2018年後半に読んだ本の記録

結局、いろんな国の本を読むという年間目標はあまり達成されなかった。『コンヴィヴィアリティのための道具』『動物農場』『ペンギンの憂鬱』以外は、アメリカ産か日本産だった(出身国と活躍した国の相違なども起きているので、この括りもあまり意味が無い、と途中で気づいた)。まあ、仕方ない。

 

読みたい本を読むことが思想の偏り(ならびにその強化)に繋がる懸念 VS 読みたくない本を読む苦痛・時間の勿体無さ。そんな葛藤を抱えても、一貫して、「多種多様な本に触れたい」とは思っている。

今は何が好きなんだろう?

純文学?SF?ミステリ?ノンフィクション?エッセイ?新書?

ああ、それらは全部好きだ。

と考えていくと、ハウツー本やビジネス本が苦手に思える。読まず嫌いも良くないので、少しかじってみるか。

また、2019年は意識的に男女両方の作家を満遍なく読んでいこうと思っている。

以下、ネタバレありの感想群。

 

 

11/29

『島の果て』(島尾敏雄)を読み始めた。 

島の果て (集英社文庫)

島の果て (集英社文庫)

 

  

11/14~11/28

『100年のジャズを聴く』(村井康司×後藤雅洋×柳樂光隆)、読了。

最近のジャズは、昔からのファンじゃない俺にもわかるくらいに、百花繚乱だ。

でも、実は昔からジャズは面白かった。では、どのように面白かったか?どのように今のジャズになったのか?それを、世代と職業の異なる3人が、お互いのジャズ観をすり合わせたりぶつけたりしながら、解き明かそうとする試みだった。

一番上の世代の後藤氏は老舗ジャズ喫茶の店主で、一番下の世代の柳樂氏はDJ経験もあるジャズ評論家・インタビュアー。この二人は世代の違いと職業の違いが顕著なので、ジャズの捉え方もかなり違った。前者の古参然とした徹底的な消費者視点と、後者のジャズの外側にも目を向けつつ楽曲制作者に寄り添う視点では、衝突が起きるのは当然のようにも思える。そこで、ジャズ史の評論も書いている村井氏が、調整者的にうまく働いているような場面が多く見られた。少なくとも本には生産的な議論だけが残っていた。世代的に柳樂氏がかなり離れているせいもあるだろうが、2対1になる場面も多かった。

90年代くらいのジャズの受け取り方についての議論が面白かった。柳樂氏の言う「助走期間だった」という説明に大いに納得した。

いろんなジャンルでこういう本があればいい。文学でも映画でも。いろんなジャンルの歴史から現在を繋いで語るのに、3世代での鼎談は有効だと思う。既にあるのかもしれないけど。

それにしても、3人の知識量には単純に驚く。

もちろん、ディスクガイドとしてもめちゃくちゃ優秀だった。

耳も時間も足りない。

100年のジャズを聴く

100年のジャズを聴く

 

 

11/5~11/14

『ペンギンの憂鬱』(作:アンドレイ・クルコフ/訳:沼野恭子)、読了。

「ロシアの話」くらいの認識で読み始めたが、読んでいくうちに「ソ連解体直後のウクライナの話」だとわかって、じんわりと物語の背景が見えてくるという体験をした。

それがわかるまでは、この小説がどのくらい現実に即して書いてあるのかわからなくて、

「結構物騒な地域だな。治安悪いな」

「ペンギンを飼っていることはそんなに一般的なのか?」

と湧き上がる疑問を保留しながら、慎重に設定を飲み込みながら読むことになった。SFを読んだ時のようなこの体験は、海外の小説を読む歓びの一つだろう。

憂鬱なペンギンのミーシャに感じるこのかわいさは何だろう。全編通してかわいさがずっと炸裂していた。動物園とかで見たペンギンの目を思い出すと、何を考えているかわからない動物特有の目をしていたはずだ。実際の心情はわからないが、そこに憂鬱さを見出すのは簡単なように思える。

ミーシャのこの不思議なかわいさが無ければ、この小説は不穏さ・不気味さ・不安を与える薄暗さが強くなり過ぎる。解説にもあったが、それはおそらく当時のウクライナの社会情勢を色濃く反映しているのだろう。

主人公は好きでもない仕事を仕方なく受けただけのつもりだったのに、いつの間にか人間関係が増えていき、疑似家族まで持つことになり、おかしな謀略めいたものの端っこに巻き込まれている。末端にいるからだろうが、組織らしきものの実体の見えなさが恐ろしいし、同時に滑稽だった。疑似家族への感情移入の無さも面白い。

そして、とにかくコーヒーにコニャックを入れる描写が連発するので、あの地域では本当に暖を取るためにコニャックを飲むし、本当にみんなお酒強いんだなあ、と改めて感心した。

ペンギンの憂鬱 (新潮クレスト・ブックス)

ペンギンの憂鬱 (新潮クレスト・ブックス)

 


10/22~11/2

『アンソロジー カレーライス‼︎』、読了。

「カレーは他の食べ物とはちょっと違うなー」くらいに軽薄に考えていたが、この本を読んで認識を改めた。カレーは他の食べ物とは全然違う!らしい。

カレーは、作る方も食べる方もやたらとこだわりたくなるし、麻薬的に強烈な食欲を喚起する恐ろしい食べ物みたいだ。だから皆がカレーにまつわる思い出も持ちやすいようだ。

この本は、カレーについて、いろんな人がいろんな角度から言っている短編を集めたアンソロジーで、今まで読んだこと無い人の文章も多々あった。知ってはいたけど読んだことなかった、という人も多かった。そういう人たちへの入り口としての『カレー』は十分に懐が大きい。どんな語りも大抵許せる。

そういえば、多くの人がカレーライスとライスカレーの違いに苦慮しているのも面白かった。

池波正太郎のカレーライスの作り方は真似してみたくなるし、寺山修司の「カレーライス好きは保守的な人間が多い」という偏見たっぷりの決めつけには大いに笑ったし、内田百閒は相変わらず偏屈ジジイだし、藤原新也の紹介してた10時間玉ねぎ炒めるカレーは素直に食べてみたい。阿川親子や吉本親子を載せているのも面白い。カレー観は家庭で共有するもんでもないらしい。

また、カレーの匂いまでしてきそうなほど凝った装丁がまた良い。カレー色した紙の上に載った文字を読み進めていくと、佐内正史が撮ったカレーの写真が時折挟まっている。腹が減る。

 

10/4~10/22

『燃焼のための習作』(堀江敏幸)、読了。

誰かとの会話が豊かな時間になることがある。この本を読むまで、その嬉しさを忘れていたかもしれない。人との会話が時折生み出す楽しいグルーヴが、この小説にはしっかりとパッケージングされていた。

探偵と助手と依頼人が主な登場人物だけど、派手な事件は起きないし、はっきりとした謎は無いし、だから解決するものも無い。嵐の夜の探偵事務所で、探偵と助手が、初めて会った依頼人と、お茶を飲んだり軽食を食べたりしながら、いろんな記憶を手繰ってぼんやりとした話をする。

そんな小説だった。そこに、形の無い実りを感じるような、心地よい時間が流れている。

脱線したり、本筋らしきものに戻ったり、脱線に見えたものが本筋らしくなったりしながら、フラフラと会話は進んでいく。会話というのは言葉だけではない。同時に描写される、登場人物達のちょっとした思惑、何気無い動作、表情の変化。その細かさが会話の中に生まれる世界を肯定するような空気を作り出している。

この会話は緻密に計算して書いているのだろう。いろんな情報の出てくるタイミングがとても巧い。

ずーっと読んでいられる。 

燃焼のための習作 (講談社文庫)

燃焼のための習作 (講談社文庫)

 

 

9/26~10/3

『オブジェクタム』(高山羽根子)、読了。

「小説よるインスタレーション」というようなフレーズはどこで見かけたのだろう?そんな感じのフレーズを見て気になって手を伸ばしたはずだけど、ソースは思い出せなかった。このフレーズが全てを表すわけではないけど、言いたいことがよくわかる表現だった。

3編とも『すこし不思議』的SF要素の気配だけが感じられる。はっきりとしない何かが存在する世界を、詳細な描写の積み重ねで築いていた。作中で起こる事件の因果関係や正体は明示されないが、確かに何かがあった。

インスタレーションを鑑賞した時、気持ちが動くことがある。動く理由は様々だろうけど、記憶を刺激されていて、記憶の同調やズレが感情に波を起こす作品がある。表題作の『オブジェクタム』には、幼い頃の原風景や気持ちを想起する柔らかな刺激があった。

しかし、インスタレーション的体験には、頑張ってわかろうと思って、無理に心を動かそうとしてしまう場合もある。読み終わって少しそんな気分にもなった。

オブジェクタム

オブジェクタム

 

 

8/31~9/25

『芝生の復讐』(作:リチャード・ブローディガン/訳:藤本和子)、読了。

アメリカンドリームなんて言葉はそっちのけで、思い出の中だけに夢と希望があった。潰えた夢を思い返しながら、彼らはうらぶれた日々を過ごしている。それもいかにもアメリカ的だと感じる。アメリカは大きい。

読むまで短編集だと知らなかった。本当に短い短編が多くて、短編の断片ような文章もある。量が多くて全ての短編を覚えておくのは難しいが、短いので読み返しやすいし、心に残る短編もいくつかあった。『裏切られた王国』というビートニクの享楽と退廃に身を委ねた様子を描く作品は、その時代特有のジョークのようで面白かった。

岸本佐知子のあとがきを読むと、名訳らしい。しかし、少し文体が古過ぎて入り込むのに時間がかかった。唐突に飛躍して超現実的に変わる表現などは原文が気になった。良い意味で原文が気になるということは、名訳の条件を満たしているのだろう。

芝生の復讐 (新潮文庫)

芝生の復讐 (新潮文庫)

 

 

9/19

『さよなら未来』(若林恵)を読み始めた。

 

9/9~9/16

『長い猫と不思議な家族』(依布サラサ)、読了。

和田誠の装丁に惹かれて手に取った。

だから、依布サラサのことは『井上陽水の娘』で、『音楽活動をしている人』ぐらいの認識だった。

全体的に率直で平易な文章で書かれたエッセイで、ストレス無く読めた。大抵のアーティストの文章は詩的な言葉が難解なイメージもあったので、それは意外だった。

読んでいると、やはり良いエピソードの多くには井上陽水が絡んできてしまう。陽水とのエピソードや、陽水から学んだ人生訓のようなものを読んでいると、公私問わず全身アーティストなのだけど、部分的にそこからはみ出した井上陽水を知れて、それが面白かった。

