始まりも終わりもなくなくなくなくなくない?

本来の私は文章をまとめられない。

だから、便宜的に、文章に始まりと終わりを作っている。それは私の思考が飛び散っていることに関係している。そういえば、昔、『跳びはねる思考』(東田直樹)という本を書店で見かけた時、「この言葉はわざわざタイトルにするようなことなのか?みんな跳びはねてるだろ?」と疑問に思ったが、「たぶんみんな違うね?跳びはねてない人もいるんだね?」と思えるほどには経験を積んでしまった。ちなみに、申し訳ないが、まだこの本は読んでない。ずっと気にはなってる。

といった具合に、この文章は割と飛び散った思考のまま書いてみてる。

 

私のこの飛び散る思考はADHD的なのだろう、と10年ほど前からよく思う。詳しくは書かないが、ADHDは発達障害の一種で、注意欠如・多動性障害だ。きっと診断はつかないし、グレーゾーンでもないかもしれないが、私はおそらく多動傾向の特性を持っている。落ち着きが無く、じっとしていられず、一つのことに集中しづらい。この特性に気づいていれば、学生時代も自分に合った勉強法を考えられて、もっと受験を頑張れたかも、という自省も時々する。いろんな思考が細切れに飛び交う。

 

これらの特性には、母親を見ていて気づいた。

母は異常と思えるほどの行動力の塊なのだが、あれは落ち着きが無いだけかもしれない、とこれも10年くらい前から思い始めた。会話もよく飛び、脱線する。衝動買いも頻繁だ。どれもこれもADHD的ではないだろうか。

これらの特性がすべて自分に当てはまるわけではないが、私はこれらに意識的になった結果、最近は抑制的に振る舞っており、社会人になって以降、親しくない人からは『大人しい人』と思われやすい。頭の中では事故のように思考が飛び跳ねぶつかり合っていても、そのことは目に見えない。

上記に似た表現が柴崎友香の『あらゆることは今起こる』にも書いてあった。

柴崎友香の本が元々大好きだったこともあり、ADHD的思考フローをそのまま書き留めたようなこの本は迷わず買った。彼女の小説にある、あらゆる時間が同時に存在するような文体は、ADHD的と分類することも可能だが、同時に、やはりそれはあくまで彼女特有のもので、その作家性の深奥に迫る内容でもあった。

「ADHDの人はADHDの人に興味を持つ」とも書いてあって深く頷いた。わかる(荒木飛呂彦先生の能力者バトル漫画『ジョジョの奇妙な冒険』に「スタンド使いとスタンド使いは惹かれ合う」っていう、なぜ彼らが出会うのかを説明するような法則が出てくるんだけど、それを思い出すよね。え?俺だけ?)。

このタイトルを見た時、エブエブだ!と思ったら、作中でも言及していた。エブエブとは映画『Everything Everywhere All At Once』のことだ。

アカデミー賞を取った最高のB級映画。劇場で爆笑しながら観た。

この映画のパンフレットによれば、監督の一人もADHDらしく、この作品自体がADHD的思考を映像に落とし込んだらしく、惹かれるのも納得だった。

 

ADHD的な特性を持つ人は、作家や映画監督などの表現者にも多いのだと思う。あの人もそうだろうな、と思い当たる人も多い。

 

ADHDに限らないが、発達障害を漫画の題材にすることも増えたように思う。

完全に当事者のルポエッセイ的な『発達障害なわたしたち』や、明言していないが、発達障害に近い症状を持つ人々を描く『君と宇宙を歩くために』『どくだみの花咲くころ』『違国日記』などは、楽しく読んでいる。

と、こんなところで、この日記も終わりにしようか。ここまで書くのに2年以上かかってしまった。思ったより脱線もしなかったし、割とまとまった文章になっちゃったかも。何が言いたくて書き始めたのか忘れてしまったが、別に問題も無い。

本来の私は文章をまとめられない。





 

 

 

2026年前半に観た映像の記録

頑張って劇場に行ったが、まだまだ足りない。

もっと観たい。ゴーゴー。

 

6/29【10】

『スーパーガール』(クレイグ・ギレスピー監督)を観た。

痛快なアクションシーンはあったが、簡単に気持ち良く乗れないところがあり、それはなぜだろう、と考えながら観た。

まず、マッドマックス×スターウォーズみたいな既視感のある世界観に乗れなかった。オリジナリティのある宇宙観って難しいんだな。『スーパーマン』があったとはいえ、一作目は地球が舞台でも良かったのでは、とか考えたが、「いや、そうなると、スーパーマンが絡んでくるか…」という感じで、結構舞台設定から難しい作品だとわかる。

パンフレットによると、たくさんの言語を作って使っていたらしいが、英語が公用語っぽいのは、やはり気になった。仕方がないとはいえ。宇宙人が言語以外でコミュニケーションを取っている可能性やコミュニケーションを取らない可能性も考えたが、映像化が難しいのだろう。地球人が楽しめるものにもできなそう。

しかし、物語の描き方自体にも乗れなさがあって、男女を対立する存在として描き続ける点と、登場する殆どの男性キャラが愚かな存在として描かれている点がとにかく気になった。物語的な必然はあっただろうか?こういうのは2010年代くらいには多かったかもしれない。

その上で、スーパーガール自身のキャラクターも大半のアクションシーンも大味で、いっぱいビールとか飲みながら見ればもっと楽しめたかも、とは思った。

 


5/12〜6/5【9】

『三体』シーズン1をNetflixで観た。

原作をしっかり楽しんで読んでいたので、ドラマは答え合わせ的になると思っていたが、想像以上に原作をパズル的に組み替えていて、「あれ…?この人があの話の人…?」みたいな楽しい混乱があった。長編小説から連続ドラマへの翻案としてめちゃくちゃ巧妙で、物語を省略する手法としてキャラクターに物語的要素を託して纏める、というやり方は考えたこともなかった。その省略によって失われたSF的説明もたくさんあるのだが、それはドラマのテンポを考えれば仕方が無いだろう。1話ごとにちゃんと話を引っ張るようにしてある点も、Netflix的でよく出来ていた。第1部の最大の見せ場である残酷な破壊シーンも最高の映像化を成し遂げていた。ちゃんとシーズン2も気になっている。

 


6/1【8】

『SAKAMOTO DAYS』(福田雄一監督)を観た。

何となく抵抗感があった監督の映画だが、子供が見たがったので観に行った。観る前にどこが嫌なのかを考えると、あの独特の無音で長くやる気まずい笑いのやり取りみたいな部分じゃないかと思い当たった。今回、幸いその部分は少なかった。隣の席で、それに該当する部分で子どもが大笑いしていたので、ああ、別に監督は間違ってないのかも、と少し思い直した。俺に合わないだけか。

でも、俳優にやらせる過度な変顔も苦手だった。

アクションは思いの外良くて、良いアクション監督が入ってるらしかった。なんで嘘っぽくなるのかな、とは思ったが、それは予算の問題なのだろうか。漫画原作には合っていた。ジェットコースターでの攻防と、電車内での攻防はMCU的な良さがあった。

生見愛瑠氏は原作のキャラに対して目が大き過ぎて違和感がありそうと思っていたが、とても合っていた。目が大きいままやり切ってて、単純に演技の上手さを感じた。上戸彩も、違う方向で年齢を感じさせない凄みがあった。

