2018年前半に観た映画類の記録

時間が無いのもあるけど、こんな風に感想の記録をつけるようになって、映画を観る本数が減った。

「観た後、感想書かなきゃ」と思いながら観ると疲れるし、そう思うと観るのが億劫になる。「まだこの映画観た感想がまとまってないのに、次の映画見れないな…」とか思うせいで、続けて2本観たりできなくなった。

馬鹿だ。映画を観ることのハードルを自分で上げてしまっている。あくまで、映画は娯楽の一つだろ。

それに、大上段から偉そうに批評ぶった文章書く必要は無くね?と思うけど、でも、書くとこういう文章になっちゃうし、書きたいんだからどうしようもない。

 

以下、いつも通り、遡る形での記録となる。

多分、ネタバレといわれる事故の危険性はある。観てない作品は流し見をお勧めする。

 

 

6/14

シン・ゴジラ』(庵野秀明総監督)を観た。

やっと観た。公開から結構時間が経っているけど、未だにTwitterなどでネタ化されていて、もはや一般教養のようだと感じたので、少しの義務感も込みで観た。

ゴジラの無感情のビー玉みたいな目と、うねうねとしたクリーチャー感たっぷりの気持ち悪い動きが面白かった。ゴジラ自衛隊の迫力ある戦闘シーンは劇場で見るべきだった。

また、長谷川博己石原さとみ市川実日子高橋一生が演じていた超デフォルメされたキャラクター達はアニメみたいで笑えた。しかし、それが行き過ぎてるようなシーンもあって、あまりにアニメっぽい、というかエヴァっぽいシーンは笑ってていいのかな?とも感じた。アニメっぽいと自主映画くさく感じるんだなというのは初めて気づいた。

じゃあ、アニメだったら良かったのかというと、それも違う。実写だったから描ける迫力が確かにあった。

とにかくセリフに情報を詰め込んでいて、その話すスピードは全く現実に即していなかったが、それで、何言ってたのか聞き直したくてリピーターが多かったのかもしれない。手などのディテールにズームインする映像や、エヴァっぽい風景を差し込むような編集は、テンポが良過ぎるくらいで、見ていて飽きなかった。

『シン』は新で真で震で神で進でsinなのだろう。思いっきり震災や現政権を想起させた上で、現実とは異なる理想の世界をエミュレートしていた。

それは、庵野秀明らしからぬ希望を描いているようで、その事実自体が感動的だった。

シン・ゴジラ

シン・ゴジラ

 

 

 

5/13

『M★A★S★H マッシュ』(ロバート・アルトマン監督)を観た。

オールタイムベスト級に最高の作品だった。戦争映画では一番好き(そのジャンルに入れるのも微妙かもしれないが)。戦争は悲惨で理不尽で馬鹿げている。ユーモアで戦う主人公達は、戦争にもそれに付随する権威にも屈さずに、メチャクチャ馬鹿なことをやりまくるから思わず笑ってしまうが、同時にその姿勢がとてもカッコいい。ドナルド・サザーランドの色気も、エリオット・グールドの皮肉屋な雰囲気も、本当に良い。

観始めた時は、状況が全くわからない。野戦病院にいきなり放り出されたような混乱を覚えるけど、見方が分かればその後はもうずっと楽しい。セリフが重なりまくってるあの映像は、異常事態が日常生活になってしまっているというおかしな空気を伝えてくれる。

途中、ホットリップスへの仕打ちはやり過ぎてるようにも見える。女性蔑視というか、軽視というか。その後の展開でホットリップスと仲良くなろうとも、そこだけはあんまり好きになれなかった。そこは撮られた時代を反映しているかもしれない。

そんな風に女性への眼差しはまだ差別的な気もするが、階級社会の嫌い方も、人種差別しない実力主義のあり方も痛快だった。

前代未聞の洒落たエンドロールにも笑った。このエンドロールだけ見ても、この作品の革新性がわかる。

 

 

5/3

スリー・ビルボード』(マーティン・マクドナー監督)を観た。

観ている間、多くのことがわからない。それが楽しかった、と観終わってわかる。

まず、どんな映画なのかわからない。だから、見方がわからない。サスペンスか、推理物か、ヒューマンドラマか、ひょっとして、コメディか。どの要素も入っているが、ジャンル自体はどうでもいいことにも思える。この映画において誰が重要なのかもわからない。現実と同じで良い人悪い人というのも簡単にはわからない。次に何が起きるのかもずっとわからない。とりあえず、最初の一回は何も知らない状態で、ただただ翻弄されながら2時間見るのが一番幸せだと思う。

この映画において、全ての事象が人の行動だけに作用されていて、誰かが何かを期待して行動を起こすが、それが必ず行為者の意図とは違う影響を及ぼしてしまう。それは広告の原理のメタファーにもなっているようだった。

非常に多くの要素を詰め込んでいて、散漫になりそうな物語をうまくまとめている脚本は凄い。しかし、結末まで考えた上で、伏線は張りつつ、展開をほのめかさないようにする演出も上手い。

フランシス・マクドーマンドの演技はやっぱり最高レベルで強烈だが、脇を固めるサム・ロックウェルピーター・ディンクレイジもめちゃくちゃ良くて、結末の状況から逆算した演技だと思う。それと、ケイレブ・ランドリー・ジョーンズの優男っぷりが好き。どの人物も魅力的に描かれていて、簡単に憎ませてはくれない。

背景に『ファーゴ』の世界も感じるけど、新たな傑作だった。

 

 

5/2

『この世に私の居場所なんてない』(メイコン・ブレア監督)を観た。

シリアスとギャグが地続きに展開を作っていて、全く先が読めず、驚愕と爆笑が交互に発生したり、同時に発生したりする。その脚本が良く出来ていて、世の中の理不尽に振り回される主人公が、ある事件をきっかけにして世の中に立ち向かい始めて、成長(あるいは変化)するという普遍的なストーリーを、飽きさせない展開で面白く描いていた。特に変わっているのは、主人公の行動原理が『善く生きたい・善く生きるべき』という根源的ではあるが、抽象的で描くのが難しい動機になっている点で、それをはっきりと具体的に描いているのが凄い。難しいので、普通は恋愛とか復讐とか友情を持ち出す気がする。そういえば、『川の底からこんにちは』も思い出した。

演出も良くて、一見状況に合わない音楽が徐々に映像に合っていくシーンや、もう混沌過ぎる展開になって「うわ~」って見てたら、ひゅっと俯瞰でひいた映像で状況を見せて笑わせてくれるシーンが好きだった。冴え過ぎたキャラクターがいなくて、行き当たりばったりでストーリーが転がるのもワクワクして良かった。

光の中で飛ぶ無数の羽虫、夕暮れの陽光の中で隣に誰かがいること。一連の映像が世界を肯定する力も強かった。

この世に私の居場所なんてない | Netflix (ネットフリックス) 公式サイト

 

 

4/21

ブロンソン』(ニコラス・ウィンディング・レフン監督)を観た。

観始めた第一印象は「赤い」。やはり後の『ドライブ』や『オンリー・ゴッド』にも繋がる、闇に光る印象的なネオンサインのような光があって、それが赤い。

そして、異様にグラフィカルな画面構成が他の作品より強く意識できて、人物と物体がシンメトリーな配置であることが多いと気づいた。先に挙げた2作もそうだったのかもしれないが、今回ははっきりとしたストーリーが無かったので、それが際立ったのかもしれない。

暴力描写はやはり圧倒的で、トム・ハーディの怪演が素晴らしかった。強さの漲る背中と、振り回すために溜めた拳のあの迫力は、本当に殴ってるようにしか見えなかったが、実際はどうなのだろう。暴力衝動に本当に理由が無いように描かれるヤバさも良かった。

他にも、話の流れぶった切ってたけど、精神病棟の奇天烈過ぎるダンスシーンは爆笑した。

それと、Netflixはモザイク入れないんだな…。トム・ハーディの股間をあんなに見ることになると思ってなくて、ビックリした…。

ブロンソン (字幕版)

ブロンソン (字幕版)

 

 

 

4/11

Netflixで『ダムネーション』(原作・制作 トニー・トースト)シーズン1を観始めた。

ダムネーション | Netflix (ネットフリックス) 公式サイト

 

 

4/8

ジョン・ウィック』(チャド・スタエルスキ監督)を観た。

アクションシーンは斬新でカッコよかった。拳銃とサブミッションを混ぜた戦闘術(ガンフー?馬鹿なネーミング最高)は動きが全く読めなくて面白かった。キアヌ・リーブスのアクションは『マトリックス』とかとは全然違った。激しい動きをカメラはうまく捉えてると思う。極めつけはジョン・ウィックの拳銃と車を使った戦闘術だろう。あの発想は無かった。そして、実写でやるとは!マンガかアニメだろ!