一方で、母親の石川セリについての知識が自分には全く無かったのだけど、陽水とは違う方向でアーティスティックでエキセントリックな面があって、この人が絡むエピソードも面白いことが多い。

そんな二人の娘であることは、かなりプレッシャーになっているようだけど、一人の人間として両親と違う道に進んでいくことで、それを受容したようだった。その上で書いている文章なので、思考や気持ちが整理されていて、読みやすい。井上陽水の好きな歌の解説などは、その結果の産物で、かなり俯瞰して見ているようだった。

著者がシングルマザーだったりする事実からすると、あっさりし過ぎている印象もあったけど、この本はcryよりjoyが多めの良いものに仕上げたかったのだろう。

長い猫と不思議な家族

長い猫と不思議な家族

 

 
9/4

またしても本が繋がったと実感している。『芝生の復讐』が超短編を集めた本だと知らなかったのだけど、それを読んでいると『菊地成孔の粋な夜電波』にあるテキストリーディングを思い出す。多分、出来事の省略の仕方や超現実的な事象の語り方が似てるんじゃないだろうか。

 
8/23~9/1

菊地成孔の粋な夜電波 シーズン1-5 大震災と歌舞伎町篇』(菊地成孔)、読了。

番組の音楽以外の部分をそのまま書籍化することに成功している。読むと菊池成孔の声で再生できる。

文字で読むとラジオと結構違う受け取り方になる。『声』という情報を削ぎ落としていることで、話してる内容の異様さが際立つ、という感じか。

また、改めてこの番組がバラエティ豊かな内容だと確認できる。小説のようにも読めるテキストリーディング、戯曲のようにも読めるコント、エッセイのようでもあるフリースタイルのトーク、というように書籍ならではの感じ方にもなる。そして、しつこいくらいに繰り返される前口上。若干多過ぎる気もしていたが、読んでいるうちにクセになってくる面白さがある。

震災の直後に始まったために、あの時の非日常感も最初の方には封じ込められている。ようやくラジオが普通に聴ける日常になった、という歓びと、それが失われる不安を思い出した。

菊地成孔の粋な夜電波 シーズン1-5 大震災と歌舞伎町篇

菊地成孔の粋な夜電波 シーズン1-5 大震災と歌舞伎町篇

 

  

8/17~8/23

動物農場』(作:ジョージ・オーウェル/訳:高畠文夫)、読了。

表題作の寓話性は非常に高度に成功していて、2018年での各国の政府にも当てはまる部分がある強い普遍性を持っていた。支配者の意に合わせて後から法律を変えたり、仮想敵を想定して市民の不満を誘導したり、「最悪だった昔より良くなっている」という論理を持ち出して人気を得るやり方は、今でも使われている気がする。市民は、俺たちは、騙されてはいないか。

読んでいる間、動物たちは古いディズニーのアニメ経由で脳内再生された。

動物たちが持つ能力でどこまでの行為が可能なのかわからないのが面白い。最終的に豚があんな風に動物を逸脱するとは思っていなかったので、え?そこまでいけるんだ?と驚いた。ブラックユーモア溢れるラストにはイギリスらしさを感じた。

動物農場』以外の小説には、この文字通りの意味に受け取っていいのかな、と思える文章が混ざっていた。最初は皮肉なのかなと思っていたけれど、解説を読むと筆者は率直に感想を書いていたようだった。『象を射つ』の緊張感溢れる心理描写にはグッと引き込まれた。

開高健のあとがきや解説を読むと、ジョージ・オーウェル自体に大いに興味が湧く。『動物農場』が終戦と共に売れたというのは知らなかったし、心底納得した。支配者の圧政に鋭敏な感覚には感心しきりだったが、それに振り回された人生は辛そうだった。

 

8/13~8/16

『ハレルヤ』(保坂和志)、読了。

世界を肯定する力が一番強くて一番好きな『生きる歓び』が最後にも入っているけれど、この短編集自体が『生きる歓び』の発展形であり、より強い意思で世界を祝福している。

3歳の息子と一緒にいるとわがままとしか思えない要求がたくさんあって、それに応えていくのはだんだん苦痛になっていくのだけど、これを読んでいる時期に一緒に散歩していたら、何にも苦痛じゃないどころか、心に妙な余裕もできて、一緒にいるだけで楽しくて仕方なくて、目が開いたような、世界が変わったような気持ちになって、とても幸せになった。

夕暮れ時、一緒に歩道橋に登って、同じ高さを横切る電車を指差したり、歩道橋をくぐっていく車の色や種類を「白、白、黒、白、青白バス白白…」と挙げて笑っていたあの時間は、家にある『ハレルヤ』を見かける度に思い出す気がする。

死ぬこと、生きること、過去、現在がぐいーっとひとかたまりになっていくような文章だった。

『生きる歓び』以外の文章は、『未明の闘争』以降のわざと間違った文法でつっかえさせる方法をとっていて、「が」「の」などの変な繋ぎ方に最初はまた戸惑ったが、どんどんどうでもよく感じ始めたのは面白かった。

2016年に初めて『生きる歓び』を読んだ時に凄い好きだったフレーズがあったんだけど、2018年の俺はそれをスルーしてしまった。何回か読み返してやっと見つけたけど、自分のモードも変わっているらしくて、もっと全体の雰囲気で楽しめた。

世界を祝福する鳴き声は「キャウ!」。人間なら「ハレルヤ」と鳴くのだろう。

ハレルヤ

ハレルヤ

 

 

8/13

全く予想外だったが、『謎の独立国家ソマリランド』と『コンヴィヴィアリティのための道具』も繋がっていた。ソマリランドの上(政府・大統領)からではなく下(民衆)から始まる民主主義というケースには、イヴァン・イリイチも満足するのではないか。

  

8/1~8/13

『謎の独立国家ソマリランド そして海賊国家プントランドと戦国南部ソマリア』(高野秀行)、読了。

相変わらず高野秀行は最高!極厚のノンフィクションだったが、もの凄い勢いで読み終わった。

今回も高野秀行の体験をベースにした構成になっていて、ソマリランドプントランド~南部ソマリアというソマリ人がいる地域を渡り歩いて、それぞれの地域とソマリ人について学んだ内容とその過程での体験談が描かれている。

思い返してみれば、今回、読み始めた当初、俺はソマリアについて全く知識が無かった。『アフリカっぽい』ぐらいしか印象が無かった。それはあまりに無知過ぎるだろうが、高野秀行がこうやって書いてくれるまで詳細な情報は日本に無かったのだと思う(きっと他国でもおそらくそんなに無いだろう)。それだけでも偉業ではないか!

そんな未知の国家への潜入取材はまたも抱腹絶倒ものなのだけど、それは魅力的な登場人物によるところが大きい。人の話を聞かない・超速・傲慢などソマリ人の特性をわかりやすく体現するワイアッブが最後には大好きになるし、ホーン・ケーブルテレビ支局長のクールな女性・ハムディにはその剛腕っぷりをいつも期待してしまう。著者の現地の方との深い付き合い方と、それを面白おかしく描ける素晴らしい筆致の賜物だ。

そして、ソマリランドとソマリ人の話はいろんな考え方を教えてくれる。国連の功罪については漠然と知っていたのに、それでも俺は国連を『良い』団体だとしか思っていなかった。外側から国家にお金と意見を持って介入することの難しさ・傲慢さ・有害性を俺は意識できていなかった。それは新たな争いを生む可能性あるんだ。民主主義は、ソマリランドのように自主的に獲得するのが最善なのだろう。

そして、『氏族』のシステムには本当に驚く。最初、血縁主義的なものか、と古くさい伝統として侮っていたが、著者の調査が進んでいくうちに、そのシステムの高い機能性が明らかになり、氏族に入るための条件のどんでん返し的な話にはとても感心した。政治家だけで政治をやってるシステムがおかしいよな。そりゃそうだ。

ちなみに、氏族を日本の武将に例えたのは、最初はトリッキー過ぎるように思えたが、最終的には著者のファインプレーだとわかった。

そんな民主主義が根付いたソマリランドで、意見が対立しているのに同じ空間を共有できる人々が集うカフェの場面は、ソクラテスとかが対話で政治をしていたのを思い出すくらいに神話的だった。また、政治的な信条などが全く異なるソマリ人が一堂に会するテレビ局の場面も、多幸感に溢れていて、楽園的だった。著者の目を通して感動が伝わってくる。

ソマリランドは本当に面白い。自分の目で確認しに行くのが良いのだけど、俺には無理そうだから、俺はまた高野秀行が書いてくれた続編的な本も読んで、思いを馳せるのだろう。

高野秀行を信頼している。

 
7/8~8/4

『地下鉄道』(作:コルソン・ホワイトヘッド/訳:谷崎由依)、読了。

アメリカの歴史は人種差別の歴史だ。この話はアメリカが始まった頃を描いているけど、その当時の差別問題は間違いなく今に繋がっている。

ヒヤリングした体験談も交えていたからか、と解説を読んで納得したが、黒人が強いられてきた過酷な状況描写が、とにかくめちゃくちゃ生々しい。差別なんて言葉じゃ済まない。奴隷は人間として扱われない、ということを初めて実感した。

でも、この小説はそんな勉強のためだけの本じゃない。

単純に凄く面白い。

主人公は逃げられるのか、というスペクタクルなメインストーリーを推進しつつ、ロードムービー的に沢山の人と出会い、いくつかの州を通り、いろんな事件に遭遇していく。

人種差別というシリアスでセンシティブな問題を取り上げながら、エンターテインメント性も高めていて、単純な娯楽作品にもなりかねないが、ギリギリのバランスで簡単には消費させない巧さがある。解説でも似たことが書かれていたが、全くその通りだと思っていた。

地下鉄道という空想の産物の入れ方も巧い。謎にしてある部分も多く、解説し過ぎないことで、リアリティを失わない。

主人公のコーラは女性で、性的に貶められる描写も多々ある。その部分には人種は関係無い。白人からは間接的に出産の自由まで奪われそうになる。ああ、そうか。あらゆる差別は自由に生きる権利を奪うんだ。そんなこと許されるわけがない。

黒人で女性で二重に苦しいコーラだけど、差別から解き放たれるために、自由を得るために動き続ける。逃げ続ける。戦い続ける。自由を得るために戦う物語として捉えると、この小説はいかにもアメリカの小説だ。アメリカは今も人種差別と戦い続けている。