 


5/31【7】

『スター・ウォーズ マンダロリアン・アンド・グローグー』(ジョン・ファブロー監督)を観た。

ドラマ同様みんなが好きな『スター・ウォーズ』の良いところを詰め込んでいる。カーチェイス、ドッグファイト、小さき者たちの活躍、酒場、闘技場は、みんな好きだよね?という非常に二次創作的な『俺の考えたスター・ウォーズ』感はあったが、エピソード7のような焼き直しっぽさは無く、好ましかった。ルーカス作品にあった時代劇っぽさや西部劇っぽさが前景化している点もドラマシリーズのままだ。

その一方で、物語とアクションのスケールが、多少劇場向けになっていた。また、始まってすぐの敵のウォーカーの中で奥のドアから手前に向かってくるシーンは、エピソード4のダース・ベイダー登場シーンへのオマージュらしかったが、マンダロリアンのスピーディなアクションが素晴らしくて、2026年に公開するにふさわしいアップデートっぷりを感じた。ドラマとの最も大きな違いは、物語部分にあり、グローグーがすっかり頼りになる相棒になっていて、タイトル通りのバディムービーになっていた点だろう。お互いに頼りにしている点は楽しかった。

 


5/5【6】

『ザ・スーパーマリオギャラクシー・ムービー』(アーロン・ホーヴァス&マイケル・ジェレニック監督)を観た。

映画だったのだろうか。自分の意思で動かせるものは無く、ゲームではあり得ないほど上手いカメラワークのシーンもあったので、ゲームではなかった。他人のゲームプレイを見ている体験に近いだろうか。大画面かつ実況無しの。しかし、ゲームの設定に近いものを引用した世界観の中で、ゲーム的なCG映像が、細かくカットされた状態で連続で流れているのだから、それはゲームっぽく感じるのも仕方ない。

この作品自体は、40年以上にわたって親しまれてきたゲームが生んだ結果であり、今後ゲームをやりたくなる原因になり得るプロモーション作品でもある、という点は不思議な円環も感じた。

子どもたちが漏れなく楽しそうであったという結果だけを、幸福な記憶として受け取ろう。

 


5/1【5】

『オールド・オーク』(ケン・ローチ監督)を観た。

『わたしは、ダニエル・ブレイク』で国家や政府に向かっていた怒りは健在なのだけど、その射程がもっと大きな世界の現状へと向かっていて、その問題の大きさと複雑さに打ちひしがれそうな心を、奮い立たせながら立ち向かっていた。どの国もどの民族も他人事では無い。

絶対にそんな大予算があるわけないのに大規模な撮影をしているように見えるシーンがあり、これはこの作品を作りたい・作らねばと心の底から考える善意の積み重ねで出来ているのかな、と勝手に想像した。もしそうならその事実自体が感動的だ。

 


4/19【4】

『劇場版名探偵コナン ハイウェイの堕天使』(蓮井隆弘監督)を見た。

子供と一緒に観たが、流石におかしなところが多過ぎるのでは。わかりやすさを重視した結果だろうが、色々端折り過ぎでは。子供に延々とツッコミどころを伝えたりした。

以下、その内容を箇条書きで列挙。

  • 犯人に捕まった蘭が大事にされ過ぎていて、車の後部座席でシートベルトつけて座らされてた。
  • なぜコナンは爆弾解体ができてヘリが操縦できる?もう説明不要?
  • なぜベイブリッジに限定できる?他の可能性もまだまだあるのでは?それって推理か?
  • みんなライダースジャケット着てるの面白い。バイクモチーフの映画だから。
  • ぱっと見でそいつのやってる格闘技がジークンドーだとわかるか?
  • 劇場版ゲストキャラがほぼ全員悪い奴ですごい。
  • AKIRAとエヴァの影響をうっすら感じた。バイクの走行シーンや、機械のカラーリングなど。
  • 警察が率先して交通ルール破ってレースするの???さすがに…???
  • 服が汚れてるだけで疑う?バイク乗ってた頃の服を洗ってなかっただけかも?

総じて、これを映画として数えるのは、無理があるかも、とも思った。

 


4/5【3】

『プロジェクト・ヘイル・メアリー』(フィル・ロード&クリストファー・ミラー監督)を観た。

あの素晴らしい原作の見事な翻案!

本では、「どこにいるのかも何が起こってるのかも全くわからない」という主人公の状況を、読者が同時に体験していき、上巻の終わりで「え?そういうリアリティラインの物語なんだ?」ってカマされる構成になっている。完全にビジュアルの無い状態から創造していく体験は読書体験としても稀有だ。その特殊さはネタバレできないという暗黙の了解も作り、その口コミはSNS向きだった。そんな本の映画化なので、どうするんだろうと思ったら、はっきりと映画向けに取捨選択をしていた。本のネタバレもあまり気にせず予告編で公開して、小難しいSF設定はかなり端折って、子どももワクワクできるようなスピルバーグ的エンターテインメントSFに仕上げていた。完璧なビジュアル化で、ほぼ違和感も無かったので、この作品は今後このビジュアルと完全に紐付いてしまった。だから、全くの事前情報ゼロで楽しむ読書体験は、難しくなってしまったかもしれないけれど。

音楽も良くて、シーンの感情に寄り添う劇伴も大胆なポップス使いも聴きやすかった。ハリウッドスターのヒーロー的なマッチョじゃない主人公も、ちゃんと具現化しつつ魅力的に仕上げていた。

しかしながら、作品の場外の話ではあるが、原作者の「社会風刺はしない」発言はちょっと変だと感じた。無自覚でも、作者は帰属する共同体する社会の感覚を表現してしまうのではないだろうか?例えば、『ヘイル・メアリー・パスというアメフト用語が世界的プロジェクトの名前になっている』という設定自体が、アメリカ中心主義を表し過ぎているのでは?と要らぬ反発を感じてしまうので、作者は社会を背負ってしまうことを自覚してほしい。

 


3/12【2】

『しあわせな選択』(パク・チャヌク監督)を観た。

かなり変な映画で楽しめた!コメディでありながら、サスペンスでもあり、暴力描写も存分にあって、それらが未分化で、爆笑しながら血の気が引くような感覚もあって、その歪なバランスが唯一無二だった。

その象徴となるのが主人公のイ・ビョンホンで、小市民的なしょうもなさもあるが、それと並行して、ある種悪魔的な残酷さを表現するシーンがあって、その妙なバランスを体型・表情・立ち振る舞いの全てで体現していて凄い。

この監督の他の作品は『オールド・ボーイ』しか観たことが無いのだが、いつもこんな独特の映像編集をするのだろうか。左右で対置しながらバラバラに出来事が進む映像を多用したり、オーバーラップで現れた映像がやたらと動いたり喋ったりする異様な映像には、首を傾げながらも、ハリウッド的な映画表現からの逸脱に成功した自由さを感じた。

そして、いつもこんなに強すぎる女性が出てくるのだろうか?家父長性の強さは感じるものの、その中でもはっきりもの言う強さがあった。

宇多丸氏と鈴木みのり氏のラジオでこの監督とこの作品について話すのを聴いて、各表現に含まれるフェミニズム的表象、韓国社会をそのまま象徴的に描く作家性などに気づかされて唸った。

あのラストシーンにある静謐な恐ろしさが示す『しあわせな選択』=『No Other Choice』の風刺性の鋭さは、まだ余韻が残っている。

 

 

 

1/17【1】

『プレイ・ダーティ』(シェーン・ブラック監督)を観た。

新年一発目にふさわしく、不謹慎さと悪ふざけっぷりが最高峰の映画。

ライムスター宇多丸氏が年末のラジオで『銃で撃たれて踊る死体』という話を何度もしていたので、気になって観てみた。なるほど、確かに不必要なほどに銃弾で何度も死体が踊る!思わず笑ってしまう!