プロは敵がどこにいるのかがわかり、どう動くのかがわかり、一瞬早く動いて対処できる。この動作が入念な練習の賜物に見えないことも無いが、そういう特殊能力として捉えるのが正しい楽しみ方だろう。

ジョン・ウィックVS大組織の引き金となる事件は、どうも飲み込みづらかった。プロでも油断してるとヤラレちゃうんだな、殺せば早いのにジョン・ウィックは殺されないんだな、とか思ってしまっては興醒めなので、没入しようと少し頑張った。

暗殺者ホテルやコインの話はやたらと漫画的に思えたが、ケレン味たっぷりで笑えた。

 

 

4/1

ちはやふる 上の句』(小泉徳弘監督)を観た。

ティーン向け青春映画の決定版だろう。俺が何歳の頃でも率先して映画館に見に行く映画では無いが、見ればちゃんと感動出来る作りだった。食わず嫌いは勿体なかった。

原作を少し読んだことがあるが、原作の内容を大変綺麗に映画に落とし込んでると思った。持たざる者であるツクエ君を丁寧に描いて、太一を主軸に持って来るやり方は、下手なスポ根映画より全然感動出来る作りだった。

映像としても、スポーツとかで見るようなスーパースローを使った動きの緩急のつけ方が自然で巧い。漫画的なカラフルなイラストの挿入も無理がなくて良い。

そして、広瀬すずの美しさたるや。どの角度から撮っても、どのスピードで映っていても、どんな表情でも、白目を剥いても、崩れない。

 

 

3/4~3/31

Netflixで『親愛なる白人様』(原作・制作 ジャスティン・シミエン)シーズン1を観た。

黒人に対する人種差別は、ありとあらゆる場面に存在し続ける。生きているだけで黒人は差別にさらされ続ける。多少デフォルメされてる部分もあるのかもしれないけど、黒人にはそう見えている。

その前提があった上で、白人と戦うか、白人に順応するか、白人と協調するか、と常に選択を迫られている。しかし、どの選択をするにしても、皆には怒りが共通している。

恋愛、友情、SNS、パーティといった感じで大学生活を楽しく過ごしたくても、必ず人種差別の問題に突き当たって、その怒りと向き合うことになる。瞬間的には生き生きとして見える黒人もいるが、やはりそれは幸福なことではない。

とはいえ、大学生っぽい描写も多くて、ドレイクやジェイムズ・ブレイクみたいな有名人の名前(主に音楽関連)も飛び交ってて、それが面白い。あまり差別問題に詳しくない俺にはコンテクストが読みきれてない固有名詞のやり取りも多いが。

メールやSNSの画面にそのまま出る表現はそろそろ確定っぽいな、とふと思った。違うドラマでも似た表現をしていた。

全体的に編集も脚本もテンポよく進行するが、シーズン中、途中ダレてる感じもある。しかし、第1話、第5話、第10話でドラマの象徴的な話を持って来て、興味を持続できるようにしている。特に最終話のカオス描写が素晴らしくて、あの状態になるように最初から逆算して作っていたのでは、と思える出来だった。

親愛なる白人様 | Netflix (ネットフリックス) 公式サイト

 

 

3/26

『キング・オブ・コメディ』(マーティン・スコセッシ監督)を観た。

怖過ぎて笑うしかないという状態を持続して観た。だから、コメディなのかな。

ロバート・デ・ニーロの狂人っぷりが怖過ぎる。あの不気味さと生理的な気持ち悪さ。そして、何しでかすかわからない感じ。人とうまく接することができなくて思い込みやすい点は『タクシー・ドライバー』に近いが、この映画で最も恐ろしくて特徴的なのは、妄想が映画全体を包んでしまっている構造で、それが凄まじい。

映画の序盤から主人公の妄想が入り混じるのだけれど、それは映像の加工等で区別しているわけではなくて、物語の文脈上突飛過ぎるので主人公の妄想だとわかる、という編集をしている。しかし、あるポイントで『妄想だと思って観ていたシーンがどうやら現実だった』となる瞬間が急に訪れる。その瞬間の気まずさがメチャクチャ恐ろしいし、むしろ妄想であってくれ、と願ってしまうほどだった。

そこから最悪の悲劇で喜劇の結末に向かうのだが、ラストシーンまで観ると、あれ?どこからか妄想だったのか?とまた疑わしく思える恐ろしさがある。

あの舞台でのジョークもどこまでが本当だったんだ?じゃあ、今まで見てたのも妄想?最後のシーンでの世間のあの反応はあり得ないよな?いや、最初から最後まで妄想か?と全てをひっくり返される可能性もある。そりゃ映画っていうものは、作った奴らの妄想みたいなもの(虚構)ではあるのだが…。と映画というフォーマット自体に対しても醒めてしまう不思議な体験をした。

 

 

3/23

『キャビン』(ドリュー・ゴダード監督)を観た。

この設定を生かす脚本はこれなのか?徐々に謎を明かした方が面白くない?

ホラー映画のお約束(あるいはご都合主義)を逆手に取って、そのお約束には理由があった、という設定自体は上手いと思うけど、最初からその設定をぶっちゃけて進むと緊張感が無くて、全体的に興味が持てなかった。最初の1シーンは良いけど、その後しばらく若者のシーンだけで進めればよかったのでは?

途中の若者たちの活躍と舞台裏でのピンチをリンクさせるシーンは面白かった。また、終盤でホラー映画のお約束が起きないはずの世界にいるはずなのに、結局ホラー映画のお約束に飲み込まれていくような物語構造自体は面白かった。メチャクチャにし過ぎて破綻しているとは思ったが。全体的にバカ映画なのに真面目にホラーっぽくやってるところもあるのでどっちつかずになっていた気がする。

後で調べて、「全てのホラー映画がこう作られていた」と思えるメタ性が評価されてるっぽいことはわかったが、この映画固有の要素が強かったのでそういう風には思えなかった。

監督は『LOST』とかの脚本に関わってたと知って、かなり納得した。

 

 

3/16

『HIGH & LOW THE MOVIE』(久保茂昭監督)を観た。

最後の方、観てるのめちゃくちゃキツかった…。ドラマ見てないせいもあるんだろうけど、グダグダだろう…。過剰にデフォルメされたキャラクターと、ダンスをベースにした激しいアクションだけが詰まっていた。キャラの見せ場・アクションの見せ場・それらの複合的な見せ場をとりあえず繋いでいたのが、ストーリー。という従属関係になっていた。

達磨一家の登場シーンには爆笑したし、雨宮弟は普通にカッコよかったし、戦争開始の映像は入り乱れ方が素晴らしかったし、九十九のやられっぷりが激しくて良かった。

しかし、それ以外は見てられなかった。ずーっと音楽が鳴っているのだが

、それで演技力を誤魔化してる部分があるようだった。音楽が止まった途端に見てられない演技をしていることに気づいたりした。

そして、何よりコハクさんのやってることの意味が分からな過ぎた。ドラッグのせいと考えておけばいいのだろうか。そのせいで何のために対立してんのかよくわからないし、この戦争らしきものが、普通の喧嘩とどう違うのかもよくわからなかった。殺すのは無しなのね、警察は一応いるのね、みたいな。

コハクさんを説得するシーンの『回想→当時の台詞を踏まえてそのまま言う』みたいな流れのつまらなさにも驚いた。回想シーンもドラマの劇中であったようには見えなくて、この説得のために撮ったように見えて馬鹿らしかった。

HiGH&LOW THE MOVIE

HiGH&LOW THE MOVIE

 

 

 

2/17

許されざる者』(クリント・イーストウッド監督)を観た。

古典的名作!きっと公開当時からそうだったに違いない。

昔ながらの西部劇を鑑賞したことが無いので詳しくはわからないが、物語の基本フォーマットはとてもわかりやすくて、俺の思うTHE西部劇だった。それでいて、殺人への逡巡や苦悩は現代的な脚色だと思った。最後まで観ると『非道な人間は殺してよい』という姿勢も見えて違和感も覚えるが…。

主人公演じるクリント・イーストウッドの『老い』の執拗な描写は普通に面白くて笑ってしまったが、物語の伏線として絶対に必要だったんだと観終わって納得できたし、感心した。作家と保安官のやり取りによる英雄譚の否定も、同じ伏線の役割を果たしていた。

終盤に向かって緊張感が増していく。西部劇らしい早撃ち対決が代表的だが、「誰が誰を撃つのか」という緊張状態に、かなり多くの工夫したパターンを作っていて飽きさせない。牢屋越しのあのやり取りには息を呑んだし、先の見えないクライマックスの迫力には圧倒された。

どうやって作っていったのかが気になって、特典のメイキングも観た。こんなに確認したのは久々だった。

ジジイになったイーストウッドは頑固で不器用で渋くてカッコイイ。

許されざる者 [Blu-ray]

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2018年前半に読んだ本の記録

2017年の読書履歴を振り返った際に『2018年はいろんな国の小説(文学)を読んでみよう』という目標を立てたが、半年経った時点での達成度は低い。

韓国、中国、トルコ、ロシアなどの文学に興味があって、面白そうな本があるのはわかっているのに、海外文学で多く読んでいるのはアメリカ産らしい。

気づけば何となくアメリカ。思考の癖はなかなか抜けない。

別にいいんだけど。

でも、小説読んだ国を世界地図にマッピングしていく遊び方まで想像しているのになあ。

 

今回、アマゾンへのリンクもつけてみた。その方が見返した時に面白そうだったので。

 

以下、いつも通り、遡る形での記録となる。

少しは配慮して書いたが、ネタバレといわれる事故の危険を感じた際には、流し見をお勧めする。

 

 

5/28~6/30

Self-Reference ENGINE』(円城塔)、読了。

この小説はややこしさが面白い。表現だけを見ると「馬から落馬する」くらい正しくないように見える文章が、筆者の用意したSF的装置を通過することで、可笑しいけど必然性はあるように見える。そして、そんな文章がたくさんある。そのしつこさも面白い。

正直に言って、佐々木敦氏の解説が無ければ、自分の中で総括できない部分は多かった。とにかく何を読んでいたのか思い出せない。多種多様な雰囲気のSF小説群が、多種多様なテーマを描きながら、一つの長編っぽさも持っている、というのがその原因だろう。読みながらぼんやりと単語や世界観に共通性は感じられるのだが、因果関係が無かったり逆転しているように見えたりするので、覚えていられない。

そんな混乱の中でも、超越知性体や巨大知性体と世界の関係が、筆者と小説の関係と相似になっているのは、俺でも漠然とわかった。物語を駆動するためではなく、メタフィクションであるためのメタフィクションなので、読者は読んでいる瞬間に読者であることを何度も意識させられる。この強制的に我に返される瞬間が物語に没入するのと同じように面白い、というのは初めて気づいた。

そして、名久井直子の装丁がクール!

