結局、いろんな国の本を読むという年間目標はあまり達成されなかった。『コンヴィヴィアリティのための道具』『動物農場』『ペンギンの憂鬱』以外は、アメリカ産か日本産だった(出身国と活躍した国の相違なども起きているので、この括りもあまり意味が無い、と途中で気づいた)。まあ、仕方ない。
読みたい本を読むことが思想の偏り(ならびにその強化)に繋がる懸念 VS 読みたくない本を読む苦痛・時間の勿体無さ。そんな葛藤を抱えても、一貫して、「多種多様な本に触れたい」とは思っている。
今は何が好きなんだろう?
純文学?SF?ミステリ?ノンフィクション?エッセイ?新書?
ああ、それらは全部好きだ。
と考えていくと、ハウツー本やビジネス本が苦手に思える。読まず嫌いも良くないので、少しかじってみるか。
また、2019年は意識的に男女両方の作家を満遍なく読んでいこうと思っている。
以下、ネタバレありの感想群。
11/29
『島の果て』(島尾敏雄)を読み始めた。
11/14~11/28
『100年のジャズを聴く』(村井康司×後藤雅洋×柳樂光隆)、読了。
最近のジャズは、昔からのファンじゃない俺にもわかるくらいに、百花繚乱だ。
でも、実は昔からジャズは面白かった。では、どのように面白かったか?どのように今のジャズになったのか?それを、世代と職業の異なる3人が、お互いのジャズ観をすり合わせたりぶつけたりしながら、解き明かそうとする試みだった。
一番上の世代の後藤氏は老舗ジャズ喫茶の店主で、一番下の世代の柳樂氏はDJ経験もあるジャズ評論家・インタビュアー。この二人は世代の違いと職業の違いが顕著なので、ジャズの捉え方もかなり違った。前者の古参然とした徹底的な消費者視点と、後者のジャズの外側にも目を向けつつ楽曲制作者に寄り添う視点では、衝突が起きるのは当然のようにも思える。そこで、ジャズ史の評論も書いている村井氏が、調整者的にうまく働いているような場面が多く見られた。少なくとも本には生産的な議論だけが残っていた。世代的に柳樂氏がかなり離れているせいもあるだろうが、2対1になる場面も多かった。
90年代くらいのジャズの受け取り方についての議論が面白かった。柳樂氏の言う「助走期間だった」という説明に大いに納得した。
いろんなジャンルでこういう本があればいい。文学でも映画でも。いろんなジャンルの歴史から現在を繋いで語るのに、3世代での鼎談は有効だと思う。既にあるのかもしれないけど。
それにしても、3人の知識量には単純に驚く。
もちろん、ディスクガイドとしてもめちゃくちゃ優秀だった。
耳も時間も足りない。
11/5~11/14
『ペンギンの憂鬱』(作:アンドレイ・クルコフ/訳:沼野恭子)、読了。
「ロシアの話」くらいの認識で読み始めたが、読んでいくうちに「ソ連解体直後のウクライナの話」だとわかって、じんわりと物語の背景が見えてくるという体験をした。
それがわかるまでは、この小説がどのくらい現実に即して書いてあるのかわからなくて、
「結構物騒な地域だな。治安悪いな」
「ペンギンを飼っていることはそんなに一般的なのか?」
と湧き上がる疑問を保留しながら、慎重に設定を飲み込みながら読むことになった。SFを読んだ時のようなこの体験は、海外の小説を読む歓びの一つだろう。
憂鬱なペンギンのミーシャに感じるこのかわいさは何だろう。全編通してかわいさがずっと炸裂していた。動物園とかで見たペンギンの目を思い出すと、何を考えているかわからない動物特有の目をしていたはずだ。実際の心情はわからないが、そこに憂鬱さを見出すのは簡単なように思える。
ミーシャのこの不思議なかわいさが無ければ、この小説は不穏さ・不気味さ・不安を与える薄暗さが強くなり過ぎる。解説にもあったが、それはおそらく当時のウクライナの社会情勢を色濃く反映しているのだろう。
主人公は好きでもない仕事を仕方なく受けただけのつもりだったのに、いつの間にか人間関係が増えていき、疑似家族まで持つことになり、おかしな謀略めいたものの端っこに巻き込まれている。末端にいるからだろうが、組織らしきものの実体の見えなさが恐ろしいし、同時に滑稽だった。疑似家族への感情移入の無さも面白い。