地下鉄道

地下鉄道

 

 

4/18~8/1

『コンヴィヴィアリティのための道具』(作:イヴァン・イリイチ/訳:渡辺京二 渡辺梨佐)、読了。

とにかくどうにか読み終われた。普段読み慣れない内容だから、とても時間がかかったし、理解度に自信が無い。

全体を通して理想主義的で、現実と乖離し過ぎた提案をし続けているように見えた。

主な意見としては「この産業主義社会が破滅に向かうのを防ぐには、道具(人間が使うもの。制度も含む)に限界を設定して、人間の自立を促すべきだ。そして、人間の自立性を信じるべきだ」ということになるだろう。この主張は『このままでは産業主義社会は破滅に向かう』という前提で始まっていて、「なぜ破滅するのか」という問い自体もそれに対する答えも記述が無いように見えた。それは火を見るより明らかだから、って感じだった。その前提は感覚的にはわかるのだが、やはりこういう文章には論拠が無いとバランスが悪い気がした。

そして、肝心の『道具への限界設定』という提言が、俺には正しくは見えるけど、社会に浸透させる方法がわからない。その実践的な部分への言及も無いので、途方に暮れる。

しかし、産業主義を支える社会の仕組への鋭い指摘には、とても感心した。『医療も教育も成長を前提とした産業主義を助長している』というのは考えたこともなかった。これらの指摘が全面的に正しいとは言わないが、社会を支えるシステムの側面としてこの考え方を持っていると、だいぶ世界の見え方は違ってくる。

皆でより良い世界を目指すために、知っておくと役に立つ日がくるかもしれない。

コンヴィヴィアリティのための道具 (ちくま学芸文庫)

コンヴィヴィアリティのための道具 (ちくま学芸文庫)

 

 

7/6

本は繋がる。いや、繋がってしまうのは俺の読書だからだ。なるべく偏らないように意識はするが、読む本を選んでいるのが自分だからそれは起きる。イヴァン・イリイチの言ってることと、小沢健二の生きる姿勢が妙にリンクしてしまう。世界で俺だけがその相似にドキドキしているのかもしれない。二人とも社会の既存のシステムに疑問とNOをちゃんとぶつけていく。人間の自主性を信じている。

 

7/2~7/6

小沢健二の帰還』(宇野維正)、読了。

著者が相当なファンなのは知っているし、読んでいてもそれは伝わってくるのだけど、抑制を効かせて一定の距離を保ち、小沢健二という人間を伝えることに徹しているのが上品だし、成功している。この内容でこのバランスを保つのはかなり大変なのではないだろうか。

著者が探偵となって小沢健二の活動を調査した報告書のようだった。その調査内容は小沢健二の考え方や気持ちを追うような部分も多く、読めば読むほど小沢健二の魅力が多層化していくのが面白い。柔軟な知性、チャーミングな意地悪さ、世界を信じている気持ちの強さ、全てが同居しつつも矛盾したりしながら、それらが音楽と歌詞と文章に表れているのがわかる。

『自分が触れたことのない視点の文章は難解』という話は腑に落ちるものがあったし、それに続く『周囲を変えて行くことで難解さが和らいで世界が変わっていく』という話に描かれている希望の眩しさには、居ても立っても居られない気持ちになった。

この本は、多岐にわたる活動を理解するのが難しい小沢健二のガイドブックでもある。描かれているのは希望。

小沢健二の帰還

小沢健二の帰還

 

 

あたらしい過去、なつかしい未来

おい、あんた、今は西暦何年だ?

とタイムトラベラーみたいなセリフを言いたくなる2018年だった。

11月頃、小学館系の漫画解説本シリーズの『あだち充本』を読んだ。

あだち充があの『軽さ』を出すために、編集者とかなり微妙でアツイやり取りをしていたというのが特に面白かった。雑談しかしない編集者との打ち合わせ、なかなか編集者の言う通りに描かないあだち充。この偏屈さとシャイネスに、俺は無意識に惹かれていたのかもしれない。その象徴たる『あだち去り』という姿勢の取り上げ方も素晴らしかった。

というわけで、あだち充作品を読み返したくなった。一番好きな『ラフ』を読み直そうと思ったのに、持っていなくて驚いた。思い返してみれば、古本屋で一度立ち読みしただけなのに、何度も読んだ気分になっていたようだ。それほどに脳裏に焼きついていたのだろう。それで、わざわざ買って、いざ改めて読み返してみると、ブスの扱いが酷いと感じた。具体的に言えば、男子寮と女子寮の代表者がデートする話で、男子皆がブスとデートしたがらないという部分だった。その女性は徹頭徹尾ブスとして扱われ、報われることも無い。ここが気になるのは、2018年の俺に芽生えているポリコレ的視点なのだろう。

いや、待てよ、主人公はどんな時もブスをブスとして扱っていないんじゃないか?それがモテる要因かもしれない。

一方で、二ノ宮亜美は見た目も性格も相変わらず超かわいい。このボーイッシュな可愛さへの憧れが、後にショートカットの広末~長澤まさみに偏執的に惹かれた原因だったのだろう。

『美少女とつきあう=正義』とする童貞観あだち充によって培われたのでは、と気づいた。これを良いとも悪いとも言わない。自分の成分についての分析に過ぎない。

 


え?西暦何年だって?

他にも2018年を疑う案件がいくつもあった。

テレビアニメでは『ジョジョ第5部』や『バキ』や『からくりサーカス』がやっていた。読んでた当時、「これはアニメ化できないよね~」って俺は一人で謎の優越感を覚えてたよ。そうだな、ダサいな、わかってるよ。ちなみに全部良くできてたよ(特にジョジョ第5部)。

サブスクリプションサービスってのもこの時空の混乱を助長してる。上記のアニメは全部配信してるもんな。

Spotifyを使えば、『ラフ』読んでショートカットの美少女を回想した瞬間に、広末の『MajiでKoiする5秒前』を、即座に聴けちゃう。

元ネタのMK5とかみんな覚えてるか?ホワイトキックは?

チョベリグ?チョベリバ?

 

 

2018年の大晦日、俺は一人で大掃除を少しやることにした。大掃除を少し。いい感じに変な言葉。

家の窓を拭いた。拭ける範囲で、中からも外からも拭いた。

もっと早くやれば良かったのに、いろんな理由をつけてるうちに、大晦日になってしまった。

雑巾が見つからなかったので、古くなったハンカチやら肌着やらで拭いた。普段家事をやる時と同じように、最近買ったBluetoothイヤホンでラジオを聴きながら拭いた。

色々聴いたが、最後にradikoのタイムフリーで『菊地成孔の粋な夜電波』最終回を聴いた。

この番組を聴き始めたのは、2012年だったか、2013年だったか。終わるとは思ってもみなかった。

菊地成孔がかけるなら、その音楽はクール。

菊地成孔が話すなら、その馬鹿話は喜劇で悲劇。

好きな回はいっぱいあった。

順不同で挙げれば、パニック障害になった時の話、映画『ベイビー・ドライバー』を賞賛する回、昔住んでた高円寺を歩く回、クリスマスの思い出の回、数々のグロテスクなエロスを含むコント、筒井康隆の降臨した回、ジョビンの『三月の水』、前口上にある「力道山刺されたる街・赤坂~」の言い回し。

これからも記憶の奥底にはあるけど、徐々に思い出しづらくなるんだろう。思い出すための装置として、書籍は買っておこう。

時刻は夕暮れ時。少しずつ窓の汚れが見えづらくなってきた。風は無かったが、気温が低くて指先は冷たかった。

幼い頃、大掃除の時に窓を拭くのは父親の仕事だった。何でも面倒くさがる父親が黙々とやっていた。

親に甘えていた俺は、殆ど掃除をしなかった気がする。

家の中から窓を拭く父親を見ていた。

その父親の姿に、いつの間にか現在の自分が重なっていた。父親は2018年の年末も窓を拭いたんだろうか?

この時、俺の息子は寝ていた。そのうち、俺は息子に大掃除をするように促すのだろうか?素知らぬ顔で言えるだろうか?

怠けていた過去のツケがまわってきた、と感じた。

 


え?今日?2019年だよ。平成も終わるよ。

当たり前だろ。

 

GoGo Penguin

赤いペンギンがいました。

いつもニコニコ笑っています。

 

「あおもいる」

 

青いペンギンもいました。

いつも楽しそうに笑っています。

 

「くろもいる」

 

黒いペンギンもいました。

いつもえーんえーんと泣いています。

 

ある日、3人は電車に乗ってアイスクリームを食べに行きました。

 

「あいすくむりたべたーい」

 


GoGo Penguin - Raven (Live at Low Four Studio)

 

その場で思いついた、いいかげんな物語を息子に語ると、息子が物語に要望を足してきた。その要望に応えながら話しているうちにノッてきたが、息子が騒ぐので終わった。

 

ペンギンが昔から好きだ。

水族館で、魚雷のように、水を切り裂いて泳ぐのを見た時からかな?

いや、『バットマンリターンズ』を観た時からかな?爆弾を背負ったあのペンギンのダークな可愛らしさにやられたんだっけ?

というわけで、何の考えも無しに登場させたが、赤と青のペンギンがよく笑うキャラで被ってしまったので、慌てて黒いペンギンはよく泣くキャラにした。

電車もアイスクリームも、とりあえず息子が好きなものを登場させただけだな。

 

この三羽のペンギンはどこに行くのだろう?

何が起きれば面白いのだろう?