Self-Reference ENGINE (ハヤカワ文庫JA)

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4/21~5/26

『バベる!自力でビルを建てる男』(岡啓輔)、読了。

社会や常識という枠にちゃんとぶつかって、遠回りになっても、傷ついても、踠くことになっても、自分が正しいと思える道を進む。そのまっすぐな不屈の精神に、畏敬の念を抱く。

この人が報われない社会はおかしいんじゃないか、この人みたいに生きたいのに生きていない俺はおかしいんじゃないか。要領よく生きるのが良い人生じゃないじゃん。新井英樹の漫画になる理由はよくわかる。

本の内容としては、上記のような『著者の生きる姿勢がわかる今までの活動・今後やっていく活動』パートと、『建築の歴史や現状への言及』パートがあって、それらが混じり合いながら、自力で建てる鉄筋コンクリート製ビルの建築プロジェクト『蟻鱒鳶ル』の話に繋がっていくような構成になっている。

建築を勉強したことがないので、建築の歴史や現状への問題提起をしている部分は知らないことが多かったのだけど、現場での経験に裏打ちされた説得力のある文章は理解しやすかった。

特に、素材としてのコンクリートの話はかなり深刻だとわかった。水を増やしたコンクリートは耐久性に問題があるけど、水分が少ないと扱いづらく量産に向かない。この建築の耐用年数の問題はとても生々しいし、現代の日本では想像に容易い。

そして、結果的に陥りがちな『消費を前提とした建築』というのは、たまたま同時に読んでいる『コンヴィヴィアリティのための道具』で言及している、行き過ぎた産業主義の問題とも共通していた。そのカウンターとしての蟻鱒鳶ルだと理解した。

また、一方で、建築を作品と断言している部分も予想外で面白かった。最初、作品至上主義は消費を促すようにも思えたが、全くそういう意図ではなかった。作る悦びと責任の話だった。建築は希望を表現する芸術である、という言葉はとても力強く、それを意識するだけで、建築の見方は変わった。

だから、この目で近いうちに蟻鱒鳶ルを見に行きたい。いや、行かねばならない。

バベる! (単行本)

バベる! (単行本)

 

 

 

5/23

一ヶ月以上、『コンヴィヴィアリティのための道具』を読んでいる。難しい。何度も行ったり来たりして文意を捉え直しながら読み続けている。面白いところも多々あるのだけど、結構辛い。社会主義でも資本主義でも無い方法論って皆がずっと欲している、というのはよくわかる。

そして、小説が読みたくなってきた。小説ばかり読んでると、エッセーとか新書とか読みたくなるのだけど。無い物ねだりか。

合間に『バベる!自力でビルを建てる男』も読んでいて、こちらは読みやすいし、ずっと面白い。たまたま同時に読んでるだけなのに『コンヴィヴィアリティのための道具』と共鳴する部分も感じる。二冊とも効率優先の社会への反発や逸脱のススメを説いている。

そのうち読む予定の『さよなら未来』(若林恵)とも、きっと共鳴するのだろう。

 

4/18

『コンヴィヴィアリティのための道具』(作:イヴァン・イリイチ/訳:渡辺京二 渡辺梨佐)を読み始めた。

コンヴィヴィアリティのための道具 (ちくま学芸文庫)

コンヴィヴィアリティのための道具 (ちくま学芸文庫)

 

 

 

4/11~4/18

『最も危険なアメリカ映画』(町山智浩)、読了。

アメリカ映画は現実世界とめちゃくちゃ密接で、昔から相互に影響し合ってきた。

この本では、時系列に沿って、古い映画から新しい映画へと話を進めていき、映画とそれを取り巻く社会状況を説明していく。そのため、アメリカがずっと苦しみもがいている問題を中心とした、アメリカ史の教科書としても読める。特に人種問題は、アメリカが出来てから今までずっと深刻に存在し続けているとわかる。そして、全ての論考は繋がっていて、アメリカが抱える問題について、知らなかった事実や抜け落ちていた視点を啓蒙するような、著者らしい内容になっている。

読むと論じられている映画を見たくもなるのだが、今回、紹介している映画はかなり古いものや日本でソフト化していないらしいものも多く、見るためにはかなりの熱意と労力が必要だ。しかし、見なくても十分にわかったような気にもなってしまうし、満足感もある。相変わらずの筆者の力量。

紹介している映画の中では、読者に一番馴染みが深いであろう『バック・トゥ・ザ・フューチャー』と『フォレスト・ガンプ』の章が、最もセンセーショナル。俺はこの2作品を何回見て何回黒人への差別をスルーしてきたのか、とショックを受けた。ロバート・ゼメキス作品を調べてみよう。今後も警戒することになるだろう。

一見素晴らしい映画でありながら誰かに差別的な映画というのは存在し得る。映画はプロパガンダにも利用できる優れた道具なのだ、と改めて肝に銘じることにした。

 

 

4/5~4/10

寝ても覚めても』(柴崎友香)、読了。

そうだよ、夢と小説は似てるんだ。そのことを忘れてた。もしくは、気づいてなかったのかもしれないけど、気づいてしまうともう気づいてなかったのを思い出せないくらい、似ているとしか思えない。どちらも現実をエミュレートした創作であり、無意識のものが夢で、意識的なものが小説とはいえないか。SF小説ファンタジー小説だとしても、五感や感情のあり方は現実をエミュレートした上で現実から離れようとしているのだから、この気づきと矛盾しない。夏目漱石の『夢十夜』とかこの気づきから着想してるのかな。

この作品を読んで、そんな視点を得た。夢のようだと感じる表現が多かったからだ。少なくともどこかのシーンは夢オチが来るんじゃないか、と恐れながら読んだからだ。行間を空けて挿入される風景の一片にいつも「…夢では?」と思わせる力があった。夢は現実にありそうであり得ないことも多いのだ、とも気づいた。

小説は文章の順番で立ち上がる景色が違う、ということは冒頭の展望台の場面で強く意識した。それが小説の本質的な魅力の一つだと直感させられた。グーグルアースと一眼レフを交互に見るような視点ごと切り替わるダイナミックな描写は、めちゃくちゃカッコよくて面白かった。

時間経過と省略も上手くて、途中であったはずの修羅場や意気消沈しているシーンを細かく描かなかったし、亮平の感情を殆ど描写しなかったので、全体的にドライな印象で終始させるのかな、と思ったら最後に怒涛の感情の嵐が待っていたので、夜明け前に一気に読んで、衝撃を受け過ぎて、読んだ後なかなか眠れなかった(し、寝てもなぜか猛スピードの車にひかれる悪夢を見た)。

鳥居麦もそうだし、最後の森本千花もそうだけど、どこか夢の中の登場人物のように行動に飛躍があったのも、読んでいて笑ってしまった。

柴崎友香超すげー。彼女の本は他にも何冊か読んでて大好きだけど、今まで読んだのとは全然違うし、一番強烈だった。

本に家で待機してもらっている間に映画化が決まってしまったので慌てて読んだのだが、読んでる間、映像化を想定してしまうことが多かった。そして、この作品の映像化は大変だろう、という思いが消えなかった。風景は主人公の心情に従属せず、独立した存在として描いているのだけど、いろんな景色に主人公が勝手に心情を託すシーンが多いのが難しそうだった。解説で豊崎由美も言っていた信用できない語り手問題の描き方も気になる。

それでも、ラスト30Pの映像化には期待せずにはいられない。

史上最悪のパンチドランクラブに。


4/5

少しずつ『寝ても覚めても』を読んでいる。

夜明けごろに読むのが合っている。夢のような感触の風景の挿入は、読むと静謐な気持ちになる。

 

4/1

寝ても覚めても』(柴崎友香)を読み始めた。

寝ても覚めても (河出文庫)

寝ても覚めても (河出文庫)

 

 

 

4/3

『365日のほん』(辻山良雄)を読み始めた。

365日のほん

365日のほん

 

 

 

3/28~3/31

『フィリピンパブ嬢の社会学』(中島弘象)、読了。

タイトルと新潮新書であることから想像していた内容よりも、ルポ形式の読み物だったので意外だった。勿論、帯にもそんなことが書いてあったのだけど、新書であることにミスリードされていた。読み終わってしまえば、新潮新書の中にあるというズレが面白いのだけど。

筆者が研究対象のはずのフィリピンパブ嬢と付き合ってしまう。このメインストーリーを軸にして、日本におけるフィリピンパブの現状、フィリピンという国の文化とその現状も教えてくれる。

最初は大学生時代~大学院生時代のフィールドワークでの研究として始まり、そこは詳しく知らなかったことも多くて、単純に勉強になった。フィリピンパブ嬢と付き合ってからは日記的な様相が濃くなるが、その波瀾万丈っぷりが読むに値する濃密さだった。皆に反対されてもめげない二人の姿には、思わずグッときた。

そして、統計の数字やフィールドワークだけでは知り得ない、フィリピン人の考え方や生き方には驚いたし、著者がそこに踏み込んでいく姿勢自体にも感心した。

読後感は、テレビ番組『家、ついていってイイですか?』を観た時の気持ちに似ていた。

フィリピンパブ嬢の社会学 (新潮新書)

フィリピンパブ嬢の社会学 (新潮新書)

 

 

 

3/25~3/28

『異常探偵 宇宙船』(前田司郎)、読了。

前田司郎の小説はいつも変で楽しい。そして、作品ごとに小説の書き方を意識的に変えているようだ。毎回模索しているとも言える。

今回は児童向け探偵小説をベースにしていたんだと思う。読んでいる間、この読み心地が何かの作品に似ているとずっと感じていたが、中盤くらいで思い出した。『ズッコケ3人組』シリーズの推理小説系のだ。読者に語りかけてくる感じや、筆者の考えを述べる場面が似ている。

それにしても、前田司郎は、こんなにプロットをしっかり組んで、伏線を張ったり回収したりする小説も書けるのか。ちゃんと探偵小説になっていたし、不覚にも先が気になるように出来ていた。

それでも、やっぱり前田司郎節は健在だった。米平少年の言動のズレっぷりは素晴らしくて笑ったし、仕草と意図の明け透けな表現や、筆者も含めて正常と異常を疑っている文章は、ずっと前田司郎の小説が描いてきたものだった。おかしなキャラクターばかり出てくるが、逆にここまで露骨な変人達は今までいなかった気もするので、そこは探偵小説に対して戦略的な気がする。