マーク・ウォルバーグ演じる主役のパーカーは、非情過ぎるほどクールかつキレ者なのだが、なぜか作戦の殆どがうまくいかない。このバランスが絶妙で脚本の巧さを感じた。先が読めないスペクタクル状態が延々と続くのだが、その原因となるのが大抵誰かの馬鹿げた失敗であり、パーカー自身に過失が無いようにコントロールされているので、彼だけはカッコイイまま話が進む(リーダーなので、それも含めて彼の過失なのだが、そう思えないように仕組まれている)。その脚本の巧さを引き出す演出と演技に過不足は無く、90年代ハリウッド映画オマージュの犯罪アクション映画として、最高だった。

線香の匂いがする間くらいは

2026年8月15日。夕暮れ時、家の近所を歩いていたら線香の匂いがした。一瞬理由を考えてしまったけど、お盆だからだろうな。あれ?まだお盆なんだっけ?ああ、終戦(敗戦?)の日だから?まいっか。とにかく、線香の匂いを嗅ぐと、祖父母の家を思い出す。私が祖父母の家に行くのは大抵お盆で墓参りのためだったから。でも、もう祖父母はこの世にいない。みんないなくなった。父方の祖父の家は跡形も無くなった。数年前、祖父が亡くなるとすぐに、子ども達(マイファーザー達)は躊躇無く実家を取り壊して更地にした。いいね。ドライなもんだ。駐車場になったんだっけ?マンションになったんだっけ?本家だと聞いたことがあったが、そんなに由緒ある家でも無かったんだろう。どうせ出自も農民だ。あの辺りには同じ苗字の墓がたくさんあったし、つまんない苗字だし。本家の意地らしきもんはあって、そのせいで毎年法事があって、文句を言ってた親族らしき人達も脳裏に浮かぶ。祖父の葬式では、近所の住人と私の父が揉めていて、「おっなんだなんだ喧嘩かな」とお祭りに出くわしてワクワクしたような気持ちで詳細を聞くと、祖父がその住人の家にゴミを投げ入れていたらしいことが発覚した。他人事だから笑った。当事者が死んでもご近所トラブルは現世に残るんだな。でも、きっとその住人も、もうそこにはいないだろうな。家が無くなっても、実は祖母は施設で生きてたけど、数年後に亡くなった。幼い頃、祖母はセミの取り方を教えてくれた。でも、もう私はセミの取り方を覚えてないし、怖くて触れないだろう。全ての日々は遠ざかっていく。お盆に祖父母の魂が帰ってきてるかどうかは知らないけど、線香の匂いがする間くらいは、思い出で帰って来るのかな。悪くないな。

2026年前半に読んだ本の記録

急に思い立って、年始から新旧の芥川賞受賞作を何冊か読んだ。思い返してみれば、私は芥川賞受賞作が昔から好きだ。短くて新しい(ことが多い)から。

それで、結構な数を読んできたつもりだったけど、調べたら今まで170回以上あって、読んでないのまだまだあるじゃん、と。ついでに当時の選評も読んで、自分の感想と比べたら面白いんじゃね!?と思ったけど、それはまだやってない。

記録として読んだことある作品を書いておく。

32回(1954下)

『アメリカン・スクール』小島信夫

38回(1957下)

『裸の王様』開高健

39回(1958上)

『飼育』大江健三郎 NEW!

75回(1976上)

『限りなく透明に近いブルー』村上龍

113回(1995上)

『この人の閾』保坂和志

119回(1998上)

『ゲルマニウムの夜』花村萬月

126回(2001下)

『猛スピードで母は』長嶋有

127回(2002上)

『パーク・ライフ』吉田修一

130回(2003下)

『蹴りたい背中』綿矢りさ

131回(2004上)

『介護入門』モブ・ノリオ

138回(2007下)

『乳と卵』川上未映子 NEW!

140回(2008下)

『ポトスライムの舟』津村記久子

144回(2010下)

『苦役列車』西村賢太

155回(2016上)

『コンビニ人間』村田沙耶香

167回(2022上)

『おいしいごはんが食べられますように』高瀬隼子

170回(2023下)

『東京都同情塔』九段理江

171回(2024上)

『バリ山行』松永K三蔵 NEW!

 

芥川賞 過去の受賞作品一覧:オンライン書店Honya Club com 参照)

改めて調べてみて、劇作家の唐十郎が受賞してることや、吉行淳之介と吉行理恵が兄妹で受賞してることに驚いたりもした。

17作か。どんどん増えていくので、どんどん読んでいかないと。

 

 

6/29

『置き配的』(福尾匠)を読み始めた。

置き配的

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5/27〜6/27【13】

『カササギ殺人事件』上下巻(作:アンソニー・ホロヴィッツ/訳:山田蘭)、読了。

なるほど、よく出来ていた。

始まった瞬間、「は???」という仕掛けがあるが、それを置いたままアガサ・クリスティー(ポワロ?)へのオマージュだろうと思える小説が始まる。その結末は単純に気になるものだが、上巻最初の仕掛けが下巻の最初に機能し始めると、もう一つの事件が顕になり始める。

実はメタ的な構造を持っていて、その構造の中を読者に行き来させながら謎解き度合いを操作していく。そのやり方が非常に巧かった。ポアロ的小説内の事件と現実に近い世界の事件では、事件の質も探偵のキャラクターも推理の流れも全く違うのに、とても巧く成立させていた。

最後の方で明らかになる言葉遊び的な要素は、和訳も頑張ってはいたが、英語圏の人間の方が存分に楽しめたのだろうな、という悔しさと残念さは感じた。

調べると続編が何冊もあるらしいが、どうやって成立させているのだろう、と気になるところはある。

 


5/8〜5/25【12】

『急に具合が悪くなる』(宮野真生子 磯野真穂)、読了。

映画観る前に読まなきゃ、と読んでみた。往復書簡のやり取りから、とにかく二人の気持ちが伝わって来る本で、直後はわからないところもあったが、読んでから時間が経って徐々に湧き上がるように感じ入るところが生まれた。

自分はもうすぐ死ぬかもしれない人に、どんな声をかけられるだろうか。偶然性と関係性についての本だ。死ぬかもしれない相手にかける言葉には、逡巡と躊躇いと気遣いが込められていて、死ぬかもしれない人から出てくる言葉には、常に静かな覚悟が含まれている。二人の関係は、やり取りした言葉と時間と眼前の死で揺さぶられる。相手を巻き込むことと巻き込まれることは、簡単な矢印で説明できる状況ではなく、複雑に相互に関係し合うのだ。