2018年前半に観た映画類の記録

時間が無いのもあるけど、こんな風に感想の記録をつけるようになって、映画を観る本数が減った。

「観た後、感想書かなきゃ」と思いながら観ると疲れるし、そう思うと観るのが億劫になる。「まだこの映画観た感想がまとまってないのに、次の映画見れないな…」とか思うせいで、続けて2本観たりできなくなった。

馬鹿だ。映画を観ることのハードルを自分で上げてしまっている。あくまで、映画は娯楽の一つだろ。

それに、大上段から偉そうに批評ぶった文章書く必要は無くね?と思うけど、でも、書くとこういう文章になっちゃうし、書きたいんだからどうしようもない。

 

以下、いつも通り、遡る形での記録となる。

多分、ネタバレといわれる事故の危険性はある。観てない作品は流し見をお勧めする。

 

 

6/14

シン・ゴジラ』(庵野秀明総監督)を観た。

やっと観た。公開から結構時間が経っているけど、未だにTwitterなどでネタ化されていて、もはや一般教養のようだと感じたので、少しの義務感も込みで観た。

ゴジラの無感情のビー玉みたいな目と、うねうねとしたクリーチャー感たっぷりの気持ち悪い動きが面白かった。ゴジラ自衛隊の迫力ある戦闘シーンは劇場で見るべきだった。

また、長谷川博己石原さとみ市川実日子高橋一生が演じていた超デフォルメされたキャラクター達はアニメみたいで笑えた。しかし、それが行き過ぎてるようなシーンもあって、あまりにアニメっぽい、というかエヴァっぽいシーンは笑ってていいのかな?とも感じた。アニメっぽいと自主映画くさく感じるんだなというのは初めて気づいた。

じゃあ、アニメだったら良かったのかというと、それも違う。実写だったから描ける迫力が確かにあった。

とにかくセリフに情報を詰め込んでいて、その話すスピードは全く現実に即していなかったが、それで、何言ってたのか聞き直したくてリピーターが多かったのかもしれない。手などのディテールにズームインする映像や、エヴァっぽい風景を差し込むような編集は、テンポが良過ぎるくらいで、見ていて飽きなかった。

『シン』は新で真で震で神で進でsinなのだろう。思いっきり震災や現政権を想起させた上で、現実とは異なる理想の世界をエミュレートしていた。

それは、庵野秀明らしからぬ希望を描いているようで、その事実自体が感動的だった。

シン・ゴジラ

シン・ゴジラ

 

 

 

5/13

『M★A★S★H マッシュ』(ロバート・アルトマン監督)を観た。

オールタイムベスト級に最高の作品だった。戦争映画では一番好き(そのジャンルに入れるのも微妙かもしれないが)。戦争は悲惨で理不尽で馬鹿げている。ユーモアで戦う主人公達は、戦争にもそれに付随する権威にも屈さずに、メチャクチャ馬鹿なことをやりまくるから思わず笑ってしまうが、同時にその姿勢がとてもカッコいい。ドナルド・サザーランドの色気も、エリオット・グールドの皮肉屋な雰囲気も、本当に良い。

観始めた時は、状況が全くわからない。野戦病院にいきなり放り出されたような混乱を覚えるけど、見方が分かればその後はもうずっと楽しい。セリフが重なりまくってるあの映像は、異常事態が日常生活になってしまっているというおかしな空気を伝えてくれる。

途中、ホットリップスへの仕打ちはやり過ぎてるようにも見える。女性蔑視というか、軽視というか。その後の展開でホットリップスと仲良くなろうとも、そこだけはあんまり好きになれなかった。そこは撮られた時代を反映しているかもしれない。

そんな風に女性への眼差しはまだ差別的な気もするが、階級社会の嫌い方も、人種差別しない実力主義のあり方も痛快だった。

前代未聞の洒落たエンドロールにも笑った。このエンドロールだけ見ても、この作品の革新性がわかる。

 

 

5/3

スリー・ビルボード』(マーティン・マクドナー監督)を観た。

観ている間、多くのことがわからない。それが楽しかった、と観終わってわかる。

まず、どんな映画なのかわからない。だから、見方がわからない。サスペンスか、推理物か、ヒューマンドラマか、ひょっとして、コメディか。どの要素も入っているが、ジャンル自体はどうでもいいことにも思える。この映画において誰が重要なのかもわからない。現実と同じで良い人悪い人というのも簡単にはわからない。次に何が起きるのかもずっとわからない。とりあえず、最初の一回は何も知らない状態で、ただただ翻弄されながら2時間見るのが一番幸せだと思う。

この映画において、全ての事象が人の行動だけに作用されていて、誰かが何かを期待して行動を起こすが、それが必ず行為者の意図とは違う影響を及ぼしてしまう。それは広告の原理のメタファーにもなっているようだった。

非常に多くの要素を詰め込んでいて、散漫になりそうな物語をうまくまとめている脚本は凄い。しかし、結末まで考えた上で、伏線は張りつつ、展開をほのめかさないようにする演出も上手い。

フランシス・マクドーマンドの演技はやっぱり最高レベルで強烈だが、脇を固めるサム・ロックウェルピーター・ディンクレイジもめちゃくちゃ良くて、結末の状況から逆算した演技だと思う。それと、ケイレブ・ランドリー・ジョーンズの優男っぷりが好き。どの人物も魅力的に描かれていて、簡単に憎ませてはくれない。

背景に『ファーゴ』の世界も感じるけど、新たな傑作だった。

 

 

5/2

『この世に私の居場所なんてない』(メイコン・ブレア監督)を観た。

シリアスとギャグが地続きに展開を作っていて、全く先が読めず、驚愕と爆笑が交互に発生したり、同時に発生したりする。その脚本が良く出来ていて、世の中の理不尽に振り回される主人公が、ある事件をきっかけにして世の中に立ち向かい始めて、成長(あるいは変化)するという普遍的なストーリーを、飽きさせない展開で面白く描いていた。特に変わっているのは、主人公の行動原理が『善く生きたい・善く生きるべき』という根源的ではあるが、抽象的で描くのが難しい動機になっている点で、それをはっきりと具体的に描いているのが凄い。難しいので、普通は恋愛とか復讐とか友情を持ち出す気がする。そういえば、『川の底からこんにちは』も思い出した。

演出も良くて、一見状況に合わない音楽が徐々に映像に合っていくシーンや、もう混沌過ぎる展開になって「うわ~」って見てたら、ひゅっと俯瞰でひいた映像で状況を見せて笑わせてくれるシーンが好きだった。冴え過ぎたキャラクターがいなくて、行き当たりばったりでストーリーが転がるのもワクワクして良かった。

光の中で飛ぶ無数の羽虫、夕暮れの陽光の中で隣に誰かがいること。一連の映像が世界を肯定する力も強かった。

この世に私の居場所なんてない | Netflix (ネットフリックス) 公式サイト

 

 

4/21

ブロンソン』(ニコラス・ウィンディング・レフン監督)を観た。

観始めた第一印象は「赤い」。やはり後の『ドライブ』や『オンリー・ゴッド』にも繋がる、闇に光る印象的なネオンサインのような光があって、それが赤い。

そして、異様にグラフィカルな画面構成が他の作品より強く意識できて、人物と物体がシンメトリーな配置であることが多いと気づいた。先に挙げた2作もそうだったのかもしれないが、今回ははっきりとしたストーリーが無かったので、それが際立ったのかもしれない。

暴力描写はやはり圧倒的で、トム・ハーディの怪演が素晴らしかった。強さの漲る背中と、振り回すために溜めた拳のあの迫力は、本当に殴ってるようにしか見えなかったが、実際はどうなのだろう。暴力衝動に本当に理由が無いように描かれるヤバさも良かった。

他にも、話の流れぶった切ってたけど、精神病棟の奇天烈過ぎるダンスシーンは爆笑した。

それと、Netflixはモザイク入れないんだな…。トム・ハーディの股間をあんなに見ることになると思ってなくて、ビックリした…。

ブロンソン (字幕版)

ブロンソン (字幕版)

 

 

 

4/11

Netflixで『ダムネーション』(原作・制作 トニー・トースト)シーズン1を観始めた。

ダムネーション | Netflix (ネットフリックス) 公式サイト

 

 

4/8

ジョン・ウィック』(チャド・スタエルスキ監督)を観た。

アクションシーンは斬新でカッコよかった。拳銃とサブミッションを混ぜた戦闘術(ガンフー?馬鹿なネーミング最高)は動きが全く読めなくて面白かった。キアヌ・リーブスのアクションは『マトリックス』とかとは全然違った。激しい動きをカメラはうまく捉えてると思う。極めつけはジョン・ウィックの拳銃と車を使った戦闘術だろう。あの発想は無かった。そして、実写でやるとは!マンガかアニメだろ!

プロは敵がどこにいるのかがわかり、どう動くのかがわかり、一瞬早く動いて対処できる。この動作が入念な練習の賜物に見えないことも無いが、そういう特殊能力として捉えるのが正しい楽しみ方だろう。

ジョン・ウィックVS大組織の引き金となる事件は、どうも飲み込みづらかった。プロでも油断してるとヤラレちゃうんだな、殺せば早いのにジョン・ウィックは殺されないんだな、とか思ってしまっては興醒めなので、没入しようと少し頑張った。

暗殺者ホテルやコインの話はやたらと漫画的に思えたが、ケレン味たっぷりで笑えた。

 

 

4/1

ちはやふる 上の句』(小泉徳弘監督)を観た。

ティーン向け青春映画の決定版だろう。俺が何歳の頃でも率先して映画館に見に行く映画では無いが、見ればちゃんと感動出来る作りだった。食わず嫌いは勿体なかった。

原作を少し読んだことがあるが、原作の内容を大変綺麗に映画に落とし込んでると思った。持たざる者であるツクエ君を丁寧に描いて、太一を主軸に持って来るやり方は、下手なスポ根映画より全然感動出来る作りだった。

映像としても、スポーツとかで見るようなスーパースローを使った動きの緩急のつけ方が自然で巧い。漫画的なカラフルなイラストの挿入も無理がなくて良い。

そして、広瀬すずの美しさたるや。どの角度から撮っても、どのスピードで映っていても、どんな表情でも、白目を剥いても、崩れない。

 

 

3/4~3/31

Netflixで『親愛なる白人様』(原作・制作 ジャスティン・シミエン)シーズン1を観た。

黒人に対する人種差別は、ありとあらゆる場面に存在し続ける。生きているだけで黒人は差別にさらされ続ける。多少デフォルメされてる部分もあるのかもしれないけど、黒人にはそう見えている。

その前提があった上で、白人と戦うか、白人に順応するか、白人と協調するか、と常に選択を迫られている。しかし、どの選択をするにしても、皆には怒りが共通している。

恋愛、友情、SNS、パーティといった感じで大学生活を楽しく過ごしたくても、必ず人種差別の問題に突き当たって、その怒りと向き合うことになる。瞬間的には生き生きとして見える黒人もいるが、やはりそれは幸福なことではない。

とはいえ、大学生っぽい描写も多くて、ドレイクやジェイムズ・ブレイクみたいな有名人の名前(主に音楽関連)も飛び交ってて、それが面白い。あまり差別問題に詳しくない俺にはコンテクストが読みきれてない固有名詞のやり取りも多いが。