このジャンル小説への前田司郎節による介入というのは面白い。SF小説でも歴史小説でも恋愛小説でも読みたい。あ、ドラマとか演劇ではもうやってたな。演劇『宮本武蔵』も、ドラマ『タイムパトロールのOL』も、ドラマ『空想大河ドラマ 小田信夫』も、どれも面白かったもん。

異常探偵 宇宙船 (単行本)

異常探偵 宇宙船 (単行本)

 

 

 

3/9~3/24

『現代の地政学』(佐藤優)、読了。

5回にわたる講義を書籍にまとめていた。

最初の方は、大学の講義のように雑談めいた話も多くて、進め方に不安を覚えたが、最終的には地政学という考え方のエッセンスとそれを使った世界の見方が少しわかるようになった。

地政学という考え方のいかがわしさも含めたイントロダクションからして面白かった。それにしても、すごい知識量と話の上手さ。半信半疑だが、各国が前提条件として、この学問にもなりきれていない考え方を踏まえて外交に臨んでいるというのも、ありそう、かも?「山は攻めづらい」とか「こちらの海から回り込んだ方が早い」くらいの簡単な判断は、学問にはなり得ないとも思えるし。

また、自分の国際情勢の知識が浅薄なので、地政学の周辺情報は単純に勉強になった。沖ノ鳥島ってそんな微妙なんだ、とか。

この本のことを思い出しつつ、中東に注目していきたい。

現代の地政学 (犀の教室)

現代の地政学 (犀の教室)

 

 

 

2/28~3/8

『獣どもの街』(作:ジェイムズ・エルロイ/訳:田村義進)、読了。

暴力とセックスの出血大サービス。軽快に頭韻を踏みつつ、混ぜ込んで煮詰めたエログロを食わされた。

『ホワイト・ジャズ』以来に読んだエルロイ作品で、どうしても比較してしまいながら読むことになった。3編通してのシリアス度は低く、不条理な状況がギャグのように描かれることが多かった。デフォルメされたロス市警が人種差別や性差別しまくった言動を繰り返すのは、どれくらいリアルなんだろう?ハリウッドに住む白人はこんなもんなのか?別に面白くもないので、何だかなあ、と思った。

また、『ハリウッドのファック小屋』ではわからなかったが、他の2編の頭韻の踏み方は異常だった。訳者の苦労が偲ばれる。原文が気になる。こういう文体上のルールが作品に与える影響は気になる。ラップと同様、表現を制限することもあれば、思いもよらない表現にジャンプするようなこともあるのだろう。正直、日本語ではイマイチカッコよく感じなかったが。

少しだけ『ホワイト・ジャズ』の電文体っぽい場面もあったが、そこを読んで動作や場面の省略のやり方がマンガと一緒だと気づいた。

獣どもの街 (文春文庫)

獣どもの街 (文春文庫)

 

 

 

2/22~2/27

『流血の魔術 最強の演技』(ミスター高橋)、読了。

久々に好きになれない著者の本を読んだ。勧められて読んだから起きる事故なので、貴重な読書体験ではある。

日本のプロレス(主に新日本プロレス)の内情暴露本で、プロレスは真剣勝負ではなく最高のショーであり、日本のプロレス業界もそれを世間に認知させた上で、興行としての発展を目指そう、という前向きな読み方ができる。

しかし、一方で、ショービジネスに携わった人特有のサービス精神のつもりかもしれないが、日本のプロレス界で起きた様々な出来事の裏側を暴露する部分が多過ぎるように感じた。この内容で一人が語る形式だと、単なる自慢話のように感じられたり、「昔は良かった」的な懐古主義に陥ってしまうようだ。

特に猪木への気持ちは愛憎半ばだからか、文章によって正反対のことを書いたりしていた。尊敬しているというスタンスのまま小馬鹿にした表現が散見していて、読み心地が悪かった。

プロレス業界を前向きに考えたいのなら「プロレスが真剣勝負ではない」という点を強調しつつも、試合を面白くするための具体的な努力の部分をより深く掘り下げるべきで、「事件の舞台裏を明かす」というゴシップ的要素が前に出過ぎているのが残念だった。実際、マッチメイクするための段取りや準備の部分は面白かった。

また、アメリカのWWE的(試合はショーであるという)志向を強めていったのがハッスルだったのかと思い当たった。ハッスルがこの本の影響下で生まれたのかどうかは知らないし、現在成功しているイメージは無いが。個人的には、お笑い要素が不真面目さに見えて、緊張感が無いのが苦手だった。

読みながら驚く部分が私には無く、ある程度ショーだと認識していた、と気づいた。プロレスの熱心なファンじゃない私でもそれくらいの認識なので、この本の意図は現在は十分に世間に広まっているかもしれない。この本を踏まえた上で、最近時々目にする棚橋や中邑やオカダカズチカなどの活躍も追ってみたくなった。

読んでて思い始めたが、著者と読者の間にもプロレス技をかける時のような共犯関係がある気がする。好きじゃない相手とそれをやるのは難しいとわかった。

流血の魔術 最強の演技 (講談社+α文庫)

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2/18~2/22

『ルポ川崎』(磯部涼)、読了。

とても刺激的な内容で、思わず声を出して驚いたり、ため息をついたりしているうちに、あっという間に読み終わってしまった。俺は川崎について殆ど知らなかったと気づいた。

読み終わって、川崎に行きたくなった。その動機はスラム・ツーリズムだろうか。ここで描かれていることを確認したくなる。こんな場所が本当に日本にあるのか?川崎の人が話すエピソードはどれも本当に日本なのか?と疑ってしまうほど、過酷で壮絶なものばかりだ。それは俺が一面的な日本しか知らなかったということでもある。臆病なので、どこまで踏み込めるのかは自信が無い。

そして、BAD HOPの音楽を聴いてみたくもなる。こんなに本場アメリカと似た条件でヒップホップが発生するとは思いもよらなかった。漢 a.k.a GAMIの『ヒップホップ・ドリーム』は一人語りのリアルによって『ゲットー』での暮らしを描いていて、半信半疑で読んでも刺激的で面白かったけど、このルポの地域全体が迫ってくる『ゲットー』のリアルさには戸惑った。それは、エンターテインメントではない生々しさだった。

カムバックした小沢健二や、彼とセットで話題になる岡崎京子が描いた『リバーズ・エッジ』も、川崎と関連して語れるというのは感心した。(文化も含めた)南北の分断と川を挟んだ両岸の対比は、全く知らなかったけれど、とても面白かった。原因や事例をもっと調べてみたい。

サイゾーでの連載ということで、雑誌企画のシリーズコラムっぽい叙情的な表現が(特に文の最初と最後に)多かったのは意外だった。

ルポ 川崎(かわさき)【通常版】

ルポ 川崎(かわさき)【通常版】

 

 

 

2/8~2/18

『ポロポロ』(田中小実昌)、読了。

著者は何かが語られることで物語になってしまうことへの懐疑、ひいては、物語にまぎれ込むご都合主義の排除を徹底するために孤独に戦っている。

そして、その語り口で、普通に悲惨で、普通に不条理で、普通に無意味な戦争をそのまま描いている。この「そのまま」のレベルが凄い。言葉遣いにも細心の注意を払って、ドラマティックな部分は丁寧に取り除く。

いろんな短編があるが、戦時下での下痢便の話に終始してしまう「寝台の穴」には衝撃を受けた。エクストリーム過ぎる。それを読んだ感触は水木しげるの戦争漫画にも少し似ているが、この装飾の無さは唯一無二だった。

戦争の話にありがちな感情的な文章は無く、身もふたもない描写の連続なのに、読み終わると戦争は本当に厭なものだと心から思う。不思議だ。

そして、著者は自分が語る言葉の表現にまで、疑問の投げかけと検証をずっと繰り返していた。この変に真面目で特異な文体は、確かに保坂和志に大きな影響を与えている。

ポロポロ (河出文庫)

ポロポロ (河出文庫)

 

 

 

2/1~2/8

『捨てられないTシャツ』(都築響一 編)、読了。

俺も捨てられないTシャツを持っている。むしろ、多い。触ると大したストーリーも無いのに記憶が刺激されて(cf.サイコメトラーEIJI 的に)愛着を感じてしまう。他の服に比べて、Tシャツには愛着が湧きやすいのではないか?

それぞれのTシャツについて、それにまつわる話が載っているんだと思い込んで買ったが、実際には各自がそれまでの人生を語り、その付属品としてTシャツのストーリーが挿入されるような構成だった。

波乱万丈な人生を語る方も多く、時代を感じさせる固有名詞も多く登場するので、途中まで読んで「あれ…?この人、どんな人だっけ…?」と性別・年齢・職業とTシャツを繰り返し確認することもよくあった。そのため、語り手のデータとの答え合わせとして物語を楽しむことも多かった。

それぞれの物語自体も、単体でも面白いものが多く、驚愕したり、じんわり感動したりした。サラリーマンやいわゆる普通の人が少ないのは少し気になったが、そういう人達はTシャツが物語を語れるということに気づきづらいのかもしれない。

捨てられないTシャツ (単行本)

捨てられないTシャツ (単行本)

 

 

 

1/9~2/1

ヴァリス』(作:フィリップ・K・ディック/訳:山形浩生)、読了。

前半は読むのがめちゃくちゃ苦痛だった。聖書とかを読み慣れていれば感じ方も違ったのかもしれないが、謎のオリジナル宗教論が延々ぶちまけられていて、その部分がかなりちんぷんかんぷんだったし、妄想なのか幻覚なのか現実なのかわからない状況の描写は、読めば読むほど理解不能に陥る。

しかし、その語りの最中にも絶え間無く語り手の意識や人称が混乱しているような文体になっていて、作者がどこまでコントロールできているのかわからないという様子も含めて、その異様さは面白かった。読むの辛いけど。