そして、とにかくコーヒーにコニャックを入れる描写が連発するので、あの地域では本当に暖を取るためにコニャックを飲むし、本当にみんなお酒強いんだなあ、と改めて感心した。
- 作者: アンドレイ・クルコフ,沼野恭子
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2004/09/29
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10/22~11/2
『アンソロジー カレーライス‼︎』、読了。
「カレーは他の食べ物とはちょっと違うなー」くらいに軽薄に考えていたが、この本を読んで認識を改めた。カレーは他の食べ物とは全然違う!らしい。
カレーは、作る方も食べる方もやたらとこだわりたくなるし、麻薬的に強烈な食欲を喚起する恐ろしい食べ物みたいだ。だから皆がカレーにまつわる思い出も持ちやすいようだ。
この本は、カレーについて、いろんな人がいろんな角度から言っている短編を集めたアンソロジーで、今まで読んだこと無い人の文章も多々あった。知ってはいたけど読んだことなかった、という人も多かった。そういう人たちへの入り口としての『カレー』は十分に懐が大きい。どんな語りも大抵許せる。
そういえば、多くの人がカレーライスとライスカレーの違いに苦慮しているのも面白かった。
池波正太郎のカレーライスの作り方は真似してみたくなるし、寺山修司の「カレーライス好きは保守的な人間が多い」という偏見たっぷりの決めつけには大いに笑ったし、内田百閒は相変わらず偏屈ジジイだし、藤原新也の紹介してた10時間玉ねぎ炒めるカレーは素直に食べてみたい。阿川親子や吉本親子を載せているのも面白い。カレー観は家庭で共有するもんでもないらしい。
また、カレーの匂いまでしてきそうなほど凝った装丁がまた良い。カレー色した紙の上に載った文字を読み進めていくと、佐内正史が撮ったカレーの写真が時折挟まっている。腹が減る。
10/4~10/22
『燃焼のための習作』(堀江敏幸)、読了。
誰かとの会話が豊かな時間になることがある。この本を読むまで、その嬉しさを忘れていたかもしれない。人との会話が時折生み出す楽しいグルーヴが、この小説にはしっかりとパッケージングされていた。
探偵と助手と依頼人が主な登場人物だけど、派手な事件は起きないし、はっきりとした謎は無いし、だから解決するものも無い。嵐の夜の探偵事務所で、探偵と助手が、初めて会った依頼人と、お茶を飲んだり軽食を食べたりしながら、いろんな記憶を手繰ってぼんやりとした話をする。
そんな小説だった。そこに、形の無い実りを感じるような、心地よい時間が流れている。
脱線したり、本筋らしきものに戻ったり、脱線に見えたものが本筋らしくなったりしながら、フラフラと会話は進んでいく。会話というのは言葉だけではない。同時に描写される、登場人物達のちょっとした思惑、何気無い動作、表情の変化。その細かさが会話の中に生まれる世界を肯定するような空気を作り出している。
この会話は緻密に計算して書いているのだろう。いろんな情報の出てくるタイミングがとても巧い。
ずーっと読んでいられる。
9/26~10/3
『オブジェクタム』(高山羽根子)、読了。
「小説よるインスタレーション」というようなフレーズはどこで見かけたのだろう?そんな感じのフレーズを見て気になって手を伸ばしたはずだけど、ソースは思い出せなかった。このフレーズが全てを表すわけではないけど、言いたいことがよくわかる表現だった。
3編とも『すこし不思議』的SF要素の気配だけが感じられる。はっきりとしない何かが存在する世界を、詳細な描写の積み重ねで築いていた。作中で起こる事件の因果関係や正体は明示されないが、確かに何かがあった。
インスタレーションを鑑賞した時、気持ちが動くことがある。動く理由は様々だろうけど、記憶を刺激されていて、記憶の同調やズレが感情に波を起こす作品がある。表題作の『オブジェクタム』には、幼い頃の原風景や気持ちを想起する柔らかな刺激があった。
しかし、インスタレーション的体験には、頑張ってわかろうと思って、無理に心を動かそうとしてしまう場合もある。読み終わって少しそんな気分にもなった。