この関係性と彼女たちの覚悟をどうやって映画にするのだろうか。

 

 

4/25〜5/8【11】

『中学受験はやめなさい 高校受験のすすめ』(じゅそうけん)、読了。

2024年に同じ著者の『中学受験 子どもの人生を本気で考えた受験校選び戦略』を読んでいたので、返す刀でこんな本を書いているのが面白くて、ずっと気になっていた。2冊を比べても著者の主張は大きくブレていなくて信用に足る。中学受験にも高校受験にも当然メリット・デメリットがあり、強調する部分は変えているが、その内容をフェアに伝えていると感じた。

私は地方の公立中学出身で、何故か内申点が高かったことについて、それは『相対評価の時代で、荒れていた私の中学では高評価を集められる人が少なかったからだろう』と考えていたのだが、本書の内申点を稼ぐ行為についての文章を読んで、自分の性質に思い当たった。以下の通りである。

将来日本の企業社会でやっていきたいと思うのなら、こちらの「内中点稼ぎ」の能力は必要になってきます。伝統的日本企業の評価制度は、それこそ内申点と同じように、「意欲的に頑張っている(ように見える)」といった曖味な理由で出世が決まります。そのため、10代のうちからこうした「上の人に好かれる」トレーニングを積んでおくことで、未来の自分に感謝されることになるはずです。

(P105)

「あ、俺って無意識のうちに上の人に好かれるように振る舞ってるのか???社会人になっても内申点稼ぎしてる???」とげんなりした。この気づきが正しいのかどうかはわからない。なぜなら、中学の内申点が高かったであろう同じ高校の奴らも全員そうなのか、というと、よくわからないからだ。

それにしても、どう考えても、俺が教師に好かれるように振る舞っていたとは思えない。でも、嫌われないようにはしていたかもしれない。それは面倒事を避けるためだった。そんなことで良いのか、となぜか自分の人生を省みる結果になった。

 


3/17〜4/22【10】

『死者の奢り・飼育』(大江健三郎)、読了。

この著者は、長編より短編の方が切れ味が鋭いかもしれない。

冒頭に描く特異かつ先が気になる設定と、その設定から逸脱したり拡張したりさせる展開の凄まじさに、何度も驚かされた。誤解していたのだが、文学的な表現などよりも、その唯一無二の面白さが純粋に圧倒的だった。時折何を言いたいのか文意がわかりづらい文章もあったが、全体的に鮮烈に表現する情景描写も脳裏に焼きつく。

芥川賞を取った表題作『飼育』も描写がキレキレで、キラキラ眩く光る世界の中に、グロテスクに蠢く生命の姿を顕現させていて、そのコントラストの激しさに興奮した。政治的ニヒリズムから端を発するのだろうが、戦争を馬鹿馬鹿しいものとして捉えている作家性も大いに感じた。

そして、『人間の羊』もヤバかった。最初の特異な状況設定、それを超越して逸脱する展開の読めなさ、異様な情景を確実に表す描写、戦争の孕む馬鹿馬鹿しさ。先に挙げた全てが詰まっていて、読みながら何度も言葉にならない声が出た。

 


4/4〜4/5【9】

『どろぼうたち』(大どろぼう編)、読了。

絵本の一種だと思って買ったが、どうやら展覧会の図録に近い商品だった。右ページにフィクションか実在かを問わない泥棒たちの名言を載せ、左ページにその泥棒の絵を載せる、という構成になっていた。かなり薄いページ数だが、鈴木智彦氏の後書き的な解説は大変興味深かった。泥棒は重い罪でありながらヒーロー視される存在でもあるという点については、新しい視点を得たように思う。

 


3/14~3/15【8】

『やらなくてもいい宿題』(結城真一郎)、読了。

中学受験の経験者である著者が、中学受験特有の問題を入れ込んで書いた初の児童向け小説。

あらすじとしては、『算数の得意な主人公(小学生)が、謎の転校生から出される算数の難問に何度も挑戦するうちに、関係性に変化があり...』という感じ。

おそらく大筋を作ってから、その物語の展開に当てはまるように、中学受験っぽい問題を作問(引用?)して書いた小説なのだろう。一度は間違えるようにそれらしい答えを用意しつつ、捻った本当の正解を用意している。この構成を相当考え抜いて作っていて、児童書としても中学受験(あるいは中学受験の問題)に興味を持たせるゲートウェイとしても、破綻無く成立させていて感心した。

 

 

2/7~3/12【7】

『ロイヤルホストで夜まで語りたい』、読了。

とにかくいろんな人がロイヤルホスト愛を語っていて、その利用方法や思い出を語っていた。何度も出てくるメニューもあって、どれも食べてみたくなったし、コスモドリアはやっぱり最高だよな、季節のパフェは毎回食べたいよな、の気持ちも確認できた。朝井リョウのクイズ形式の文章には全然答えられなくてその膨大な知識量に単純に驚いたし、最後の藤井隆とハリセンボンの二人の鼎談は想定通りの優しさに満ちていた。それらの驚きも安心感もロイヤルホストの在り方とつながっていた。

 

 

3/1~3/4【6】

『青天』(若林正恭)、読了。

『今・ここ』に熱中できた日々(若林正恭『青天』を読んで/オードリーのANNを踏まえた上で) - ほうる、ほうる、ほうる


2025/9/23~2026/2/10【5】

『マンガ 統計学は最強の学問である』(原作・解説:西内 啓 マンガ:うめ)、読了。

『マンガ』と冠してはいるが、読み物のページも多く、普通にビジネス書だった。冒頭の『AIの時代に、なぜ統計学が必要なのか?』というキャッチーな序文にものすごく引き込まれて買った。その答えは実際の文章を読んだ方が良いが、簡単に言うと『統計学の知識を活かせば、AIの代替しづらい「新たに何をするか考えて決める仕事」ができる可能性がある』、ということに尽きるだろう。この複雑化が進む現代社会における希望の書となっている。文中の統計学についての解説も、専門用語は難しく、少しずつ読み進めることになったが、内容としては極めて平易でわかりやすい文章となっていた。

そして、うめのマンガが面白過ぎる。ちゃんと『東京トイボックス』を思い起こさせるアツさ。読み終わって、統計学を仕事の何かに生かせるはずだ、と確信めいた興奮を覚えた。序文にあった通り、スラムダンクを読んでバスケを始めたように、統計学を始めたくなる本だった。

 

 

2/2~2/7【4】

『バリ山行』(松永K三蔵)、読了。

会社勤めが長くなってきたから存分に楽しめたのだと思う。

登山と会社勤めは全く似ていないのに、奇妙に接点を作り出し、この二つの要素を巧みに絡めながら話を進めていく。その中心には主人公と同じ会社に勤めている妻鹿という人物がいる。

読みながら、昔からこういう物語形式の本はあった、と気づいた。芥川賞受賞作に多いかもしれない。主人公の一人称で全てを知覚しながら話を進める形式で、とある変わった人物に出会うことで、大なり小なり事件や変化が起きたりする話だ(これに当てはまらず、語り手本人が奇妙な人物のまま進める『コンビニ人間』の凄みにも改めて気づいた)。