そして、後半は前半の非現実的な状況が現実に成り代わっていくような、まるで先が読めない展開でガンガン読まされた。最後まで読んでもスカッとしないのは想定内。

天才的なアイディアを生み出せる超博識な狂人が描く世界はいつも突き抜けていて、ブラックユーモアとは違う方向性で、暗いのに笑える。

 

 

2017/12/6~2018/1/9

『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子)、読了。

この本も高校生の時に出会いたかった一冊。『現在の状況把握や未来への指標のために、過去から学ぶ』というのは、よく聞く表現のせいか、少し見くびっていたかもしれない。でも、その言葉は全くその通りで、やはり歴史は受験勉強のためにあるわけではなく、現在と当時を比較すると、(局所的にでも、全体的にでも)歴史を繰り返している(ように見える)ことがよくわかる。

また、なぜ、授業で聞いていた時よりも深い理解を覚えたのかを考えたのだが、おそらく人物(もしくは、それを国家)の思考や気持ちを微細に解き明かしていくやり方に、その秘訣がある。松岡圭祐ロイド・ジョージ胡適など、彼らの立ち振る舞いはめちゃくちゃスリリングで面白い。パリ講和会議はそれだけで映画になるのではないか。また、歴史のある期間を違う視点から2度続けて読み解く構成は、まるで推理小説のようで、グッときた。

過ちを繰り返さないために、ずっと自分達で考えて生きていくために、誰もが何度も読まねばならない本だと思うし、何度でも読める読み物としての面白さを秘めた本だった。

それでも、日本人は「戦争」を選んだ (新潮文庫)

それでも、日本人は「戦争」を選んだ (新潮文庫)

 

 

リード・オンリー・メモリーズ

2017年 2月

『会話が溶けて混ざる』


妹が結婚するというので帰省した時に、父、母、妹、妹の婚約者、妻、息子の6人で集まって、チェーンの安い居酒屋で食事をした。

実家の近所にあるその居酒屋には、子供を自由に遊ばせるだだっ広いキッズルームがあった。我々が案内された座敷のすぐ横にその部屋があって、刑事ドラマでよく見る取調室のように、あるいは、水族館か動物園のように、大きなガラスの窓越しに中を確認できるようになっていた。

キッズルームの端っこに無造作に置いてある玩具は見るからにボロボロで、全体的にみすぼらしく見えたけど、一歳半の息子はその部屋を見つけた途端、居ても立っても居られなくて、目を輝かせながら、キッズルームに行きたいと暴れた。

仕方なく連れて行き、最初は俺や奥さんが付き添っていたが、刑事の取調みたいに部屋を見ていれば大丈夫そうだと思ったので、時々一人で遊ばせたりした。その後も、彼は玩具を両手に掴みつつ、その部屋と我々のいる座敷を行ったり来たりした。


注文をまとめる人がいなかった。

それで、ダラダラと各々が好きなものを注文して仕方なく俺が適当なことを言って乾杯した。父親は既にビールを1/3杯くらい飲んでいた。


しばらく一人で遊んでいた息子が座敷に帰ってきて遊び始めた。

妻が「上手だね」とブロックを積む息子を褒めた。

その直後に妹が自分勝手に「あ、この唐揚げ美味しい」と言い放った。

その隣にいた母が「ね。上手に揚げてるね」と2人の発言を混ぜた。あるいは、会話として繋げた。

その不恰好な会話が可笑しくて皆で笑ったが、父親だけはそれを見逃していた。


その後、父親は生まれてから今まで一度も食べたことない豚しゃぶを急に注文したが、保守的な舌の持ち主なのでやっぱり食べられなくて、残りを鍋ごと妹の婚約者にあげていた。

彼は嫌な顔一つせずに食べていた。

ああ、妹は優しい人を選んだらしいな、と思った。

 

 

 

おそらく1996~2002年の間のいつか。

『Kind Family Case』


父母俺妹の家族四人でケンタッキーフライドチキンを食べていたら、当時小学生だった妹がパッケージを見ながら母に「『KFC』って何?」と聞いた。母が「Kentucky Fried Chickenのことだよ」と答えたら、会話に加わらないでテレビを見ていたはずの父親が「…そんな答えでいいのか?」とちょっと大きな声で遮った。

父以外の3人とも、え?それでいいんじゃないの?なぜ少し本気のトーンなの?と不思議に思っていたと思う。

父は更に「そんな、いいかげんな、答えでいいのか!?」と追い討ちをかけた。

後でわかったのだけど、父は『KFC』を『経営不振』と聞き間違えていた。

普段は浅学を自称していいかげんなところも多い父だが、「娘の問いに本気で答えねば」と声を荒げたと思うと、味わい深い時間だった。

 

 

 

2018年7月と2000〜2009年頃。

『ひきだし』

 

朝、起きたら妻がリビングのテーブルで何かの書類を書いていた。会社に提出する書類らしい。シャープペンシルを使っていた。

「ふーん。シャーペンでいいんだ?」

「そう。変だよね」

あんまり提出物の書類がシャーペンでよかったことってねーなー、とか思いながらトイレ行ったり息子の保育園の準備をしてる最中も、頭の中に何かが引っかかっていた。

しばらくウロウロして、わかった。

「そのシャーペン、誰の?」

「え?私のだよ?私が使ってる引き出しにあったし」

あれ?そうか?

俺のだと思った。

ドクターグリップのシャーペン。

振ると芯が出てくる仕組が中学生の頃から好きで、分解してパーツを入れ替えたりして遊んでたんだよな。妻の使っていたシャーペンは、浪人時代に気合入れて勉強するために買って、大学時代もそのまま使ってたヤツに似てるんだけど、違うのか。

とか思っていたら妻が吹き出しながら「あれ、でも私、ドクターグリップとか買うかな?」と言うので「そうだろ!俺のだろ!」と二人で笑った。

蒸し暑い朝だった。一日が始まった。

 

Twi Twi Tweet(ついつい追意図)

‪記録を残すために非日常的な行為をすること。‬
‪作品を批評するために鑑賞すること。‬

SNSが得意なこれらの罠に陥った時、自身の心の貧しさに気づくことがあるかもしれない。‬

‪あなたはその行為自体を『現在』十分に楽しめているだろうか?‬

 

‪アナ・W・ホール‬

ツイッターを弄っていたら、下書きの欄に未投稿の文章が溜まっていることに気づいた。‬
‪読み返すとなぜ投稿しなかったのかわからないものもあった。推敲した上での投稿を試みたが、不思議なことにそれはできそうになかった。‬
‪その現象がなんだか面白かった。‬


ツイッターが即時性を重視するからできないのだろうか?

投稿できない内容に一貫性は無さそう。書いてる時の勢いで投稿できないと溜まってしまう。書いていた時の気分との乖離が起きると、それが気持ち悪くて投稿できない、ような気もする。‬


‪でも、ブログでならその下書きも投稿できると思った。‬
‪検証も兼ねていくつか載せていく。‬

 

ある日、エスカレーター上ってたら、前にいた女性の首の後ろ側から背中にかけて蜘蛛のタトゥーが見えて、『げ、幻影旅…』と瞳が赤くなりかけましたが、脚が12本じゃなくて8本でした。お互い命拾いしたな…と思いました。

このタトゥーの女性は存在した。
エスカレーターに乗ったら目の前にいた。
しかし、「げ、幻影旅〜」から先の『HUNTER×HUNTER』ネタの部分は、実際はその時には思わなかった。いざツイートしようと思った時に、思いついてデコレイトした。
その時は何となくツイートしなかったが、今見直すと、そのデコった部分のドヤ顔っぷりが気持ち悪かったのだろう。

 

なんだかんだと聞かれたら‬
答えてあげるが世の情け
世界の破壊を防ぐため
世界の平和を守るため
愛と真実の悪を貫く
ラブリーチャーミーなカタキ役
ムサシ!コジロウ!
銀河を駆けるロケット団の二人には
ホワイトホール 白い明日が待ってるぜ
にゃーんてな

何これ…。なんで当時はスルーしてたん…?

息子は最近、昔のアニメ『ポケットモンスター』をよく見ている。一緒に見ていたら、一応の悪役のロケット団がこの決め台詞を言っていた。
「リアルタイムで見ていて何も思わなかったけど、改めて考えると何言ってんだコレ?」ということが言いたかっただけ。
そのまんま。
投稿しなかった理由は、多分、全然面白くないツイートだと気づいたから。

 

以前、喫茶店で本を読んでたら、隣に座ってた紳士然とした小綺麗なおじさんが、病院で尻に座薬を入れられた話を上品かつ滑らかに話してた。本への集中力を根こそぎ奪われるほど面白く感じたが、どう思い返しても『病院で尻に座薬を入れられた話』でしかない。面白かったのは語り方か。勉強になった。‬

これは何度も推敲したが、投稿を断念した。
なぜならば、この出来事が起きた時に面白いと思った気持ちを、そのまま面白く表現することができなかったから。力不足。

 

君の名は。』がハリウッド映画化ということで、『前前前世』も英語でやったりして、と思ったら本当にもう出してるのね。Zenzenzense。

実は『君の名は。』をまだ見ていないので、ただ茶化してるような気分になって、どうしても投稿できなかった。単純に諸々の事実に驚いただけだったんだけど。
せめて見てからじゃないと、茶化すようなことは言っちゃいけない気がしてる。
ちなみに、曲はこんな感じ。

Amazon CAPTCHA

あ、『ラ・ラ・ランド』も見れてないんだよな。『前前前世』で思い出したけど。

 

ポストペットアメーバピグセカンドライフ…。‬

こういうアバター系のヤツ、一過性の流行だったなあ、ってふと思ったことがあった。
思いついたものの、あまりに意味が無くて投稿するタイミングが無かった。

サマーウォーズ』や『レディ・プレイヤー1』みたいな未来はあり得るのか?