メールやSNSの画面にそのまま出る表現はそろそろ確定っぽいな、とふと思った。違うドラマでも似た表現をしていた。

全体的に編集も脚本もテンポよく進行するが、シーズン中、途中ダレてる感じもある。しかし、第1話、第5話、第10話でドラマの象徴的な話を持って来て、興味を持続できるようにしている。特に最終話のカオス描写が素晴らしくて、あの状態になるように最初から逆算して作っていたのでは、と思える出来だった。

親愛なる白人様 | Netflix (ネットフリックス) 公式サイト

 

 

3/26

『キング・オブ・コメディ』(マーティン・スコセッシ監督)を観た。

怖過ぎて笑うしかないという状態を持続して観た。だから、コメディなのかな。

ロバート・デ・ニーロの狂人っぷりが怖過ぎる。あの不気味さと生理的な気持ち悪さ。そして、何しでかすかわからない感じ。人とうまく接することができなくて思い込みやすい点は『タクシー・ドライバー』に近いが、この映画で最も恐ろしくて特徴的なのは、妄想が映画全体を包んでしまっている構造で、それが凄まじい。

映画の序盤から主人公の妄想が入り混じるのだけれど、それは映像の加工等で区別しているわけではなくて、物語の文脈上突飛過ぎるので主人公の妄想だとわかる、という編集をしている。しかし、あるポイントで『妄想だと思って観ていたシーンがどうやら現実だった』となる瞬間が急に訪れる。その瞬間の気まずさがメチャクチャ恐ろしいし、むしろ妄想であってくれ、と願ってしまうほどだった。

そこから最悪の悲劇で喜劇の結末に向かうのだが、ラストシーンまで観ると、あれ?どこからか妄想だったのか?とまた疑わしく思える恐ろしさがある。

あの舞台でのジョークもどこまでが本当だったんだ?じゃあ、今まで見てたのも妄想?最後のシーンでの世間のあの反応はあり得ないよな?いや、最初から最後まで妄想か?と全てをひっくり返される可能性もある。そりゃ映画っていうものは、作った奴らの妄想みたいなもの(虚構)ではあるのだが…。と映画というフォーマット自体に対しても醒めてしまう不思議な体験をした。

 

 

3/23

『キャビン』(ドリュー・ゴダード監督)を観た。

この設定を生かす脚本はこれなのか?徐々に謎を明かした方が面白くない?

ホラー映画のお約束(あるいはご都合主義)を逆手に取って、そのお約束には理由があった、という設定自体は上手いと思うけど、最初からその設定をぶっちゃけて進むと緊張感が無くて、全体的に興味が持てなかった。最初の1シーンは良いけど、その後しばらく若者のシーンだけで進めればよかったのでは?

途中の若者たちの活躍と舞台裏でのピンチをリンクさせるシーンは面白かった。また、終盤でホラー映画のお約束が起きないはずの世界にいるはずなのに、結局ホラー映画のお約束に飲み込まれていくような物語構造自体は面白かった。メチャクチャにし過ぎて破綻しているとは思ったが。全体的にバカ映画なのに真面目にホラーっぽくやってるところもあるのでどっちつかずになっていた気がする。

後で調べて、「全てのホラー映画がこう作られていた」と思えるメタ性が評価されてるっぽいことはわかったが、この映画固有の要素が強かったのでそういう風には思えなかった。

監督は『LOST』とかの脚本に関わってたと知って、かなり納得した。

 

 

3/16

『HIGH & LOW THE MOVIE』(久保茂昭監督)を観た。

最後の方、観てるのめちゃくちゃキツかった…。ドラマ見てないせいもあるんだろうけど、グダグダだろう…。過剰にデフォルメされたキャラクターと、ダンスをベースにした激しいアクションだけが詰まっていた。キャラの見せ場・アクションの見せ場・それらの複合的な見せ場をとりあえず繋いでいたのが、ストーリー。という従属関係になっていた。

達磨一家の登場シーンには爆笑したし、雨宮弟は普通にカッコよかったし、戦争開始の映像は入り乱れ方が素晴らしかったし、九十九のやられっぷりが激しくて良かった。

しかし、それ以外は見てられなかった。ずーっと音楽が鳴っているのだが

、それで演技力を誤魔化してる部分があるようだった。音楽が止まった途端に見てられない演技をしていることに気づいたりした。

そして、何よりコハクさんのやってることの意味が分からな過ぎた。ドラッグのせいと考えておけばいいのだろうか。そのせいで何のために対立してんのかよくわからないし、この戦争らしきものが、普通の喧嘩とどう違うのかもよくわからなかった。殺すのは無しなのね、警察は一応いるのね、みたいな。

コハクさんを説得するシーンの『回想→当時の台詞を踏まえてそのまま言う』みたいな流れのつまらなさにも驚いた。回想シーンもドラマの劇中であったようには見えなくて、この説得のために撮ったように見えて馬鹿らしかった。

HiGH&LOW THE MOVIE

HiGH&LOW THE MOVIE

 

 

 

2/17

許されざる者』(クリント・イーストウッド監督)を観た。

古典的名作!きっと公開当時からそうだったに違いない。

昔ながらの西部劇を鑑賞したことが無いので詳しくはわからないが、物語の基本フォーマットはとてもわかりやすくて、俺の思うTHE西部劇だった。それでいて、殺人への逡巡や苦悩は現代的な脚色だと思った。最後まで観ると『非道な人間は殺してよい』という姿勢も見えて違和感も覚えるが…。

主人公演じるクリント・イーストウッドの『老い』の執拗な描写は普通に面白くて笑ってしまったが、物語の伏線として絶対に必要だったんだと観終わって納得できたし、感心した。作家と保安官のやり取りによる英雄譚の否定も、同じ伏線の役割を果たしていた。

終盤に向かって緊張感が増していく。西部劇らしい早撃ち対決が代表的だが、「誰が誰を撃つのか」という緊張状態に、かなり多くの工夫したパターンを作っていて飽きさせない。牢屋越しのあのやり取りには息を呑んだし、先の見えないクライマックスの迫力には圧倒された。

どうやって作っていったのかが気になって、特典のメイキングも観た。こんなに確認したのは久々だった。

ジジイになったイーストウッドは頑固で不器用で渋くてカッコイイ。

許されざる者 [Blu-ray]

許されざる者 [Blu-ray]

 

 

2018年前半に読んだ本の記録

2017年の読書履歴を振り返った際に『2018年はいろんな国の小説(文学)を読んでみよう』という目標を立てたが、半年経った時点での達成度は低い。

韓国、中国、トルコ、ロシアなどの文学に興味があって、面白そうな本があるのはわかっているのに、海外文学で多く読んでいるのはアメリカ産らしい。

気づけば何となくアメリカ。思考の癖はなかなか抜けない。

別にいいんだけど。

でも、小説読んだ国を世界地図にマッピングしていく遊び方まで想像しているのになあ。

 

今回、アマゾンへのリンクもつけてみた。その方が見返した時に面白そうだったので。

 

以下、いつも通り、遡る形での記録となる。

少しは配慮して書いたが、ネタバレといわれる事故の危険を感じた際には、流し見をお勧めする。

 

 

5/28~6/30

Self-Reference ENGINE』(円城塔)、読了。

この小説はややこしさが面白い。表現だけを見ると「馬から落馬する」くらい正しくないように見える文章が、筆者の用意したSF的装置を通過することで、可笑しいけど必然性はあるように見える。そして、そんな文章がたくさんある。そのしつこさも面白い。

正直に言って、佐々木敦氏の解説が無ければ、自分の中で総括できない部分は多かった。とにかく何を読んでいたのか思い出せない。多種多様な雰囲気のSF小説群が、多種多様なテーマを描きながら、一つの長編っぽさも持っている、というのがその原因だろう。読みながらぼんやりと単語や世界観に共通性は感じられるのだが、因果関係が無かったり逆転しているように見えたりするので、覚えていられない。

そんな混乱の中でも、超越知性体や巨大知性体と世界の関係が、筆者と小説の関係と相似になっているのは、俺でも漠然とわかった。物語を駆動するためではなく、メタフィクションであるためのメタフィクションなので、読者は読んでいる瞬間に読者であることを何度も意識させられる。この強制的に我に返される瞬間が物語に没入するのと同じように面白い、というのは初めて気づいた。

そして、名久井直子の装丁がクール!

Self-Reference ENGINE (ハヤカワ文庫JA)

Self-Reference ENGINE (ハヤカワ文庫JA)

 

 

 

4/21~5/26

『バベる!自力でビルを建てる男』(岡啓輔)、読了。

社会や常識という枠にちゃんとぶつかって、遠回りになっても、傷ついても、踠くことになっても、自分が正しいと思える道を進む。そのまっすぐな不屈の精神に、畏敬の念を抱く。

この人が報われない社会はおかしいんじゃないか、この人みたいに生きたいのに生きていない俺はおかしいんじゃないか。要領よく生きるのが良い人生じゃないじゃん。新井英樹の漫画になる理由はよくわかる。

本の内容としては、上記のような『著者の生きる姿勢がわかる今までの活動・今後やっていく活動』パートと、『建築の歴史や現状への言及』パートがあって、それらが混じり合いながら、自力で建てる鉄筋コンクリート製ビルの建築プロジェクト『蟻鱒鳶ル』の話に繋がっていくような構成になっている。

建築を勉強したことがないので、建築の歴史や現状への問題提起をしている部分は知らないことが多かったのだけど、現場での経験に裏打ちされた説得力のある文章は理解しやすかった。

特に、素材としてのコンクリートの話はかなり深刻だとわかった。水を増やしたコンクリートは耐久性に問題があるけど、水分が少ないと扱いづらく量産に向かない。この建築の耐用年数の問題はとても生々しいし、現代の日本では想像に容易い。

そして、結果的に陥りがちな『消費を前提とした建築』というのは、たまたま同時に読んでいる『コンヴィヴィアリティのための道具』で言及している、行き過ぎた産業主義の問題とも共通していた。そのカウンターとしての蟻鱒鳶ルだと理解した。

また、一方で、建築を作品と断言している部分も予想外で面白かった。最初、作品至上主義は消費を促すようにも思えたが、全くそういう意図ではなかった。作る悦びと責任の話だった。建築は希望を表現する芸術である、という言葉はとても力強く、それを意識するだけで、建築の見方は変わった。

だから、この目で近いうちに蟻鱒鳶ルを見に行きたい。いや、行かねばならない。

バベる! (単行本)