この小説の一つの特徴として、とあるタイミングまで風景も心情も簡潔かつ機能的な描写で進んでいく、という特徴がある。純文学の作品には珍しい気がするのだが、途中から主人公の知覚も心情の揺れも覚醒したように啓かれたものになり、鮮烈な表現が連なっていく。この急激な変化がまた面白かった。

 

 

1/18~2/1【3】

『言語化するための小説思考』(小川哲)、読了。

小説を書くことの楽しさと大変さが丁寧かつ分かりやすい言葉で書いてあって、小説に少しでも興味があれば楽しく読める本だった。

私が「小説書いてみたいな」と思い始めてから何年が経ったのだろう。保坂和志の『書きあぐねている人のための小説入門』も読んだことがあるし、何度かトライしたこともあるけれど、到底満足できるものにはならず、この欲望はただただ停滞していたが、とあるラジオ番組で小川哲氏が九段理江氏と話している時に「小説を書くと、もっと小説が楽しく読めるから、みんな書いた方が良い」(大意)と話していたのを聴いて、また気持ちが再燃した。そんな折に、その発言者本人である小川哲氏がこんな本を出していたので、買った。

そして、読み終わって背中は押されたが、小川哲が小説を書くために考えていることの質と量に圧倒されてしまった部分もある。彼は小説を書くために必要な作業をいくつもの行程に分解し、ひとつひとつ見事に『言語化』してしまう。おそらくわかりやすく言語化するために単純化したり省略した部分はあるはずだが、それでも読み応えたっぷりだった。例えば、著者と読者のマッチングを諮るために生まれた『小説法』という概念などは大変汎用性が高く、自分の小説法を考えさせられた。また、小説という表現フォーマットそのものを分解して、『小説はリニアに順番に言葉を書いていくしかないので、どの情報をどの順序で書くのか、という部分に文体が宿る』と喝破してた部分にも唸るしかなかった。

一番驚いたのは、こんなに読者のことを考えているのか、という点だった。言われてみれば、読者を想定しなければ、いろんな語句の説明がどれくらい必要か、などは考えられない。なるほどな、と感心していると、著者が急に読者に語りかけるような瞬間もあって、ギョッとする。その瞬間は第4の壁を突き破って観客に語りかけてくるデッドプールなども思い出した。

 

 

2025/5/15~2026/1/18【2】

『あさつゆ通信』(保坂和志)、読了。

とにかく個人的な記憶を刺激する小説だった。どれくらい著者の体験したことなのかはわからないが、その固有の経験から綴られているらしい精緻な文章が、即効にせよ遅効にせよ、俺の個人的な記憶を呼び起こし、様々な思考と読書という行為そのものを頻繁に中断した。だから、読むのに半年もかかった。見開きが新聞の連載の1回分となっており、その右上から左下まで読む間に必ず話が変わる。それは展開や転換や拡張のような物語に奉仕するものではなく、脱線や迂回に近い。そして、ページをめくるとその前に起こったことは覚えていられないし、覚えていなくて良い、という小説になっている。いかにも保坂和志の本を読んでいる、という感じがした。木の枝振りを執拗に描写する点なども健在だった。最後に度を越したエロガキが出てくる場面だけは、理解しがたかったが。昭和だから、と許せる話ではなく、あの描写の登場人物だけは小説の全体のトーンを逸脱するほど絶対的な悪だと感じた。あんな描写が新聞に掲載されたのだろうか。という考え方も社会に毒されてる、とでもいうのだろうか。不愉快な描写があっても構わないが、あまりに無防備かつ手離しの肯定は受け入れがたかった。

 

1/4〜

『アントカインド』(作:チャーリー・カウフマン/訳:木原善彦)を読み始めた。長い。

 

 

2025/12/25~2026/1/3【1】

『乳と卵』(川上未映子)、読了。

表題作は登場人物が女性3人だけで、内容も女性の身体性に関することに終始していて、若干異常に感じるほどにミニマルな世界での話だった。語り手の主人公も女性で、関西弁で独特のリズムで語るのだが、それがテンポが良いわけでもない。つっかえつっかえしながら、ですます調や体言止めを交えながら語り続ける。Wikipediaによると、かなり樋口一葉の影響を受けているらしいが、その影響元を読んだことがなかったのは無念だった。微かにあるストーリーラインとしては2本走っていて、『なぜか豊胸を考えている主人公の姉の巻子についての話』と、『初潮を迎えることや大人の女性になることに抵抗がある上に何らかの理由で言葉を発さなくなった巻子の娘・緑子についての話』があり、彼女たちが主人公のいる東京の下宿に泊まる、という小説だった。

ずっと女性の身体に関する話で、もし2026年に書かれればより女性の生きづらさにフォーカスするかもしれない。このテーマ設定は樋口一葉から引き継いだものだったのかもしれないが、2026年現在でもまだ有効だと感じた。

それにしても、この本が2007年に発行されて翌年芥川賞を受賞したという事実には、色々と思うところがあった。一番印象に残ったのは、その難解さだった。意図的に主人公の心情描写を排し、見る・感じるだけのカメラのような存在にしている効果なのかもしれないが、「なぜこんなことが起きるんだろう」と感じるシーンの連続だった。「それが純文学である」「芥川賞受賞作にふさわしい」という意見もあるのかもしれないが、『コンビニ人間』や『おいしいごはんが食べられますように』など最近の受賞作にこんな難解さは感じなかったので、もしかしたら時代性もあるのかもしれない。

乳と卵

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『今・ここ』に熱中できた日々(若林正恭『青天』を読んで/オードリーのANNを踏まえた上で)

私は運動が得意ではなく、その分野で殆ど活躍したことの無い人生を送っているが(いや、他の分野でも無いが)、中学も高校も運動部に所属していた。

その理由は、「運動をしていないとストレスが溜まってしまう体質だから」くらいに考えていたが、『青天』を読んで、「俺は部活中の『今・ここ』だけに集中できる瞬間が、大好きだったのでは」と気づいた。過去も未来も、恥ずかしい失敗の記憶も将来への不安も、できていない勉強も始まらない色恋沙汰も、周囲の全てが自分と無関係になったように、ぐーっと圧縮された、あの『今・ここ』。それは文化部でも体験できたのかもしれない。あるいは、帰宅部でもきっとできた。部活じゃなくても良いはずだ。

しかし、個人的な体験として、俺は運動部の部活が好きだった。

『青天』を読んでいて、全然感動的なシーンとかじゃなかったのに、気づいたら涙が出ていたことがあった。それは「部活を好きだった自分に気づいたから」らしかった。アメフトはやったことがないし、この小説の主人公のように純粋に部活だけに打ち込めた経験も無いけれど、その時間の尊さとその喪失の切なさを断片的にでも感じられて、胸が痛くなった。

若林氏は小説が大好きで、どこまで自覚的かはわからないが、色々な表現に様々な文学作品の存在を感じさせるような(簡単に言えば文学的な?)言い回しがあってその使い方もグッときた。そこには好きなものを絶やさないように繋いでいる感覚があった。

そして、試合の描写になると、語彙がだいぶ減って表現が単純になっていて、あれは部活の運動で感じる感覚をよく表していた。物語が進むにつれて、主人公の能力が上がって、感じ方と表現に変化がある点も良かった。