 

‪大学受験の時、勉強の仕方が間違っていたのではないか、と最近よく思う。仕事をするようになって、自分で‬

書きかけの文章。自分が書こうとしている内容が長くなるのを予感してやめたっぽい。
ちなみに、書きたかったのは「勉強は長時間一つの教科に取り組まない方が良いのでは?」というようなこと。
高校生くらいの頃の自分は、自主学習時、やると決めた課題を、長時間かけてやり切っていたことが多かった気がする。
何かをやり遂げることが大事だと思っていた。負けないこと投げ出さないこと逃げ出さないこと信じ抜くこと、駄目になりそうな時、それが一番大事だと思っていた。
精神論で勉強していたのだ。
仕事をしている現在の自分の実感としては、いろんな作業を小まめに少しずつ進める方が得られる効果は大きい(現在の業務がそれをできる環境で良かった)。少なくとも自分にはその方が合っていた。

ということが言いたかった。
安易な一般化は危険だが、きっと脳科学的にもそうだろう。茂木健一郎氏はわからないが、池谷裕二氏なら賛同してくれるのでは!
あ、やっぱり長い。


以上のように、世に出なかったツイート達を追悼していてわかったのは、現在、ツイートを見られている意識が過剰に強いということだった。
それは、『140字で手軽に書けて、簡単に読める』というツイッター空間の特性のうち、『簡単に読める』(読みやすい、アクセスしやすい)方を、かなりネガティブな意識で捉えているということらしい。だから、虚栄心たっぷりに話を盛ろうとして自己嫌悪になったり、クオリティが低い投稿を断念したりしていた。

昔はもう少しどうでもいいことを投稿してたはずだが、ユーザーが増え過ぎてそんな事態に陥っている。
その意識をポジティブな緊張感に変えられるのが理想だろうけど、なかなか至難の技だ。

 

最後に、冒頭で引用していたアナ・W・ホール氏についても言及しておく。
彼女は、2016年に弱冠14歳でスイスの科学技術系雑誌『ヌーベル・テクニーク』に、宇宙線Wifiの相補作用が大麻文化の世界的拡散に与える影響の考察」という論文を発表して、科学業界や自然保護団体の注目を集めた後、現在はライプツィヒにあるヴォルベルグ大学で文化人類工学を学びながら、糸電話を使ってSNS使用の抑制を呼びかけるアート活動にも取り組んでいるという才媛で、引用したのは、未来志向型SNS開発ハッカソンと同時開催だった上海のシンポジウムでの発言である、というのは嘘で、この発言も彼女も存在しない。

バレバレかもしれないけど、彼女の名前はブログタイトルを文字っただけだ。

 

昔からツイッター上で誰かの引用のフリをしてみたかったので、下書き欄にあった文面を加工して引用風にしてみた。
引用ってだけで権威を感じちゃいません?
ちなみに、この嘘のつき方は村上龍の『69 sixty nine』へのオマージュである。この本をギリギリ10代で読んだ際には、先が気になるのにこのめんどくさい話法が頻発するのでイライラさせられたもんだ。それでも、あの青春感たっぷりの瑞々しさはグッときた。懐かしい。久々に読み返してみようかな。

 

と、長々と下らない冗談みたいな文章を書きたい時に、ブログというものがあって私は嬉しい。

そして、このブログの下書き欄にも文章は溜まっている。

New Documentary Town

10年くらい前からホンマタカシの写真が好きになって、古本屋で写真集を見かけては買おうか迷う。いや、大抵高いので買わないことの方が多い。

クール過ぎてドライにも感じる彼の作品は、いつも思いがけない視点を教えてくれるし、その視線はいつも少し意地が悪い。
ニュータウンの漂白されたように清潔で整理された街並みはクールに不気味だし、笑っている子供は可愛いから撮りがちだけど子供はいつも笑っているわけではないし、写真は常に嘘をつく、というのをホンマタカシの写真が楽しく教えてくれた。大好きだ。

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でも、最初に気になったきっかけは『ノスタルジー』だったのかもしれない。
好きになってから数年後、高くて買えない『東京郊外』の写真を眺めている時に、唐突に懐かしさを感じて気づいた。

 

俺は地方都市の出身だ。
そこは田舎らしい豊かな自然に恵まれてるわけではなかった。

豊かだったのは工場と道路と車とパチンコ屋だった。

そんな地域の新興住宅地で育った。
家の前の道は急ピッチで砂利道から道路に舗装されたし、空き地だらけだった家の周りには凄い勢いで家が建った。基礎しかない状態の建物もたくさんあって、毎日のようにそこで遊んだ。自分の家と全く同じ形の家も近所にあって、うさぎを横から見た姿に似ているその形を見ては不思議がっていたが、ありゃ建売住宅だからだ。

いつからかマンションもニョキニョキ生え始めて、転校生も多かった。

ブラジルからの転校生もクラスに一人ぐらいはいた。
だから、その地域には移住してきた新たな住人も多かった。お祭りとか地域に根差した古き良き伝統みたいなものも多少はあったけど、できたてホヤホヤみたいな地域行事も多くて、歴史の重みや威厳は感じなかった。たまに古い風習に触れると、どこか自分がよそ者である気もしていた。

当時はその居心地の悪さがよくわからなかったが、今思えば、だ。

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ホンマタカシの撮った多摩ニュータウンの写真を見て、そんな気持ちを思い出した。

そこにあった人工的で寒々しい風景には、自分が育った街の雰囲気があった。
だから、見るたびに少し当時の気持ちが蘇る。愛憎入り混じる気持ちが。


そういえば、この前、久々に『アド街ック天国』を見て、ああ、俺はこの番組嫌いだったな、と思い出した。
なぜなら東京の情報ばかりだったから。「地方にいる俺に関係無い東京の情報はそんなにありがたいもんかよ?」と勝手に上から目線を感じてムカついてた。
東京に住んでいても興味が湧かない地域は多いんだけど。
いや、イノッチは良いよ!

 

そんな俺は、今、成り行きで東京に住んでいる。
ニュータウンではなく、もっとごちゃごちゃした街に。

今となっては、どちらの方が好きというのも無い。
とりあえず、息子はホンマタカシの『東京郊外』の写真にノスタルジーは感じないだろう。

じゃあ、この街は息子をどんな奴に成長させるのだろうか。

 

最近、ある鼎談を読んで、『文化資本』という言葉を知った。

鼎談の内容は、欧米を中心とした音楽の現状と今後について、Superorganismという音楽グループを起点にして話し合う感じで、刺激的で面白いのだが、その中で「結局、文化資本に恵まれてると勝ち抜きやすい」というような話があった。
Wikipediaで調べたら『文化資本』は社会学の学術用語(文化資本 - Wikipedia)らしい。
『金銭によるもの以外の、学歴や文化的素養といった個人的資産を指す。』だそうだ。

ああ、これだ、俺はこの『文化資本』ってヤツを息子にあげたい!
その結果、自立心を持ち、自分で生活できて、犯罪を起こさない人になってくれりゃあいい。
優しかったら、尚良いか。

そのためには何をあげればいいんだろ。全然わからない。

自分が親からもらったものを思い出しながら、息子に用意したいものや環境を、よく考える。用意した上でスルーされるのは仕方ないだろうな。

 

ホンマタカシの写真集なら、少し持ってるよ。

2017年に観た映画類の記録

改めて見返すと、2017年に観た映画の殆どがラジオ番組『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』でレビュー済みのものか、その関連作のような気がする。

それ以外に観たのも、誰かが紹介したものが殆どだ。

実際、そうやって見た映画は見る価値のあるものばかりだが、それでいいのかな、と少し思う。事前情報無く、事故のように作品に出会えたらいいのに、とよく考える。

例えば、昔はレンタルビデオの冒頭に入ってた知らない映画の予告編を見て、面白そうだな、と借りた記憶がある。

思い出せるだけでも2本ある。

1本目は『ナッシング・トゥ・ルーズ』。

Nothing To Lose - YouTube

今見ても本編が見たくなる予告編だ。

観終わってみたら、想像してたより軽く感じた記憶がある。

この映画を見て以来、ティム・ロビンスは好きだ。『ショーシャンクの空に』の後に見たのか前に見たのかは思い出せないが、コメディでも抜群という点がとても好ましかった。

 

2本目は『セシル・B・ザ・シネマウォーズ』

セシルB予告 - YouTube

ああ、この予告編は本編より面白いパターンだな。

こちらは当時の自分には想像より意味不明な内容だった。もっと明るくカッコよく体制側と戦うような映画を想像していたんだと思う。

映画の筋やシーンは殆ど思い出せないが、主人公の着ていたジャケットだけは今でも時々思い出して欲しくなる。

 

この2作は特に賞を取ったりもしていないようだし、好きな人に会ったことも無い。

でも、俺は何だか面白かったと思ってる。

自分の今の生活圏内では、この2作のような変に印象に残る作品に出会えないだろう。その点に少し不満がある。

しかし、俺自身がDVDの予告編をマトモに見なくなったし、誰も評価していない作品を見る勇気が無くなったのかもしれない。失敗が怖いようだ。時間が有限だと実感したのも要因と言えるだろう。

2018年は失敗してもいいから事故に遭おうと決意している。

以下、例年通り、遡る形での記録となる。ネタバレという罪を犯している可能性は高いので、危険を感じた際には流し見をお勧めする。

  

12/30
スター・ウォーズ/最後のジェダイ』を観た。
過去作を踏まえたオマージュや引用を多用して丁寧にマナーに則った上で、サーガをぶっ壊して新たな神話を始めた。既存のスター・ウォーズ的装置が壊れるのも象徴的だった。

そのため、『予想』を裏切る要素が多くあり、それを『期待』の裏切りと感じた人もいたので、賛否両論になったのではないか。今までのスターウォーズらしからぬ点がいくつもある。