8/31~9/25
『芝生の復讐』(作:リチャード・ブローディガン/訳:藤本和子)、読了。
アメリカンドリームなんて言葉はそっちのけで、思い出の中だけに夢と希望があった。潰えた夢を思い返しながら、彼らはうらぶれた日々を過ごしている。それもいかにもアメリカ的だと感じる。アメリカは大きい。
読むまで短編集だと知らなかった。本当に短い短編が多くて、短編の断片ような文章もある。量が多くて全ての短編を覚えておくのは難しいが、短いので読み返しやすいし、心に残る短編もいくつかあった。『裏切られた王国』というビートニクの享楽と退廃に身を委ねた様子を描く作品は、その時代特有のジョークのようで面白かった。
岸本佐知子のあとがきを読むと、名訳らしい。しかし、少し文体が古過ぎて入り込むのに時間がかかった。唐突に飛躍して超現実的に変わる表現などは原文が気になった。良い意味で原文が気になるということは、名訳の条件を満たしているのだろう。
- 作者: リチャードブローティガン,Richard Brautigan,藤本和子
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2008/03/28
- メディア: 文庫
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9/19
『さよなら未来』(若林恵)を読み始めた。
9/9~9/16
『長い猫と不思議な家族』(依布サラサ)、読了。
和田誠の装丁に惹かれて手に取った。
だから、依布サラサのことは『井上陽水の娘』で、『音楽活動をしている人』ぐらいの認識だった。
全体的に率直で平易な文章で書かれたエッセイで、ストレス無く読めた。大抵のアーティストの文章は詩的な言葉が難解なイメージもあったので、それは意外だった。
読んでいると、やはり良いエピソードの多くには井上陽水が絡んできてしまう。陽水とのエピソードや、陽水から学んだ人生訓のようなものを読んでいると、公私問わず全身アーティストなのだけど、部分的にそこからはみ出した井上陽水を知れて、それが面白かった。
一方で、母親の石川セリについての知識が自分には全く無かったのだけど、陽水とは違う方向でアーティスティックでエキセントリックな面があって、この人が絡むエピソードも面白いことが多い。
そんな二人の娘であることは、かなりプレッシャーになっているようだけど、一人の人間として両親と違う道に進んでいくことで、それを受容したようだった。その上で書いている文章なので、思考や気持ちが整理されていて、読みやすい。井上陽水の好きな歌の解説などは、その結果の産物で、かなり俯瞰して見ているようだった。
著者がシングルマザーだったりする事実からすると、あっさりし過ぎている印象もあったけど、この本はcryよりjoyが多めの良いものに仕上げたかったのだろう。
9/4
またしても本が繋がったと実感している。『芝生の復讐』が超短編を集めた本だと知らなかったのだけど、それを読んでいると『菊地成孔の粋な夜電波』にあるテキストリーディングを思い出す。多分、出来事の省略の仕方や超現実的な事象の語り方が似てるんじゃないだろうか。
8/23~9/1
『菊地成孔の粋な夜電波 シーズン1-5 大震災と歌舞伎町篇』(菊地成孔)、読了。
番組の音楽以外の部分をそのまま書籍化することに成功している。読むと菊池成孔の声で再生できる。
文字で読むとラジオと結構違う受け取り方になる。『声』という情報を削ぎ落としていることで、話してる内容の異様さが際立つ、という感じか。
また、改めてこの番組がバラエティ豊かな内容だと確認できる。小説のようにも読めるテキストリーディング、戯曲のようにも読めるコント、エッセイのようでもあるフリースタイルのトーク、というように書籍ならではの感じ方にもなる。そして、しつこいくらいに繰り返される前口上。若干多過ぎる気もしていたが、読んでいるうちにクセになってくる面白さがある。
震災の直後に始まったために、あの時の非日常感も最初の方には封じ込められている。ようやくラジオが普通に聴ける日常になった、という歓びと、それが失われる不安を思い出した。