読み始めてすぐに「青春小説だ」と感じ、『GO』(金城一紀)や『69-sixty nine-』(村上龍)や『ネバーランド』(恩田陸)などを思い出したが、ここまで部活に集中したものは読んだことが無かった。

『オードリーのオールナイトニッポン』では、彼がどのように小説が書いたか、を明言したりしなかったりしながら語っていた。痛みの表現を考えるために痛みを体験したり、官能小説を読んで肉体的な表現を学んだり、当時の試合を思い出すために当時の雑誌を買い漁ったり同級生に会ったりしていた。その様子の楽しそうなことと言ったらなかった。

羨ましい。そんな気持ちを味わいたい。

私に書ける物語を探してみたくなった。

 

 

2025年後半に観た映画の記録

2025年は16本しか観てないが、敢えて順位をつけるなら、

1位:『ワン・バトル・アフター・アナザー』

2位:『リンダリンダリンダ 4K』

3位:『リアル・ペイン 心の旅』

4位:『スーパーマン』

となる。

 

1位の『ワン・バトル・アフター・アナザー』は観た直後にはめちゃくちゃ興奮したのだけど、いろんな人の評が耳に入ってくる中で、少し揺らいでしまった。簡単に言うと『政治的にリベラルな人が好きそうな内容であり、なおかつ、この姿勢は現在の世界情勢に対して有効ではないのでは』という批判を耳にした。自分は娯楽映画寄りの見方をしていたため、そこまで気にならなかったが、もっと深くまで感じ入ると、そういう視点もあったのだろうか。それでも、好きだった。

2位の『リンダリンダリンダ 4K』は、子供との鑑賞が個人的にとても感慨深い映画体験だったから。あの頃の私も今の私を見ていた。

3位の『リアル・ペイン 心の旅』は、その丁寧な描写で静かに心を打たれたから。泣かずにいられなかった。

4位の『スーパーマン』は、単純に娯楽作品として好き。やっぱりスーパーマンもジェームズ・ガンも好き。

 

 

12/8

『ブレイキング・バッド』(シーズン1)を今更見始めた。


12/14【16】

『ズートピア2』(バイロン・ハワード監督、ジャレド・ブッシュ監督)を観た。

引き続き最高でアガった。物語の根幹や形式としては1作目をなぞってる部分も多かったが、エンターテインメント性が上がっていた。その分、社会批評的な要素は後景化していた。このバランスの変更によってシリアスさが減ってはいるが、社会問題を考える第一歩として、より多くの人にリーチしているのかもしれない。観てすぐにアクションできなくても、潜在的に問題意識を埋め込まれた気がする。

例えば、ズートピアに爬虫類がいなかった問題は、何かの直接的なメタファーではなくても、とても普遍的な問題を扱っていて、アメリカ先住民の問題やパレスチナ問題を思い起こすことを起こし得る。爬虫類をWASP以外の人種が声優をやっていることからも、それは意図的だと感じた。

そして、そもそも大前提として、映画館で見るべきスペクタクルやアクションが盛り盛りだった。展開に次ぐ展開で、ノンストップでストーリーを進めながらハラハラドキドキさせ続けた。

ニックがジュディに先に心情を吐露するシーンは前作と対になっていた。

『レミーのおいしいレストラン』などのパロディもあったが、やはり『シャイニング』のパロディには笑った。どのパロディも軽やかな扱いで、その点も良かった。隣で見ていた子ども達も大喜びで、ここまで万人受けする作品に仕上げている点にも驚いた。

 


10/12【15】

『ワン・バトル・アフター・アナザー』(ポール・トーマス・アンダーソン監督)を観た。

こういう映画を観たくて映画を観ているんだ、俺は!ずっと最高だった。ずっと爆笑していた。縦長で観たいシーンが多く、どうしてもIMAXで観られなかったことだけが残念。

常に何が起きるかわからない緊張感があるだけでなく、それだけでサマになる画面の連続で、それが映画の体裁を取っている異常さに慄く。

何と言ってもあのラストのカーチェイスの凄さ!見たこと無さすぎる!

脚本もすごい。原案となったピンチョンも読んでみたいが、ディカプリオが映画内の問題解決に何ら寄与しないのは、凄過ぎる。なんでこんな脚本になるんだ。ディカプリオとショーン・ペンが会うのはほんの一瞬だけ。それでも『家族愛』という普遍的なテーマだけに収斂していくのも面白い。各自が持つ情報は、共有されない部分が多く、その状態を保たせている点にも唸る。

それでも、どんなに変な状況でも、父親が子(人が人)を思う気持ちだけが存在していて、その尊さに胸を打たれた。

音楽は途中レディオヘッド過ぎる不穏な場面もあったが、かなり映像を煽るように鳴り続けていた。若干音楽が多過ぎる気はしたが、考えてみれば、『リコリス・ピザ』もそうだったか。

キャラクターの面白さも凄い。娘役のチェイス・インフィニティはその凜とした存在感が素晴らしいし、センセイ役のベニチオ・デル・トロはずっと変なヤツなのに只者ではない強者感を漂わせていて良かった。ディカプリオはカッコよくなくて活躍しないけど憎めない父親を、綱渡りみたいなバランスで演じていて、とても魅力的なことがすごかった。

 


9/22【14】

『木曜殺人クラブ』(クリス・コロンバス監督)をNetflixで観た。

名匠の仕事!ミステリーをこんなに気楽に見られるコメディに仕上げるのは流石。編集のテンポの良さと、キャラクターのわかりやすさがその秘訣だろうか。随所に『ハリー・ポッター』感や『ホーム・アローン』感があるのは、作家性というやつだろう。いや、音楽もジョン・ウィリアムズ感もあるような。おそらくイギリスらしいウィットやブラックユーモアは原作にあるのだろう。

 


9/22【13】

『劇場版『チェンソーマン』レゼ篇』(吉原達也監督)をIMAXで観た。

原作にある性的な欲望に明け透け過ぎる主人公・デンジの様子は、やはり観る人を選ぶだろうな、とは思うが、怒涛のアクションシーンがとにかく圧倒的で、キメ画もめちゃくちゃカッコいいし、映画館で観るべき迫力があった。レゼやデンジの戦い方のギミックもディテールも、原作にめちゃくちゃ付け足す形で表現されていて、飽きさせないように工夫されていた。『映画らしさ』を最大限伸ばしていた。

しかし、『鬼滅の刃』同様に物語の途中の映画化で、原作であれアニメシリーズであれ、『チェンソーマン』に触れたことがない人は観ないのではないか。映画から観る人がいたであろう『鬼滅の刃』が外れ値と考えるべきなのだろう。

 


9/11【12】

『国宝』(李相日監督)を観た。

これだけ激烈な高評価なのだから…と謎の義務感込みで観たのが良くなかった。事前情報を入れ過ぎたのも良くなかったのかもしれない。歌舞伎に関心が薄く、世襲制を疎ましく思っているのも良くなかったのだろう。それらの複合的な理由で、そこまで熱狂はできなかった。

莫大な制作費と、微に入り細に入りこだわっている美術には目を奪われるし、役者の演技もどれも迫真だった。特に吉沢亮、横浜流星、渡辺謙、田中泯の演技は鬼気迫るものがあった。子役の二人も10代特有の美しさを湛えていて素晴らしかった。