例えば、一つの戦闘状態の時間のみを描いた点は脚本的にはスッキリしているが、各惑星の人々の生活を描いていたゆとり部分が省かれたようにも見える。世界観の説明はもう必要無いという判断とも理解し得る。今までのスター・ウォーズに比べると、善悪の境界を曖昧にする描写(ルークの葛藤、カイロ・レンの葛藤らしきもの、DJという存在)が増えている点も、物語としての深みを与えている。脚本もジョージ・ルーカスやJJならすんなり気持ちよく終わらせる展開を、少しずつツイストさせて予想外の方向に行くのが面白かった。何より血統主義からの脱却は素晴らしい(評価が分かれる点だろうが、個人的にジャンプ漫画などに多用される能力の説明としての血統主義にはうんざりしてる)。

しかし、納得できない描写も多くて、なぜルークは実体で向かわなかったのか、ホルド提督の特攻はもっと早いタイミングでやれば良かったのではないか、というのはその最たる例で、脚本のためにキャラクターが動いてしまった場面があったように見えた。

いや、そもそも、そんな特攻可能なの?フォース便利過ぎでは?あれ、あの時、宇宙空間に重力存在してなかった?などという疑問は後からいっぱい出てきたが。

 

  

12/17
『葛城事件』を観た。
めちゃくちゃ細かくて凄みのある演技が連続する映像で、一瞬も目が離せなかった。

クソ屁理屈を堂々とのたまうクソ親父を演じ切る三浦友和、今までの役と雰囲気の違う抑えた演技の新井浩文、静かに確実に壊れていく南果歩、徐々に殺人を犯せる人間になっていく若葉竜也。全員が常に複雑な感情を表現していて凄かった。実は田中麗奈も素晴らしくて、物語ごと陳腐にしかねないキャラクターを、ギリギリのラインで演じている。

説明していたらキリがないけど、繊細な視線・動作・言動のやり取りによる描き方は、いちいち気になる。父は常に問題の解決が図れず、必ず原因の根本とはズレた相手を攻撃する。悲しいことに、その習性がそのまま次男にも受け継がれていて、最悪の事態を招いていた。常に『家族』という観念への問いかけは、とてつもなく鋭い。『最期の晩餐』について会話する束の間の擬似ホームドラマが父親にぶっ壊される描写も強烈だった。わかっていたけど、やはり取り返しはつかなかった。

途中で回想された家の新築直後の家族描写が忘れられない。あそこではっきりと残酷に年月が経ったことを突きつけていた。

全編で多用していたが、役者と観客の間に遮蔽物が置かれる映像は強く印象に残った。父親が店で30年見続けていた風景の狭さを知らせる映像にも、ゾッとした。

通り魔のシーンは強烈で、そういう場面を想像したことなかったと気づいたし、想像するならあんな地獄なのかと知って恐ろしかった。

 

 

11/27
『技術者たち』を観た。
隙の無い脚本をテンポの良い編集が軽やかに進めて、爽快なラストまで一直線に走る超一級のエンターテインメント作品。観て損しない。

主人公の能力値がどの程度なのかをギリギリまで明かさなかった点と、主人公の格闘能力が高くないという点が、ラストまで緊張感を保てた秘訣だと思う。

時々流れる少し前の韓国ドラマ風な音楽はちょっと不要に思えた。

  

 

11/12
スプリング・ブレイカーズ』を観た。

思っていた内容と全然違った。水着ギャルが楽しくマシンガンを撃ちまくるというワンアイディアの映画じゃなかった。始まって数分してすぐに何かの終わりが感じられるのは、『青春』の特性をよく表していた。冒頭の映像のノリがずっと続くバカ映画を想像していたので、陰鬱な内容に面喰らった。音楽もダンスミュージック多めだが、暗いことが多い。色味も殆どの場面で暗いブルー。影も多め。

じゃあ、若者たちの葛藤を描くのかな、と思ったら、そうでもなくて、彼女達の思考や気持ちはどんどん見えなくなっていき、徐々に西海岸のギャングが主役になっていき、最終的に残った女の子達は人間を超越した精霊や妖精のような存在感になって終わる。思い返してみれば彼女達はずっとそんな存在で、廊下で逆立ちしてるシーンの浮世離れした切なさは素晴らしかった。

『現実逃避』や『別世界への憧れ』が、あれほどの重犯罪への強い動機になり得るだろうか?という疑問は感じたが、そういえば、現実に起こる犯罪だって、全ての動機に納得できるわけでもなかった。

また、意図的なのかもしれないが、あまりに痛みを感じさせない暴力シーンは気味が悪かった。パーティのシーンだけが本物っぽかった。

 

 

11/6
『悪の法則』を観た。
運命は全てを決定してしまっていて、機械のように淡々と事態は最悪の結末へと流れていく。主人公達の行動の裏で多くの出来事が起きてしまい、主人公が全く物語の中心に関われないという構造もすごい。南米の麻薬カルテル周辺の残酷さの徹底ぶりには驚愕するのだけど、その凄惨な映像も淡々と流れる。その映像にはいろんなアイディアが詰まっているが、それが日常かのように淡々と描かれるのが怖い。

また、あまりに淡々としていたので、映画は直線的な時間しか表さないのか?いや、表せないのか?という疑問も生じた。

主人公とその恋人以外は超越者じみたことばかりを言うので、言葉が頭に入って来ないところがあって、少し寝てしまった。そのシーンを後から見返してみても、やはり頭に入って来なかった。ハビエル・バルデムの怪演やブラッド・ピットの渋いカッコよさも良かったが、妖艶かつクレイジーキャメロン・ディアスがこの映画の見どころを食い尽くしていた。それにしても、いつの間にこんなに迫力のある女優になったのだろう。これまで多く演じていた陽気でカルい女みたいなイメージは完全に一掃された。

 

 

11/6
Netflixで『ストレンジャー・シングス』(シーズン2)を観始めた。

 

 

10/18
アウトレイジ 最終章』を観た。
顔の映画。西田敏行塩見三省岸部一徳、金田時男らの顔の説得力が凄い。ピエール瀧が思ったより細かい演技をしていたのも良かった。強面かと思いきや、憎めない小物感があるという意味で名高達男と同じ枠にいた。池内博之も良い味出してた。

2作目が1作目の清算にあたる映画だったから、この最終章には2作目の清算を期待したが、そこまで爽快には終わらず、『ソナチネ』の頃のような憂鬱さが残った。後味の悪さと言ってもいい。それは観た後もずっと残っている。殺し方も今までほど派手さが無く、全体的に地味に感じた。『ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル』でインタビューや映画評を聴いてから観たので、拳銃の音には感心してしまったし、登場人物は上司論として見てしまったし、物語自体に会社的なものを凄く感じた。

 

 

10/15
Netflixで『マインドハンター』を観始めた。

 

 

10/11
スイス・アーミー・マン』を観た。
映画界のキング・オブ・コント。事前情報を全く入れずに観た方が爆発的に笑える。MV出身の監督というのがよくわかる映像の連続だった。スローモーションや綺麗な光を駆使して感動的な雰囲気を作り、音楽も感情に呼びかけるようなものを使った上で、とてつもなく馬鹿げた映像が流れる、という歪なバランスが凄まじい。観ている側はやり場に困る複雑な気持ちで笑うしかない。

リアリティラインのぶっ壊れた、もしくは、ぶっ壊した世界観の中で成立させている脚本も凄い。ダレそうになってくると、メニーの新機能を披露して爆笑と興味を持続させる。

思い返せば、オープニングからブッとんでてツカミはバッチリだった。メニーのズレた発言や、赤ん坊のような状態を表す発言も良くできていて、異様だった。

ラストシーンの、『登場人物が概ね唖然としているけど、そこに乗っている感情が不統一』という映像は何だか忘れられない。人間の感情が常に論理的な因果関係で動くとは限らない、というのが魅力的に描かれていた。メニーのブッとび方には、不気味な爽快感があった。

 

 

10/8
『バッド・チューニング』を観た。
始まる瞬間から終わることがわかっているから、青春は切ない。そんな瞬間が捉えてある映画だから、酷すぎる馬鹿騒ぎが本当にくだらなくて、ゲラゲラ笑って見ていたって、どこかずっと切ない気持ちが奥底にあった。

映画としても、俳優達の記録としても、青春の一瞬が見事に映像に収まっていた。今やトップスターになった、ミラ・ジョボビッチベン・アフレックマシュー・マコノヒー…といった面々の下積みっぽい若かりし頃を見るだけでも面白い。調べると、主役の俳優の活躍はこの映画にしか残らなかったみたいで、その刹那性がまた切ないのだが、彼の気高い美しさが素晴らしい。ずっと『桐島、部活やめるってよ』の東出昌大を思い出していた。

70年代を表す音楽がとにかくぶち込まれている感じはバカっぽくて良かった。日本の体育会系の部活にありそうな慣習がアメリカにもあることに驚いた。公開当時にしても、20年くらい前を描いているので、やっぱりみんな笑って見ていたのだろうか。

そう言えば、この邦題、全然原題と違うのに良い英題。

パーティは終わる。選択は成長。成長は切ない。

 

 

9/20
『コップ・カー』を観た。
素晴らしかった!冒頭、アメリカの広大で野生的な大地に太陽の光が降り注ぎ、ずっと見ていられるような美しい風景が映し出される。そこに、少し反抗期に入った未完成な少年達の姿が、瑞々しく描かれる。その美しい映像に、ノイズのように混じり始める死体や拳銃のような物騒なもののミスマッチさには強烈な印象を受ける。そして、徐々に日が暮れていって、美しい景色が見えなくなっていく中で、イタズラは壮絶な事件を呼び、物騒なものに違和感が無くなっていく。

途中から全く展開は予想できず、常に緊張状態になる。人物の細かい位置関係や間が重要なこの脚本はメチャクチャ巧い。それに、もっと単純な『ホーム・アローン』のような『子ども対怖い大人』を想像していたから、かなり驚いた。終わってみれば、悪いことをした子供が罰を受ける通過儀礼のような話になっているのも面白い。

