入門』(春日太一)、読了。

読者に優しく語りかけるような文体、難しい話の大胆な省略、わかりやすくまとめた説明。この本を読んで、著者が本気で時代劇ファンを増やそうとしている熱意が伝わってきた。観るべき時代劇作品や注目すべき時代劇俳優というまとめ方などは、そのコンセプトを十分に表していた。その結果、ちゃんと時代劇を観てみたくなった。

そして、最後の富野由悠季インタビューは、ガンダムファンからの時代劇ファン獲得のきっかけにもなりそうな内容だった。さらに言えば、これまで言及されていなかった視点での作家批評としての価値も感じた。今見れば、ガンダムの見方も変わるかもしれない。


2021/6/6〜2022/2/16【3】

『NEXT GENERATION GOVERNMENT 次世代ガバメント 小さくて大きい政府の作り方』、読了。

この本に書いてあることを参考にしてデジタル庁が動いているなら、未来には希望がいっぱい。マイナンバーがエストニアやインドのようなシステムのために使われるなら、国民にもたらす利益も大きい。役所とのやり取り特有の煩わしさが軽減されて素晴らしいだろう。

この未来を実現するために必須なのが、個人情報の適切な利活用だ。この点については、かなり整理された説明が書いてあって、その部分に一番の希望を感じた。

しかし、政府も企業もいろんな個人情報を漏洩しているのが現状で、どうしてもデータを明け渡すことに抵抗も感じる。早く信頼させてほしい。

本全体の構成がかなり変わっていて、メインは架空のインタビューのような自問自答なのだけど、その途中に挟まれるコラムや資料のページへ飛ぶように指示も入っていて、ページを何度も行き来することになる。まるでゲームブックのようで、楽しく混乱した。


1/19〜2/7【2】

『ガラスの街』(作:ポール・オースター/訳:柴田元幸)、読了。

小説の構造自体で遊んでいて、そのメタ構造や入れ子構造の中に、読者である自分が入っているような感覚に歓びを感じた。想像していたよりも、実験的で不思議な小説だった。古川日出男が妙に入り組んだ文章で勧めていたので読んだ(http://www.waseda.jp/inst/weekly/features/specialissue-review)のだが、読了後に読み返すと、言わんとすることは何となくわかる。

様々な作品を連想する刺激的な作品だった。素人が探偵の真似事をする様子からは夏目漱石の『彼岸過迄』、主人公が自分の行動を俯瞰で点検して分解する描写からは筒井康隆の『虚人たち』。また、作品内に作家自身(と同姓同名の人物)が登場するのは、エラリィ・クイーンなどの探偵小説のマナーに則っているのだろうけれど、作者が自分の作品に侵食されるような点は、チャーリー・カウフマン脚本の傑作映画『アダプテーション』の構造に近い。

ヘンリー・ダークという研究者の話や、作中のポール・オースターによる小説『ドン・キホーテ』研究が暗示するのは、本を書いた著者と書かれた本との関係性で、それによって、『この小説を書いたのは誰』で、『誰の話を書いているのか』と言う構造を強調していた。そこに、実際の著者であるはずのポール・オースターを絡めることで、『誰が読んでいるのか』という読者の意識にも揺さぶりをかける。

それらとは別に、細かい描写にも実験的なところは多い。特に、息子の方のピーター・スティルマンの滔々とした語りは衝撃的だった。言語化能力の欠落の一例をとても巧みに表現していた。

物語の展開にもその実験性は顕著で、父の方のピーター・スティルマンという人物が二人いる(パラレル的に分岐したかの)ような描写があったり、探偵小説のフォーマットを使いながら意図的に謎解きを放棄したりする。

小説内で起きること全てに理由があるわけではない、という姿勢が産む世界は、リアルとは違うけれど、現実の仕組に似ていて奇妙かつ魅力的だった。


2021/12/5〜2022/1/19【1】

『どうやら僕の日常生活はまちがっている』(岩井勇気)、読了。

前作同様、ラジオで話した内容をベースにしたエッセイが中心だが、最後に短編小説が入っている。エッセイの出来は前作とあまり変わらないかもしれない。だからこそ小説を入れたのだろう。常に新たな試みを好む著者らしい選択だった。

この小説はエッセイから生み出した作品という印象で、段階的に創作の度合いが色濃くなる様子を楽しめた。日常生活っぽい描写で進めていって、途中でファンタジーやSFのようなフィクションへの飛躍が強烈に入れ込んである。その部分を読んでようやく小説であることを実感できる。小説を読んで気づいたが、一挙手一投足を細かく描写しつつ、口語体で気持ちの説明を入れていく手法は、前田司郎氏の小説に似ているのかもしれない。設定も含めて、特に『恋愛の解体と北区の滅亡』を思い出した(絶対に影響を受けたわけではないけど)。

このスタイルは、ラジオのトークパートで急に妄想や理想を混入させて、現実に起きたことを過剰演出する手法と同じだ。異なるのは相方・澤部氏のツッコミが無い点か。小説というフォーマットでは嘘を書くのが当たり前なので、違和感が無くて不思議な感覚を得た。この作品は、小説というフォーマットを利用したボケのようにも読める。今後、著者が小説という分野をどう展開していくのか、はとても気になる。