8/17~8/23
『動物農場』(作:ジョージ・オーウェル/訳:高畠文夫)、読了。
表題作の寓話性は非常に高度に成功していて、2018年での各国の政府にも当てはまる部分がある強い普遍性を持っていた。支配者の意に合わせて後から法律を変えたり、仮想敵を想定して市民の不満を誘導したり、「最悪だった昔より良くなっている」という論理を持ち出して人気を得るやり方は、今でも使われている気がする。市民は、俺たちは、騙されてはいないか。
読んでいる間、動物たちは古いディズニーのアニメ経由で脳内再生された。
動物たちが持つ能力でどこまでの行為が可能なのかわからないのが面白い。最終的に豚があんな風に動物を逸脱するとは思っていなかったので、え?そこまでいけるんだ?と驚いた。ブラックユーモア溢れるラストにはイギリスらしさを感じた。
『動物農場』以外の小説には、この文字通りの意味に受け取っていいのかな、と思える文章が混ざっていた。最初は皮肉なのかなと思っていたけれど、解説を読むと筆者は率直に感想を書いていたようだった。『象を射つ』の緊張感溢れる心理描写にはグッと引き込まれた。
開高健のあとがきや解説を読むと、ジョージ・オーウェル自体に大いに興味が湧く。『動物農場』が終戦と共に売れたというのは知らなかったし、心底納得した。支配者の圧政に鋭敏な感覚には感心しきりだったが、それに振り回された人生は辛そうだった。
8/13~8/16
『ハレルヤ』(保坂和志)、読了。
世界を肯定する力が一番強くて一番好きな『生きる歓び』が最後にも入っているけれど、この短編集自体が『生きる歓び』の発展形であり、より強い意思で世界を祝福している。
3歳の息子と一緒にいるとわがままとしか思えない要求がたくさんあって、それに応えていくのはだんだん苦痛になっていくのだけど、これを読んでいる時期に一緒に散歩していたら、何にも苦痛じゃないどころか、心に妙な余裕もできて、一緒にいるだけで楽しくて仕方なくて、目が開いたような、世界が変わったような気持ちになって、とても幸せになった。
夕暮れ時、一緒に歩道橋に登って、同じ高さを横切る電車を指差したり、歩道橋をくぐっていく車の色や種類を「白、白、黒、白、青白バス白白…」と挙げて笑っていたあの時間は、家にある『ハレルヤ』を見かける度に思い出す気がする。
死ぬこと、生きること、過去、現在がぐいーっとひとかたまりになっていくような文章だった。
『生きる歓び』以外の文章は、『未明の闘争』以降のわざと間違った文法でつっかえさせる方法をとっていて、「が」「の」などの変な繋ぎ方に最初はまた戸惑ったが、どんどんどうでもよく感じ始めたのは面白かった。
2016年に初めて『生きる歓び』を読んだ時に凄い好きだったフレーズがあったんだけど、2018年の俺はそれをスルーしてしまった。何回か読み返してやっと見つけたけど、自分のモードも変わっているらしくて、もっと全体の雰囲気で楽しめた。
世界を祝福する鳴き声は「キャウ!」。人間なら「ハレルヤ」と鳴くのだろう。
8/13
全く予想外だったが、『謎の独立国家ソマリランド』と『コンヴィヴィアリティのための道具』も繋がっていた。ソマリランドの上(政府・大統領)からではなく下(民衆)から始まる民主主義というケースには、イヴァン・イリイチも満足するのではないか。
8/1~8/13
『謎の独立国家ソマリランド そして海賊国家プントランドと戦国南部ソマリア』(高野秀行)、読了。
相変わらず高野秀行は最高!極厚のノンフィクションだったが、もの凄い勢いで読み終わった。
今回も高野秀行の体験をベースにした構成になっていて、ソマリランド~プントランド~南部ソマリアというソマリ人がいる地域を渡り歩いて、それぞれの地域とソマリ人について学んだ内容とその過程での体験談が描かれている。
思い返してみれば、今回、読み始めた当初、俺はソマリアについて全く知識が無かった。『アフリカっぽい』ぐらいしか印象が無かった。それはあまりに無知過ぎるだろうが、高野秀行がこうやって書いてくれるまで詳細な情報は日本に無かったのだと思う(きっと他国でもおそらくそんなに無いだろう)。それだけでも偉業ではないか!