しかし、彼らの演技に委ねるところが多過ぎるように感じた。歌舞伎の知識が無い私のような観客は吉沢亮の凄さを感じるためには、彼を観る人々のリアクションで判断するしかなかった。彼自身の歌舞伎の所作は「凄そう」なことしかわからなかった。ズームインが多いのはボロが出ないためであり、吉沢亮の顔を映すためなのだろう。

そして、長い原作を端折ったために、どうしてそうなったのかわからないシーンも多かったように思う。なぜ仲違いした人が、時間が経っただけで和解しているのか。そういう細かい疑問は多かった。

また、私はコントロールされきっていない映像に惹かれるので、この映画に向いていなかったのかもしれない。

唯一、演出で好きだったのは、吉沢亮と横浜流星が殴り合った後、それを車中で見ていた森菜々が狼狽えるシーンだった。吉沢亮が乗り込んでも車を出せない、という結末は感情を細かく表現していて良い演出だと思った。

 

 

8/24【11】

『リンダリンダリンダ 4K』(山下敦弘監督)を観た。

胸いっぱい。当時は映画館で観てないが、この映画を妻子と映画館で観るとは。そんな未来は想像できなかった。子供もそれなりに楽しんでいて、もう実写の邦画も楽しめるんだ、とちゃんと成長していることがわかった。

青春映画として普遍的な部分があることはわかるが、作品の端々に時代性も感じた。保坂和志が柴崎友香の『きょうのできごと』を『ストレンジャー・ザン・パラダイス』以降の作品として評した空気を思い出した。あの時代にはこういう空気の作品があったが、2025年とは問題意識がだいぶ異なっていて、ある種のファンタジーのようにも見えた。

この歳になって観て、当時の自分が彼女達の所作や会話の(いわゆるオフビートな)雰囲気に呑まれていたことがわかった。色々と演出の意図もわかった。例えば、ソンが一人で舞台に立つシーンが、本番での感じ方とのギャップを顕著に表現している点に驚いた。その一人の舞台のシーンも、単独で名シーンとして成立していた。韓国語の彼女は、皆といる時とはこんなにも別人だったのか。

最後の演奏シーンで校舎内の風景が切り取られているのも、年を取って観ると意味が強まっていた。あれは失われるのがわかっているから美しいシーンだったのか、と。刻一刻と失われていく少年少女の時代が、ドラマチック過ぎない映像に刻印されていた。

20年経つと、私は少女達には移入できず、顧問の先生役の甲本雅裕の立場で彼女達の青春を大事に見守りたい、という意識が強くなっていた。

何かを誰かと一生懸命頑張った、という経験が我が子にもあってほしい、と切に願った。

忘れられないシーンはいっぱいあるけれど、特に部室に映像を閉じ込めたようなレイアウトの中で、彼女たちが演奏する『僕の右手』の一瞬の輝きには、涙が出た。


7/27【10】

『劇場版『鬼滅の刃』無限城編』第一章 猗窩座再来』(外崎春雄監督)を観た。

まずは無限城を観る映画。現実には存在し得ない空間が広大な奥行きを持って描かれている。この世界観を大画面で堪能できるのは、すごい映画体験。『ドラゴンボール』のアニメを思い出し、岩山みたいな背景ばっかりだったな、とか思うと、その発展には隔世の感がある。それを背景にした上で、天地左右がよくわからなくなる凄まじいアクションが展開されて、それもやはり凄い。

しかし、やはり長さは感じる。いくら何でも石田彰の語りが長過ぎる。原作通りだから仕方ないことではある。ここまでファンムービーが人気になっているというのはすごいことだ。


7/18【9】

『スーパーマン』(ジェームズ・ガン監督)を観た。

俺は結構スーパーマンという作品に触れて来たのだ、と気づいた。映画『マン・オブ・スティール』も観てたし、ドラマ『ヤング・スーパーマン』もアニメ『ジャスティス・リーグ』も結構観てたし、アメコミ『スーパーマン:アメリカン・エイリアン』も読んでいた。それらのいろんなユニバースで触れたスーパーマンはみんな繋がっていて、今作は様々な記憶を刺激した。

そして、あらゆるユニバースを凌駕して最もクリティカルだったのは、レックス・ルーサー!この最新のレックス・ルーサーが悪役として最高過ぎた。レックス・ルーサーはスーパーパワーを持ち合わせておらず、最高の頭脳だけを武器にするヴィランで、描き方によっては弱者として同情を買いかねない。『The BOYS』ならBOYS側を、『AKIRA』なら鉄雄ではなく金田を応援したくなるのと同じ道理だろう。そのキャラクター設定の難しさをひっくり返すほど、完全なヴィランとしての魅力に溢れていた。【スーパーマンを倒すこと】を社会的課題のように設定し、スタートアップ企業のカリスマのように振る舞う姿は、新自由主義の成れの果てのバグのメタファーとして、とてもクリティカルな表現だったし、最終的に人間(のようなもの)を格闘ゲームのように扱う姿も端的に彼の稚拙さを表していた。

テリフィックがレックスの基地に乗り込む際の表現は『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』っぽくて、ジェームズ・ガン節を感じた。

クリプトの演技凄すぎない?犬は賢ければ駄犬を演じられるもんなの?

SNSに駄文を入力してる奴らが畜生であるという表現は、皮肉でもありつつ、監督の私怨もあるのでは、と疑った。

今回のスーパーマンは、ビジュアルが完璧でありながら、人間らしさを増していて超魅力的。どう見てもイスラエル・パレスチナ問題にしか見えない問題にも踏み込んでいて、監督の気概も感じた。

ヒーローは優しくなくてはいけない、という原則に立ち返っていた。

2025年後半に読んだ本の記録

なるほど、わたしはこの半年、小説を読み切っていないらしい。なぜだ?わたしは今は物語を必要としていないのか?元々、わたしは小説しか読めない人間だったのに。不思議だ。

あの頃のわたしと、今のわたしは違う人なのだな。

まあ、いいんだ。何でも読むんだ。どんどん読むんだ。

 

12/21

『僕らは戦争を知らない』(監修 小泉悠)を読み始めた。

 


2025/12/19

『乳と卵』(川上未映子)を読み始めた。

乳と卵

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11/15〜12/18【15】

 『風雲摩天楼秘帖』(山下洋輔)、読了。

ニューヨークを闊歩し、ジャズクラブで演奏したり、レコーディングしたり、酒を飲んだりしながら、飄々と過ごす日々の記録。読みながら頭に浮かんだ言葉は、『軽妙洒脱』。交友録の趣きもあり、ジャズ界隈の有名人の名前がチラホラ出て来るが、その描写に深刻なものは無い。淡々と渡り歩くだけ。

先日、山下洋輔が今年で演奏を辞めるらしい、という噂を聞いて、とある公演を見ることになった。そのための予習として、人から貰い受けて積読してあった本書を読んだ。想像よりも怖い人じゃなかった。海外進出した日本人ジャズピアニストの先駆者であり、燃えるピアノを演奏したりしたアバンギャルドなミュージシャンだという印象だったが、この本からはそんな要素は感じられない。