バベる! (単行本)

 

 

 

5/23

一ヶ月以上、『コンヴィヴィアリティのための道具』を読んでいる。難しい。何度も行ったり来たりして文意を捉え直しながら読み続けている。面白いところも多々あるのだけど、結構辛い。社会主義でも資本主義でも無い方法論って皆がずっと欲している、というのはよくわかる。

そして、小説が読みたくなってきた。小説ばかり読んでると、エッセーとか新書とか読みたくなるのだけど。無い物ねだりか。

合間に『バベる!自力でビルを建てる男』も読んでいて、こちらは読みやすいし、ずっと面白い。たまたま同時に読んでるだけなのに『コンヴィヴィアリティのための道具』と共鳴する部分も感じる。二冊とも効率優先の社会への反発や逸脱のススメを説いている。

そのうち読む予定の『さよなら未来』(若林恵)とも、きっと共鳴するのだろう。

 

4/18

『コンヴィヴィアリティのための道具』(作:イヴァン・イリイチ/訳:渡辺京二 渡辺梨佐)を読み始めた。

コンヴィヴィアリティのための道具 (ちくま学芸文庫)

コンヴィヴィアリティのための道具 (ちくま学芸文庫)

 

 

 

4/11~4/18

『最も危険なアメリカ映画』(町山智浩)、読了。

アメリカ映画は現実世界とめちゃくちゃ密接で、昔から相互に影響し合ってきた。

この本では、時系列に沿って、古い映画から新しい映画へと話を進めていき、映画とそれを取り巻く社会状況を説明していく。そのため、アメリカがずっと苦しみもがいている問題を中心とした、アメリカ史の教科書としても読める。特に人種問題は、アメリカが出来てから今までずっと深刻に存在し続けているとわかる。そして、全ての論考は繋がっていて、アメリカが抱える問題について、知らなかった事実や抜け落ちていた視点を啓蒙するような、著者らしい内容になっている。

読むと論じられている映画を見たくもなるのだが、今回、紹介している映画はかなり古いものや日本でソフト化していないらしいものも多く、見るためにはかなりの熱意と労力が必要だ。しかし、見なくても十分にわかったような気にもなってしまうし、満足感もある。相変わらずの筆者の力量。

紹介している映画の中では、読者に一番馴染みが深いであろう『バック・トゥ・ザ・フューチャー』と『フォレスト・ガンプ』の章が、最もセンセーショナル。俺はこの2作品を何回見て何回黒人への差別をスルーしてきたのか、とショックを受けた。ロバート・ゼメキス作品を調べてみよう。今後も警戒することになるだろう。

一見素晴らしい映画でありながら誰かに差別的な映画というのは存在し得る。映画はプロパガンダにも利用できる優れた道具なのだ、と改めて肝に銘じることにした。

 

 

4/5~4/10

寝ても覚めても』(柴崎友香)、読了。

そうだよ、夢と小説は似てるんだ。そのことを忘れてた。もしくは、気づいてなかったのかもしれないけど、気づいてしまうともう気づいてなかったのを思い出せないくらい、似ているとしか思えない。どちらも現実をエミュレートした創作であり、無意識のものが夢で、意識的なものが小説とはいえないか。SF小説ファンタジー小説だとしても、五感や感情のあり方は現実をエミュレートした上で現実から離れようとしているのだから、この気づきと矛盾しない。夏目漱石の『夢十夜』とかこの気づきから着想してるのかな。

この作品を読んで、そんな視点を得た。夢のようだと感じる表現が多かったからだ。少なくともどこかのシーンは夢オチが来るんじゃないか、と恐れながら読んだからだ。行間を空けて挿入される風景の一片にいつも「…夢では?」と思わせる力があった。夢は現実にありそうであり得ないことも多いのだ、とも気づいた。

小説は文章の順番で立ち上がる景色が違う、ということは冒頭の展望台の場面で強く意識した。それが小説の本質的な魅力の一つだと直感させられた。グーグルアースと一眼レフを交互に見るような視点ごと切り替わるダイナミックな描写は、めちゃくちゃカッコよくて面白かった。

時間経過と省略も上手くて、途中であったはずの修羅場や意気消沈しているシーンを細かく描かなかったし、亮平の感情を殆ど描写しなかったので、全体的にドライな印象で終始させるのかな、と思ったら最後に怒涛の感情の嵐が待っていたので、夜明け前に一気に読んで、衝撃を受け過ぎて、読んだ後なかなか眠れなかった(し、寝てもなぜか猛スピードの車にひかれる悪夢を見た)。

鳥居麦もそうだし、最後の森本千花もそうだけど、どこか夢の中の登場人物のように行動に飛躍があったのも、読んでいて笑ってしまった。

柴崎友香超すげー。彼女の本は他にも何冊か読んでて大好きだけど、今まで読んだのとは全然違うし、一番強烈だった。

本に家で待機してもらっている間に映画化が決まってしまったので慌てて読んだのだが、読んでる間、映像化を想定してしまうことが多かった。そして、この作品の映像化は大変だろう、という思いが消えなかった。風景は主人公の心情に従属せず、独立した存在として描いているのだけど、いろんな景色に主人公が勝手に心情を託すシーンが多いのが難しそうだった。解説で豊崎由美も言っていた信用できない語り手問題の描き方も気になる。

それでも、ラスト30Pの映像化には期待せずにはいられない。

史上最悪のパンチドランクラブに。


4/5

少しずつ『寝ても覚めても』を読んでいる。

夜明けごろに読むのが合っている。夢のような感触の風景の挿入は、読むと静謐な気持ちになる。

 

4/1

寝ても覚めても』(柴崎友香)を読み始めた。

寝ても覚めても (河出文庫)

寝ても覚めても (河出文庫)

 

 

 

4/3

『365日のほん』(辻山良雄)を読み始めた。

365日のほん

365日のほん

 

 

 

3/28~3/31

『フィリピンパブ嬢の社会学』(中島弘象)、読了。

タイトルと新潮新書であることから想像していた内容よりも、ルポ形式の読み物だったので意外だった。勿論、帯にもそんなことが書いてあったのだけど、新書であることにミスリードされていた。読み終わってしまえば、新潮新書の中にあるというズレが面白いのだけど。

筆者が研究対象のはずのフィリピンパブ嬢と付き合ってしまう。このメインストーリーを軸にして、日本におけるフィリピンパブの現状、フィリピンという国の文化とその現状も教えてくれる。

最初は大学生時代~大学院生時代のフィールドワークでの研究として始まり、そこは詳しく知らなかったことも多くて、単純に勉強になった。フィリピンパブ嬢と付き合ってからは日記的な様相が濃くなるが、その波瀾万丈っぷりが読むに値する濃密さだった。皆に反対されてもめげない二人の姿には、思わずグッときた。

そして、統計の数字やフィールドワークだけでは知り得ない、フィリピン人の考え方や生き方には驚いたし、著者がそこに踏み込んでいく姿勢自体にも感心した。

読後感は、テレビ番組『家、ついていってイイですか?』を観た時の気持ちに似ていた。

フィリピンパブ嬢の社会学 (新潮新書)

フィリピンパブ嬢の社会学 (新潮新書)

 

 

 

3/25~3/28

『異常探偵 宇宙船』(前田司郎)、読了。

前田司郎の小説はいつも変で楽しい。そして、作品ごとに小説の書き方を意識的に変えているようだ。毎回模索しているとも言える。

今回は児童向け探偵小説をベースにしていたんだと思う。読んでいる間、この読み心地が何かの作品に似ているとずっと感じていたが、中盤くらいで思い出した。『ズッコケ3人組』シリーズの推理小説系のだ。読者に語りかけてくる感じや、筆者の考えを述べる場面が似ている。

それにしても、前田司郎は、こんなにプロットをしっかり組んで、伏線を張ったり回収したりする小説も書けるのか。ちゃんと探偵小説になっていたし、不覚にも先が気になるように出来ていた。

それでも、やっぱり前田司郎節は健在だった。米平少年の言動のズレっぷりは素晴らしくて笑ったし、仕草と意図の明け透けな表現や、筆者も含めて正常と異常を疑っている文章は、ずっと前田司郎の小説が描いてきたものだった。おかしなキャラクターばかり出てくるが、逆にここまで露骨な変人達は今までいなかった気もするので、そこは探偵小説に対して戦略的な気がする。

このジャンル小説への前田司郎節による介入というのは面白い。SF小説でも歴史小説でも恋愛小説でも読みたい。あ、ドラマとか演劇ではもうやってたな。演劇『宮本武蔵』も、ドラマ『タイムパトロールのOL』も、ドラマ『空想大河ドラマ 小田信夫』も、どれも面白かったもん。

異常探偵 宇宙船 (単行本)

異常探偵 宇宙船 (単行本)

 

 

 

3/9~3/24

『現代の地政学』(佐藤優)、読了。

5回にわたる講義を書籍にまとめていた。

最初の方は、大学の講義のように雑談めいた話も多くて、進め方に不安を覚えたが、最終的には地政学という考え方のエッセンスとそれを使った世界の見方が少しわかるようになった。

地政学という考え方のいかがわしさも含めたイントロダクションからして面白かった。それにしても、すごい知識量と話の上手さ。半信半疑だが、各国が前提条件として、この学問にもなりきれていない考え方を踏まえて外交に臨んでいるというのも、ありそう、かも?「山は攻めづらい」とか「こちらの海から回り込んだ方が早い」くらいの簡単な判断は、学問にはなり得ないとも思えるし。

また、自分の国際情勢の知識が浅薄なので、地政学の周辺情報は単純に勉強になった。沖ノ鳥島ってそんな微妙なんだ、とか。

この本のことを思い出しつつ、中東に注目していきたい。

現代の地政学 (犀の教室)

現代の地政学 (犀の教室)

 

 

 

2/28~3/8

『獣どもの街』(作:ジェイムズ・エルロイ/訳:田村義進)、読了。

暴力とセックスの出血大サービス。軽快に頭韻を踏みつつ、混ぜ込んで煮詰めたエログロを食わされた。

『ホワイト・ジャズ』以来に読んだエルロイ作品で、どうしても比較してしまいながら読むことになった。3編通してのシリアス度は低く、不条理な状況がギャグのように描かれることが多かった。デフォルメされたロス市警が人種差別や性差別しまくった言動を繰り返すのは、どれくらいリアルなんだろう?ハリウッドに住む白人はこんなもんなのか?別に面白くもないので、何だかなあ、と思った。