そんな未知の国家への潜入取材はまたも抱腹絶倒ものなのだけど、それは魅力的な登場人物によるところが大きい。人の話を聞かない・超速・傲慢などソマリ人の特性をわかりやすく体現するワイアッブが最後には大好きになるし、ホーン・ケーブルテレビ支局長のクールな女性・ハムディにはその剛腕っぷりをいつも期待してしまう。著者の現地の方との深い付き合い方と、それを面白おかしく描ける素晴らしい筆致の賜物だ。
そして、ソマリランドとソマリ人の話はいろんな考え方を教えてくれる。国連の功罪については漠然と知っていたのに、それでも俺は国連を『良い』団体だとしか思っていなかった。外側から国家にお金と意見を持って介入することの難しさ・傲慢さ・有害性を俺は意識できていなかった。それは新たな争いを生む可能性あるんだ。民主主義は、ソマリランドのように自主的に獲得するのが最善なのだろう。
そして、『氏族』のシステムには本当に驚く。最初、血縁主義的なものか、と古くさい伝統として侮っていたが、著者の調査が進んでいくうちに、そのシステムの高い機能性が明らかになり、氏族に入るための条件のどんでん返し的な話にはとても感心した。政治家だけで政治をやってるシステムがおかしいよな。そりゃそうだ。
ちなみに、氏族を日本の武将に例えたのは、最初はトリッキー過ぎるように思えたが、最終的には著者のファインプレーだとわかった。
そんな民主主義が根付いたソマリランドで、意見が対立しているのに同じ空間を共有できる人々が集うカフェの場面は、ソクラテスとかが対話で政治をしていたのを思い出すくらいに神話的だった。また、政治的な信条などが全く異なるソマリ人が一堂に会するテレビ局の場面も、多幸感に溢れていて、楽園的だった。著者の目を通して感動が伝わってくる。
ソマリランドは本当に面白い。自分の目で確認しに行くのが良いのだけど、俺には無理そうだから、俺はまた高野秀行が書いてくれた続編的な本も読んで、思いを馳せるのだろう。
高野秀行を信頼している。
謎の独立国家ソマリランド そして海賊国家プントランドと戦国南部ソマリア (集英社文庫)
- 作者: 高野秀行
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2017/06/22
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7/8~8/4
『地下鉄道』(作:コルソン・ホワイトヘッド/訳:谷崎由依)、読了。
アメリカの歴史は人種差別の歴史だ。この話はアメリカが始まった頃を描いているけど、その当時の差別問題は間違いなく今に繋がっている。
ヒヤリングした体験談も交えていたからか、と解説を読んで納得したが、黒人が強いられてきた過酷な状況描写が、とにかくめちゃくちゃ生々しい。差別なんて言葉じゃ済まない。奴隷は人間として扱われない、ということを初めて実感した。
でも、この小説はそんな勉強のためだけの本じゃない。
単純に凄く面白い。
主人公は逃げられるのか、というスペクタクルなメインストーリーを推進しつつ、ロードムービー的に沢山の人と出会い、いくつかの州を通り、いろんな事件に遭遇していく。
人種差別というシリアスでセンシティブな問題を取り上げながら、エンターテインメント性も高めていて、単純な娯楽作品にもなりかねないが、ギリギリのバランスで簡単には消費させない巧さがある。解説でも似たことが書かれていたが、全くその通りだと思っていた。
地下鉄道という空想の産物の入れ方も巧い。謎にしてある部分も多く、解説し過ぎないことで、リアリティを失わない。