例えば、スペインのハモンセラーノという生ハムに狂ったようにハマってしまう話などは、その熱狂ぶりに大いに笑った。その辺りの軽やかなユーモアは、タモリや菊地成孔に継承されているのを感じた。

一方で、筒井康隆との影響関係は興味深かった。ジャズで繋がる部分は想像できたが、途中妙に文体が彼に似てる場面があったり、彼から筒井康隆に文体のアイディアを提供したという話もあって、想像以上に密接だった。当時のジャズ界隈を知るのに良い資料でもあった。

 


11/9〜11/13【14】

『地球と書いて<ほし>って読むな』(上坂あゆ美)、読了。

著者は、短歌集やポッドキャストと矛盾無く、そのまま真っ直ぐ最短で世界の芯を捉えようとする。そして、あとがきでも書いてあるが、その嘘の無い言葉での予告剛腕右ストレートが、恐ろしくも、どうにも面白い。

内容としては、短歌集でも仄めかされていた『パンチが効いてる家族』がテーマの話が多い。著者はその環境の影響を強く受けているのだろう。その経験が培った考え方の話もある。

作家が歌人であるゆえの構成だろうが、『エッセイ』→『それにまつわる短歌』という流れで話を締めるやり方もカッコいい。そして、常に短歌にも文章にもハイレベルな読みやすさとわかりやすさが備わっている。

 


10/25〜11/9【13】

『ありえない仕事術』(上出遼平)、読了。

ポッドキャスト番組『奇奇怪怪』で「この本には、仕掛けがある」と聴いて、気になって購入した。

上出遼平という人物の仕事を見ていて、単純なビジネス書を書くとは思えなかったが、ここまで変わった仕組みの本を出すとは思わず、素直に驚いた。ビジネス書の体裁を取っているのは序盤だけで、途中から上出氏の仕事の事例紹介のような体裁の文章が始まる。ジャンルで言うとノンフィクション小説のような文章なのだが、読んでいくうちに「あれ、これは読むモキュメンタリーかも」と半信半疑になっていく。序盤のビジネス書的リアリティも効果的で、その文章全体が生々しいのだが、徐々にこの文章のジャンルは曖昧になる。途中は感動的なドキュメンタリーの要素が強かったはずなのに、最後にはサスペンスにすり替わっていた、という調子だった。俺は何を読んでいたのか、という驚きと混乱が楽しかった。筆者の感情を伝える技術も巧くて、その変容するジャンルに合わせて適切に言葉を使っていた。

『ビジネス書は筆者自身が正しいと思うことを伝えるのが前提である』という構造を利用していて、どんどん筆者の考えと自分の気持ちが乖離していく体験がありえなくて、初めての奇妙な感覚を体験した。

 

 

9/23

 『マンガ 統計学が最強の学問である』(原作・解説 西内啓 漫画 うめ)を読み始めた。

 

 

9/10〜10/25【12】

『ほんとうのことは誰にも言いたくない』(ヤマシタトモコトモコ)、読了。

ほとんど『違国日記』しか読んだことない状態で楽しめるかな、という懸念は杞憂だった。読んだことのない作品についての解説・語りが、それだけで成立するくらい面白く読めた。インタビュアーの方の知識量と事前準備がちゃんとしてるから、というのと、そのインタビュアーの方はヤマシタトモコ氏がリラックスできる相手らしい、という点がこのインタビューを成立させていた(確認したら、よしながふみ氏の本でも仕事をしていた。なるほど)。

色々と知らない考え方を知った。驚いたのは、二次創作とBLの2点についてだった。

二次創作が創作の練習のためのキットのようなもの、というのは考えたこともなかった。確かに、用意してある設定を使った練習になるのだ、と考えれば、その分野から新人が出てくるのも納得できる話だ。

BLという分野が、現実の社会状況と違って、女性が性的な対象から外れているから読みやすいというのは、何かで言及しているのを読んだことがあったので、BL雑誌が女性を描くのを嫌がるという話は普通に納得した。だから、BLは男性が擬似的に性的に搾取・消費される対象である点が、男性である私にとって読みづらい原因だったのか。また、BLにおける性行為が男性性を崩壊させる行為になる場合もあるという点にも気づきがあった。

それでも、ヤマシタトモコ氏は人と人の感情の交換を描いていることが多く、それはジェンダーに関わらない地平を目指しているようにも思えた。多くの作品に通底する「人と人はわかりあえない、それでも」というテーマには強くうなずいた。平田オリザ氏の『わかりあえないことから』も思い出した。

 

 

9/1〜9/10【11】

『ルポ特殊詐欺』(田崎基)、読了。

なぜこの本を手に取ったのか、と言えば、社会の闇への下世話な好奇心を掻き立てられ、『闇金ウシジマくん』を読む時のような気持ちで買ったのではなかったか。浅はか過ぎた。特殊詐欺は全く他人事では無く、自分の生活と隣り合わせだった。多くの場合が、金欠・貧困をきっかけに巻き込まれていくが、その過程の克明な描写には息を呑む。この本で紹介される人の殆どが、軽はずみに「闇バイト」などと検索しただけなのに、どんどん抜け出せなくなる。ちょっとした軽犯罪を犯すことは意識したのだろうが、いつの間にか強盗などの暴力を行使する犯罪行為にまで発展してしまう。読んでいるとその流れは必然なのだが、その抜け出せなさがどんどん恐ろしくなる。自分の子供が陥らないようにするにはどうすれば良いのか。SNSやアプリを巧妙に駆使して全体像を掴めない手法には、得体の知れない恐ろしさを感じる。結局のところ、ヤクザが絡んでいることが多いという話も含めて、その闇の深さは全貌が見えなかった。

 


6/4〜8/31【10】

『あらゆることは今起こる』(柴崎友香)、読了。

自分のADHD的特性が気になることが増え、作品や作家にその特性があると惹かれる。柴崎友香がADHDだと診断されていて、このタイトルの本(ADHDに着想を得ている映画『エヴリシング・エヴリウェア・オール・アット・ワンス』からの引用に違いないと思ったが、厳密には違うようだった。本の中でこの映画も言及はされている)を出すと知って買わずにはいられなかった。帯に書いてある『ある場所の過去と今。誰かの記憶と経験。出来事をめぐる複数からの視点。ーそれはわたしの小説そのものでもある。』という煽り文句も素晴らしい。私が柴崎友香にいつも惹かれているのはまさにその部分であり、その混濁したような感覚を味わうために読んでいたのだ、と気づいた。

その前提で読み進めると、先に述べた彼女の世界の解釈の種明かしのような部分を楽しみつつ、柴崎友香本人が生活の中で抱える苦しさと可笑しさが、リアルに迫ってくる。今回の文体には、そのADHD的感覚をリアルに反映させていて、あらゆることが今起こったかのように、括弧を駆使しながら話が脱線を繰り返す。『ADHDあるある』みたいな話は、笑いながら読める部分もあるけれど、やはり人によって症状はかなり異なるようで、柴崎友香の挙げる特性は『ないない』ばっかりで、私の特性は軽度で生活に支障を来たす程ではないのかも、と改めて考えた。

 

 

5/15

『あさつゆ通信』(保坂和志)を読み始めた。