また、『ハリウッドのファック小屋』ではわからなかったが、他の2編の頭韻の踏み方は異常だった。訳者の苦労が偲ばれる。原文が気になる。こういう文体上のルールが作品に与える影響は気になる。ラップと同様、表現を制限することもあれば、思いもよらない表現にジャンプするようなこともあるのだろう。正直、日本語ではイマイチカッコよく感じなかったが。

少しだけ『ホワイト・ジャズ』の電文体っぽい場面もあったが、そこを読んで動作や場面の省略のやり方がマンガと一緒だと気づいた。

獣どもの街 (文春文庫)

獣どもの街 (文春文庫)

 

 

 

2/22~2/27

『流血の魔術 最強の演技』(ミスター高橋)、読了。

久々に好きになれない著者の本を読んだ。勧められて読んだから起きる事故なので、貴重な読書体験ではある。

日本のプロレス(主に新日本プロレス)の内情暴露本で、プロレスは真剣勝負ではなく最高のショーであり、日本のプロレス業界もそれを世間に認知させた上で、興行としての発展を目指そう、という前向きな読み方ができる。

しかし、一方で、ショービジネスに携わった人特有のサービス精神のつもりかもしれないが、日本のプロレス界で起きた様々な出来事の裏側を暴露する部分が多過ぎるように感じた。この内容で一人が語る形式だと、単なる自慢話のように感じられたり、「昔は良かった」的な懐古主義に陥ってしまうようだ。

特に猪木への気持ちは愛憎半ばだからか、文章によって正反対のことを書いたりしていた。尊敬しているというスタンスのまま小馬鹿にした表現が散見していて、読み心地が悪かった。

プロレス業界を前向きに考えたいのなら「プロレスが真剣勝負ではない」という点を強調しつつも、試合を面白くするための具体的な努力の部分をより深く掘り下げるべきで、「事件の舞台裏を明かす」というゴシップ的要素が前に出過ぎているのが残念だった。実際、マッチメイクするための段取りや準備の部分は面白かった。

また、アメリカのWWE的(試合はショーであるという)志向を強めていったのがハッスルだったのかと思い当たった。ハッスルがこの本の影響下で生まれたのかどうかは知らないし、現在成功しているイメージは無いが。個人的には、お笑い要素が不真面目さに見えて、緊張感が無いのが苦手だった。

読みながら驚く部分が私には無く、ある程度ショーだと認識していた、と気づいた。プロレスの熱心なファンじゃない私でもそれくらいの認識なので、この本の意図は現在は十分に世間に広まっているかもしれない。この本を踏まえた上で、最近時々目にする棚橋や中邑やオカダカズチカなどの活躍も追ってみたくなった。

読んでて思い始めたが、著者と読者の間にもプロレス技をかける時のような共犯関係がある気がする。好きじゃない相手とそれをやるのは難しいとわかった。

流血の魔術 最強の演技 (講談社+α文庫)

流血の魔術 最強の演技 (講談社+α文庫)

 

 

 

2/18~2/22

『ルポ川崎』(磯部涼)、読了。

とても刺激的な内容で、思わず声を出して驚いたり、ため息をついたりしているうちに、あっという間に読み終わってしまった。俺は川崎について殆ど知らなかったと気づいた。

読み終わって、川崎に行きたくなった。その動機はスラム・ツーリズムだろうか。ここで描かれていることを確認したくなる。こんな場所が本当に日本にあるのか?川崎の人が話すエピソードはどれも本当に日本なのか?と疑ってしまうほど、過酷で壮絶なものばかりだ。それは俺が一面的な日本しか知らなかったということでもある。臆病なので、どこまで踏み込めるのかは自信が無い。

そして、BAD HOPの音楽を聴いてみたくもなる。こんなに本場アメリカと似た条件でヒップホップが発生するとは思いもよらなかった。漢 a.k.a GAMIの『ヒップホップ・ドリーム』は一人語りのリアルによって『ゲットー』での暮らしを描いていて、半信半疑で読んでも刺激的で面白かったけど、このルポの地域全体が迫ってくる『ゲットー』のリアルさには戸惑った。それは、エンターテインメントではない生々しさだった。

カムバックした小沢健二や、彼とセットで話題になる岡崎京子が描いた『リバーズ・エッジ』も、川崎と関連して語れるというのは感心した。(文化も含めた)南北の分断と川を挟んだ両岸の対比は、全く知らなかったけれど、とても面白かった。原因や事例をもっと調べてみたい。

サイゾーでの連載ということで、雑誌企画のシリーズコラムっぽい叙情的な表現が(特に文の最初と最後に)多かったのは意外だった。

ルポ 川崎(かわさき)【通常版】

ルポ 川崎(かわさき)【通常版】

 

 

 

2/8~2/18

『ポロポロ』(田中小実昌)、読了。

著者は何かが語られることで物語になってしまうことへの懐疑、ひいては、物語にまぎれ込むご都合主義の排除を徹底するために孤独に戦っている。

そして、その語り口で、普通に悲惨で、普通に不条理で、普通に無意味な戦争をそのまま描いている。この「そのまま」のレベルが凄い。言葉遣いにも細心の注意を払って、ドラマティックな部分は丁寧に取り除く。

いろんな短編があるが、戦時下での下痢便の話に終始してしまう「寝台の穴」には衝撃を受けた。エクストリーム過ぎる。それを読んだ感触は水木しげるの戦争漫画にも少し似ているが、この装飾の無さは唯一無二だった。

戦争の話にありがちな感情的な文章は無く、身もふたもない描写の連続なのに、読み終わると戦争は本当に厭なものだと心から思う。不思議だ。

そして、著者は自分が語る言葉の表現にまで、疑問の投げかけと検証をずっと繰り返していた。この変に真面目で特異な文体は、確かに保坂和志に大きな影響を与えている。

ポロポロ (河出文庫)

ポロポロ (河出文庫)

 

 

 

2/1~2/8

『捨てられないTシャツ』(都築響一 編)、読了。

俺も捨てられないTシャツを持っている。むしろ、多い。触ると大したストーリーも無いのに記憶が刺激されて(cf.サイコメトラーEIJI 的に)愛着を感じてしまう。他の服に比べて、Tシャツには愛着が湧きやすいのではないか?

それぞれのTシャツについて、それにまつわる話が載っているんだと思い込んで買ったが、実際には各自がそれまでの人生を語り、その付属品としてTシャツのストーリーが挿入されるような構成だった。

波乱万丈な人生を語る方も多く、時代を感じさせる固有名詞も多く登場するので、途中まで読んで「あれ…?この人、どんな人だっけ…?」と性別・年齢・職業とTシャツを繰り返し確認することもよくあった。そのため、語り手のデータとの答え合わせとして物語を楽しむことも多かった。

それぞれの物語自体も、単体でも面白いものが多く、驚愕したり、じんわり感動したりした。サラリーマンやいわゆる普通の人が少ないのは少し気になったが、そういう人達はTシャツが物語を語れるということに気づきづらいのかもしれない。

捨てられないTシャツ (単行本)

捨てられないTシャツ (単行本)

 

 

 

1/9~2/1

ヴァリス』(作:フィリップ・K・ディック/訳:山形浩生)、読了。

前半は読むのがめちゃくちゃ苦痛だった。聖書とかを読み慣れていれば感じ方も違ったのかもしれないが、謎のオリジナル宗教論が延々ぶちまけられていて、その部分がかなりちんぷんかんぷんだったし、妄想なのか幻覚なのか現実なのかわからない状況の描写は、読めば読むほど理解不能に陥る。

しかし、その語りの最中にも絶え間無く語り手の意識や人称が混乱しているような文体になっていて、作者がどこまでコントロールできているのかわからないという様子も含めて、その異様さは面白かった。読むの辛いけど。

そして、後半は前半の非現実的な状況が現実に成り代わっていくような、まるで先が読めない展開でガンガン読まされた。最後まで読んでもスカッとしないのは想定内。

天才的なアイディアを生み出せる超博識な狂人が描く世界はいつも突き抜けていて、ブラックユーモアとは違う方向性で、暗いのに笑える。

 

 

2017/12/6~2018/1/9

『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子)、読了。

この本も高校生の時に出会いたかった一冊。『現在の状況把握や未来への指標のために、過去から学ぶ』というのは、よく聞く表現のせいか、少し見くびっていたかもしれない。でも、その言葉は全くその通りで、やはり歴史は受験勉強のためにあるわけではなく、現在と当時を比較すると、(局所的にでも、全体的にでも)歴史を繰り返している(ように見える)ことがよくわかる。

また、なぜ、授業で聞いていた時よりも深い理解を覚えたのかを考えたのだが、おそらく人物(もしくは、それを国家)の思考や気持ちを微細に解き明かしていくやり方に、その秘訣がある。松岡圭祐ロイド・ジョージ胡適など、彼らの立ち振る舞いはめちゃくちゃスリリングで面白い。パリ講和会議はそれだけで映画になるのではないか。また、歴史のある期間を違う視点から2度続けて読み解く構成は、まるで推理小説のようで、グッときた。

過ちを繰り返さないために、ずっと自分達で考えて生きていくために、誰もが何度も読まねばならない本だと思うし、何度でも読める読み物としての面白さを秘めた本だった。

それでも、日本人は「戦争」を選んだ (新潮文庫)

それでも、日本人は「戦争」を選んだ (新潮文庫)

 

 

リード・オンリー・メモリーズ

2017年 2月

『会話が溶けて混ざる』


妹が結婚するというので帰省した時に、父、母、妹、妹の婚約者、妻、息子の6人で集まって、チェーンの安い居酒屋で食事をした。

実家の近所にあるその居酒屋には、子供を自由に遊ばせるだだっ広いキッズルームがあった。我々が案内された座敷のすぐ横にその部屋があって、刑事ドラマでよく見る取調室のように、あるいは、水族館か動物園のように、大きなガラスの窓越しに中を確認できるようになっていた。

キッズルームの端っこに無造作に置いてある玩具は見るからにボロボロで、全体的にみすぼらしく見えたけど、一歳半の息子はその部屋を見つけた途端、居ても立っても居られなくて、目を輝かせながら、キッズルームに行きたいと暴れた。

仕方なく連れて行き、最初は俺や奥さんが付き添っていたが、刑事の取調みたいに部屋を見ていれば大丈夫そうだと思ったので、時々一人で遊ばせたりした。その後も、彼は玩具を両手に掴みつつ、その部屋と我々のいる座敷を行ったり来たりした。