主人公のコーラは女性で、性的に貶められる描写も多々ある。その部分には人種は関係無い。白人からは間接的に出産の自由まで奪われそうになる。ああ、そうか。あらゆる差別は自由に生きる権利を奪うんだ。そんなこと許されるわけがない。
黒人で女性で二重に苦しいコーラだけど、差別から解き放たれるために、自由を得るために動き続ける。逃げ続ける。戦い続ける。自由を得るために戦う物語として捉えると、この小説はいかにもアメリカの小説だ。アメリカは今も人種差別と戦い続けている。
4/18~8/1
『コンヴィヴィアリティのための道具』(作:イヴァン・イリイチ/訳:渡辺京二 渡辺梨佐)、読了。
とにかくどうにか読み終われた。普段読み慣れない内容だから、とても時間がかかったし、理解度に自信が無い。
全体を通して理想主義的で、現実と乖離し過ぎた提案をし続けているように見えた。
主な意見としては「この産業主義社会が破滅に向かうのを防ぐには、道具(人間が使うもの。制度も含む)に限界を設定して、人間の自立を促すべきだ。そして、人間の自立性を信じるべきだ」ということになるだろう。この主張は『このままでは産業主義社会は破滅に向かう』という前提で始まっていて、「なぜ破滅するのか」という問い自体もそれに対する答えも記述が無いように見えた。それは火を見るより明らかだから、って感じだった。その前提は感覚的にはわかるのだが、やはりこういう文章には論拠が無いとバランスが悪い気がした。
そして、肝心の『道具への限界設定』という提言が、俺には正しくは見えるけど、社会に浸透させる方法がわからない。その実践的な部分への言及も無いので、途方に暮れる。
しかし、産業主義を支える社会の仕組への鋭い指摘には、とても感心した。『医療も教育も成長を前提とした産業主義を助長している』というのは考えたこともなかった。これらの指摘が全面的に正しいとは言わないが、社会を支えるシステムの側面としてこの考え方を持っていると、だいぶ世界の見え方は違ってくる。
皆でより良い世界を目指すために、知っておくと役に立つ日がくるかもしれない。
7/6
本は繋がる。いや、繋がってしまうのは俺の読書だからだ。なるべく偏らないように意識はするが、読む本を選んでいるのが自分だからそれは起きる。イヴァン・イリイチの言ってることと、小沢健二の生きる姿勢が妙にリンクしてしまう。世界で俺だけがその相似にドキドキしているのかもしれない。二人とも社会の既存のシステムに疑問とNOをちゃんとぶつけていく。人間の自主性を信じている。
7/2~7/6
『小沢健二の帰還』(宇野維正)、読了。
著者が相当なファンなのは知っているし、読んでいてもそれは伝わってくるのだけど、抑制を効かせて一定の距離を保ち、小沢健二という人間を伝えることに徹しているのが上品だし、成功している。この内容でこのバランスを保つのはかなり大変なのではないだろうか。
著者が探偵となって小沢健二の活動を調査した報告書のようだった。その調査内容は小沢健二の考え方や気持ちを追うような部分も多く、読めば読むほど小沢健二の魅力が多層化していくのが面白い。柔軟な知性、チャーミングな意地悪さ、世界を信じている気持ちの強さ、全てが同居しつつも矛盾したりしながら、それらが音楽と歌詞と文章に表れているのがわかる。
『自分が触れたことのない視点の文章は難解』という話は腑に落ちるものがあったし、それに続く『周囲を変えて行くことで難解さが和らいで世界が変わっていく』という話に描かれている希望の眩しさには、居ても立っても居られない気持ちになった。
この本は、多岐にわたる活動を理解するのが難しい小沢健二のガイドブックでもある。描かれているのは希望。