注文をまとめる人がいなかった。

それで、ダラダラと各々が好きなものを注文して仕方なく俺が適当なことを言って乾杯した。父親は既にビールを1/3杯くらい飲んでいた。


しばらく一人で遊んでいた息子が座敷に帰ってきて遊び始めた。

妻が「上手だね」とブロックを積む息子を褒めた。

その直後に妹が自分勝手に「あ、この唐揚げ美味しい」と言い放った。

その隣にいた母が「ね。上手に揚げてるね」と2人の発言を混ぜた。あるいは、会話として繋げた。

その不恰好な会話が可笑しくて皆で笑ったが、父親だけはそれを見逃していた。


その後、父親は生まれてから今まで一度も食べたことない豚しゃぶを急に注文したが、保守的な舌の持ち主なのでやっぱり食べられなくて、残りを鍋ごと妹の婚約者にあげていた。

彼は嫌な顔一つせずに食べていた。

ああ、妹は優しい人を選んだらしいな、と思った。

 

 

 

おそらく1996~2002年の間のいつか。

『Kind Family Case』


父母俺妹の家族四人でケンタッキーフライドチキンを食べていたら、当時小学生だった妹がパッケージを見ながら母に「『KFC』って何?」と聞いた。母が「Kentucky Fried Chickenのことだよ」と答えたら、会話に加わらないでテレビを見ていたはずの父親が「…そんな答えでいいのか?」とちょっと大きな声で遮った。

父以外の3人とも、え?それでいいんじゃないの?なぜ少し本気のトーンなの?と不思議に思っていたと思う。

父は更に「そんな、いいかげんな、答えでいいのか!?」と追い討ちをかけた。

後でわかったのだけど、父は『KFC』を『経営不振』と聞き間違えていた。

普段は浅学を自称していいかげんなところも多い父だが、「娘の問いに本気で答えねば」と声を荒げたと思うと、味わい深い時間だった。

 

 

 

2018年7月と2000〜2009年頃。

『ひきだし』

 

朝、起きたら妻がリビングのテーブルで何かの書類を書いていた。会社に提出する書類らしい。シャープペンシルを使っていた。

「ふーん。シャーペンでいいんだ?」

「そう。変だよね」

あんまり提出物の書類がシャーペンでよかったことってねーなー、とか思いながらトイレ行ったり息子の保育園の準備をしてる最中も、頭の中に何かが引っかかっていた。

しばらくウロウロして、わかった。

「そのシャーペン、誰の?」

「え?私のだよ?私が使ってる引き出しにあったし」

あれ?そうか?

俺のだと思った。

ドクターグリップのシャーペン。

振ると芯が出てくる仕組が中学生の頃から好きで、分解してパーツを入れ替えたりして遊んでたんだよな。妻の使っていたシャーペンは、浪人時代に気合入れて勉強するために買って、大学時代もそのまま使ってたヤツに似てるんだけど、違うのか。

とか思っていたら妻が吹き出しながら「あれ、でも私、ドクターグリップとか買うかな?」と言うので「そうだろ!俺のだろ!」と二人で笑った。

蒸し暑い朝だった。一日が始まった。

 

Twi Twi Tweet(ついつい追意図)

‪記録を残すために非日常的な行為をすること。‬
‪作品を批評するために鑑賞すること。‬

SNSが得意なこれらの罠に陥った時、自身の心の貧しさに気づくことがあるかもしれない。‬

‪あなたはその行為自体を『現在』十分に楽しめているだろうか?‬

 

‪アナ・W・ホール‬

ツイッターを弄っていたら、下書きの欄に未投稿の文章が溜まっていることに気づいた。‬
‪読み返すとなぜ投稿しなかったのかわからないものもあった。推敲した上での投稿を試みたが、不思議なことにそれはできそうになかった。‬
‪その現象がなんだか面白かった。‬


ツイッターが即時性を重視するからできないのだろうか?

投稿できない内容に一貫性は無さそう。書いてる時の勢いで投稿できないと溜まってしまう。書いていた時の気分との乖離が起きると、それが気持ち悪くて投稿できない、ような気もする。‬


‪でも、ブログでならその下書きも投稿できると思った。‬
‪検証も兼ねていくつか載せていく。‬

 

ある日、エスカレーター上ってたら、前にいた女性の首の後ろ側から背中にかけて蜘蛛のタトゥーが見えて、『げ、幻影旅…』と瞳が赤くなりかけましたが、脚が12本じゃなくて8本でした。お互い命拾いしたな…と思いました。

このタトゥーの女性は存在した。
エスカレーターに乗ったら目の前にいた。
しかし、「げ、幻影旅〜」から先の『HUNTER×HUNTER』ネタの部分は、実際はその時には思わなかった。いざツイートしようと思った時に、思いついてデコレイトした。
その時は何となくツイートしなかったが、今見直すと、そのデコった部分のドヤ顔っぷりが気持ち悪かったのだろう。

 

なんだかんだと聞かれたら‬
答えてあげるが世の情け
世界の破壊を防ぐため
世界の平和を守るため
愛と真実の悪を貫く
ラブリーチャーミーなカタキ役
ムサシ!コジロウ!
銀河を駆けるロケット団の二人には
ホワイトホール 白い明日が待ってるぜ
にゃーんてな

何これ…。なんで当時はスルーしてたん…?

息子は最近、昔のアニメ『ポケットモンスター』をよく見ている。一緒に見ていたら、一応の悪役のロケット団がこの決め台詞を言っていた。
「リアルタイムで見ていて何も思わなかったけど、改めて考えると何言ってんだコレ?」ということが言いたかっただけ。
そのまんま。
投稿しなかった理由は、多分、全然面白くないツイートだと気づいたから。

 

以前、喫茶店で本を読んでたら、隣に座ってた紳士然とした小綺麗なおじさんが、病院で尻に座薬を入れられた話を上品かつ滑らかに話してた。本への集中力を根こそぎ奪われるほど面白く感じたが、どう思い返しても『病院で尻に座薬を入れられた話』でしかない。面白かったのは語り方か。勉強になった。‬

これは何度も推敲したが、投稿を断念した。
なぜならば、この出来事が起きた時に面白いと思った気持ちを、そのまま面白く表現することができなかったから。力不足。

 

君の名は。』がハリウッド映画化ということで、『前前前世』も英語でやったりして、と思ったら本当にもう出してるのね。Zenzenzense。

実は『君の名は。』をまだ見ていないので、ただ茶化してるような気分になって、どうしても投稿できなかった。単純に諸々の事実に驚いただけだったんだけど。
せめて見てからじゃないと、茶化すようなことは言っちゃいけない気がしてる。
ちなみに、曲はこんな感じ。

Amazon CAPTCHA

あ、『ラ・ラ・ランド』も見れてないんだよな。『前前前世』で思い出したけど。

 

ポストペットアメーバピグセカンドライフ…。‬

こういうアバター系のヤツ、一過性の流行だったなあ、ってふと思ったことがあった。
思いついたものの、あまりに意味が無くて投稿するタイミングが無かった。

サマーウォーズ』や『レディ・プレイヤー1』みたいな未来はあり得るのか?

 

‪大学受験の時、勉強の仕方が間違っていたのではないか、と最近よく思う。仕事をするようになって、自分で‬

書きかけの文章。自分が書こうとしている内容が長くなるのを予感してやめたっぽい。
ちなみに、書きたかったのは「勉強は長時間一つの教科に取り組まない方が良いのでは?」というようなこと。
高校生くらいの頃の自分は、自主学習時、やると決めた課題を、長時間かけてやり切っていたことが多かった気がする。
何かをやり遂げることが大事だと思っていた。負けないこと投げ出さないこと逃げ出さないこと信じ抜くこと、駄目になりそうな時、それが一番大事だと思っていた。
精神論で勉強していたのだ。
仕事をしている現在の自分の実感としては、いろんな作業を小まめに少しずつ進める方が得られる効果は大きい(現在の業務がそれをできる環境で良かった)。少なくとも自分にはその方が合っていた。

ということが言いたかった。
安易な一般化は危険だが、きっと脳科学的にもそうだろう。茂木健一郎氏はわからないが、池谷裕二氏なら賛同してくれるのでは!
あ、やっぱり長い。


以上のように、世に出なかったツイート達を追悼していてわかったのは、現在、ツイートを見られている意識が過剰に強いということだった。
それは、『140字で手軽に書けて、簡単に読める』というツイッター空間の特性のうち、『簡単に読める』(読みやすい、アクセスしやすい)方を、かなりネガティブな意識で捉えているということらしい。だから、虚栄心たっぷりに話を盛ろうとして自己嫌悪になったり、クオリティが低い投稿を断念したりしていた。

昔はもう少しどうでもいいことを投稿してたはずだが、ユーザーが増え過ぎてそんな事態に陥っている。
その意識をポジティブな緊張感に変えられるのが理想だろうけど、なかなか至難の技だ。

 

最後に、冒頭で引用していたアナ・W・ホール氏についても言及しておく。
彼女は、2016年に弱冠14歳でスイスの科学技術系雑誌『ヌーベル・テクニーク』に、宇宙線Wifiの相補作用が大麻文化の世界的拡散に与える影響の考察」という論文を発表して、科学業界や自然保護団体の注目を集めた後、現在はライプツィヒにあるヴォルベルグ大学で文化人類工学を学びながら、糸電話を使ってSNS使用の抑制を呼びかけるアート活動にも取り組んでいるという才媛で、引用したのは、未来志向型SNS開発ハッカソンと同時開催だった上海のシンポジウムでの発言である、というのは嘘で、この発言も彼女も存在しない。

バレバレかもしれないけど、彼女の名前はブログタイトルを文字っただけだ。

 

昔からツイッター上で誰かの引用のフリをしてみたかったので、下書き欄にあった文面を加工して引用風にしてみた。
引用ってだけで権威を感じちゃいません?
ちなみに、この嘘のつき方は村上龍の『69 sixty nine』へのオマージュである。この本をギリギリ10代で読んだ際には、先が気になるのにこのめんどくさい話法が頻発するのでイライラさせられたもんだ。それでも、あの青春感たっぷりの瑞々しさはグッときた。懐かしい。久々に読み返してみようかな。

 

と、長々と下らない冗談みたいな文章を書きたい時に、ブログというものがあって私は嬉しい。

そして、このブログの下書き欄にも文章は溜まっている。