ケビン・ベーコンの演じる怖くて悪い大人は流石だった。ランニング姿で汗だくで走ってる姿には笑ってしまう。

二人の無垢な少年が成長していく様子もすごく良い。 そして、ラストシーンで暗闇を照らす赤青の光に感動してしまう。

  

 

9/17
建築学概論』を観た。
日本で昔やってたメロドラマって感じだった。寝ているヒロインにキスする主人公や酔っ払った女の家に押し入る男は単純に気持ち悪いし、どう考えても犯罪なのに劇中であまり責められていなかったのが不思議だった。最大の見せ場であるらしいキスシーンも、全然納得できなかった。なぜあのキスの後に何も無かったように話が進むのか。二人は落ち込んでいるようだが、過去と折り合いがついたという区切りとしての描写なのだろうか。話の流れとして二人は初恋の相手とようやく結ばれたとしか思えず、もし一緒にならないのだとしたら、何らかの葛藤が必要なのではないか。説明過多を防ぐべく敢えてそういう描写を省いたとしたら、それは上手くいってるようには思えず、現実的な妥協を選択したとしか思えない。あっさりと現実に負ける脚本も演出も嫌いだ、怠慢だ。

主人公の友人の過剰過ぎるコミカルさはストーリーの地味さを少し救っていた。

マジで家をリノベーションしてるのは面白かった。後で知った建築学概論と恋愛のリンクについては巧いとは思うが、見ている時には気づかない、というか、気づいても何とも思わない。どうでもいい。

 

 

9/14
Netflixで『LOVE』を見始めた。

  

 

9/14
スパイダーマン:ホームカミング』を観た。
概ね楽しく観たのだが、何かスカッとしなかった。原因はヒーロー映画にスカッとする事態を期待し過ぎたから、かもしれなかった。アイアンマンさえいればこの映画で起きている現象全てを解決できる点がずっと気になったし、アイアンマンに認められるための展開としてはスパイダーマンの見せ場の少なさも気になった。ストーリー展開として、アイアンマンのピンチを救うか、アイアンマンの想定を大きく超える敵を倒さなければ父親超えにならず、ヒーローへの成長も感じられないように思えた。そのためには、今回のコソ泥のような敵は小物過ぎた。マイケル・キートンのオヤジ全開演技は良かったけど。

それと、主人公が公益としての正義とプライベートの恋愛で迷って正義を選んだ理由もよくわからなかった。葛藤として成立しているのだろうか。それに、「弱い人間じゃダメだ」→「あきらめない」という簡単過ぎる思考の変遷で、成長を描けているように思えなかった。

それらを除けば、今までのスパイダーマンと違って全体的に明るい雰囲気で仕上げているのと、ティーンムービーとしての軽やかな青春感は、非常に新しくて良かった。そのために「大いなる力は大いなる責任を伴う」のくだりや、家庭環境の暗さを思い切って省いてるのがすごい。アクションもアイディアが多彩で面白かった。

 

 

9/12
ベイビー・ドライバー』を観た。
最高だった!映画館で観てよかった!観たその日にサントラを買ったのは久しぶりだった(1度目は『パプリカ』)。一曲ずつ聞き直していくと、殆どの曲で場面が思い出せて、追体験できるのがすげえ。音楽が鳴りっぱなしでMVのようでもあったが、どちらかと言えば、前評判通りに車が踊っていた。いや、主人公も銃撃も音楽に身を任せていた。音楽が少しでも好きなら、イヤホンで聴きながら少しノッて体を揺らす経験はあると思うが、それを最大限拡大するとこういう映画になる。冒頭のカーチェイスからオープニング長回しが、その内容の紹介になっていて、いきなりアガッた。

また、全く予測できない展開も面白い。 ところどころ、これまでのエドガー・ライト的なバカなテイストは感じるが、総じてクールでロマンチックな雰囲気で、こんな作品作れるんだな、と驚いた。引用してるっぽい映像も沢山あって、見どころは尽きない。

 

 

6/29〜8/29
Netflix『13の理由』シーズン1を見終わった。
海外ドラマは元々その傾向が強かったと思うが、Netflix作品は更に物語のヒキが強くなった気がする。とにかく先が気になるようにできている。俯瞰して引いて見てしまうと、物語として面白いのかよくわからない。例えば、これが2時間の映画にまとまってたら、退屈なんじゃないか。しかし、ストーリー構成がめちゃくちゃよく出来ているので、ついつい見てしまった。

結果的に、『13の理由』の全てが直接自殺を促したようには思えないが、ティーンは悩むし、悩みの積み重ねが自殺を促した、と感じられる構成も上手い。時間軸を複雑に入れ替えているので混乱しそうな部分は、髪型や傷の変化で描き分けていて、それもまた上手かった。総じて、人種差別や性差別があまり無いように見えるリベラルな人々を描いているのに、それでも誰かが誰かを傷つける事態には、人の世の生きづらさを感じずにはいられない。キャラクターは皆かなり誇張された性格で、個性豊か。いろんな行動を取るが、はっきりと好き嫌いを感じられることが多かった。

ラストは全ての事態の結末までは描いていなくて、自殺と自殺が引き起こす社会的な影響について考えさせる作りになっていたと思う。考えてみれば、並行して、主人公のクレイの成長物語にもなっていた。

 

 

8/13
それいけ!アンパンマン ブルブルの宝探し大冒険!』を観た。
昨年の映画もテレビで見たが、プロットはあまり変わらないようだった。アンパンマン達の生活圏の外部から来た未熟な来訪者が、アンパンマンファミリーとの触れ合いと冒険を通して成長する話。

昨年はクリームパンダやカバオが活躍していたが、今年はカレーパンマンが活躍していた。映像としては、昨年同様、若干テレビより動く。ばいきんまんはテレビより凶悪度が少し高い。全体通して毒が無い。子ども向けにはいいのだろう。 

 

 

8/13
ドント・ブリーズ』を観た。
90分間ずっと緊張と興奮で満たされていて、幸福だった。映画館で体験したかった。

事前情報通り、序盤は狂った盲目ジジイ版『ホームアローン』的サスペンスホラーだが、後半に進むにつれて、善悪も全然無くなって、展開の予想がつかなくなる。まず、とにかく脚本が素晴らしい。『強盗3人』と『一つの建物』という制限で飽きずに展開できるのかよ、と半信半疑で見始めたが、空間・小道具・アクションをめちゃくちゃ上手く使いつつ、ずっと先が気になるように作っていた。その点で『パニック・ルーム』を思い出した。

そして、その洗練された脚本を、長回しなどを多用しつつバッチリ映してる。テンポ良過ぎるくらいにスムーズに移り変わる状況を不足無く捉えていた。

老人怖過ぎ。モンスターとしての演出がバッチリはまっていた。

 

 

8/6
『シング・ストリート』を観た。
しっかりと、少年が青年に成長する時間を捉えていた。ボーイミーツガールの瞬間には、さえない主人公の男の子と派手なファッションを着こなす美しいヒロインは明らかに違う世界の住人に見えたのに、映画が終わる頃には主人公は女性と並び立てるほど立派な男になっていた。ヒロインが少しだけ普通の人間側に下りてきたという面もあるけど、そのほろ苦さも悪くない。

その成長の過程に、音楽の喜びや作品制作の楽しさが存分に伝わってくる映像満載で、見てるだけでとてもワクワクした。MVも、歌も、音楽も徐々に質が向上する。そのバランスが無理が無くてかなりいい感じだった。

  

 

7/23
となりのトトロ』を久々に観た。
何回目だろう。大人になってちゃんと見直したのは初めてだ。子供の頃に死ぬほど見ていたので、若干侮って流し見した部分もある。

一番はじめに気づいたのは、背景と手前にいるキャラクターが、全く違う作画になっていたという点だった。背景はいわゆる風景画で、キャラクターは輪郭線を持ったイラストっぽさがあった。また、アニメーションの動く喜びと言えると思うが、キャラクターの一つの動作の中に沢山の無駄な動きが足されていることに驚いた。そういう動作の一つに、最初にいなくなったメイを見つけたサツキの表情がある。彼女は、ホッとして微笑んでから、メイを叱って起こす。サツキは母親代わりになろうとしていたし、そういう表情をしていた。

また、小学校にサツキを追いかけてくるメイの表情には、昔から何か感じるところがあったが、それは極めて個人的な妹との記憶なのかも、と初めて思った。

脚本の中で最後にメイとサツキがうまくすれ違っていくのが、よくできていた。両親は大した出来事だと思っておらず、村の人たちともギャップがある。この情報量の差は面白いし、リアルだと思った。

おそらく、ラストの話は映画だから作った見せ場で、本当はずっとメイとサツキがトトロと触れ合うアニメにしたかったのだろう。

 

 

5/27
ワイルド・アット・ハート』を観た。
字幕の杜撰さ、許せねえ…フォントは読みづらいし、訳はダサい。なんだ、このDVD!

それでも、俺の大好きなロードムービーだった。思ったより全編音楽が鳴りっ放しだったけど、タランティーノと違うのは不穏さ。ニコラス・ケイジの動きのキレもカッコいい。クールだ。そして、寺山修司とかも想起する見世物小屋みたいに変な登場人物達。特にウィレム・デフォーはやばい。目つきと歯が恐ろし過ぎる。爆笑。

この監督は恐怖を突発的な驚きとかでは無く、気持ち悪さや不気味さや嫌な気分で表現するのが凄い。そして、妄想なのか幻覚なのかわからないが、そういうオカルトっぽい現象が物語と登場人物を動かすという馬鹿らしさが素晴らしかった。飛び抜けて馬鹿らしかったラストが最高。

 

 

5/5
ズートピア』を観た。
まず、脚本がとにかくよく出来ている。残酷描写皆無で、アクションもサスペンスも謎解きもあるクライムエンターテイメント映画に仕上げていることに驚嘆した。話の展開だけ追えば、エルロイ的なフィルムノワールと何ら遜色無い。次々に物語が展開するスピード感も凄い。

また、『48時間』を彷彿とさせるバディムービーでもあって、それも気が利いてる。

その『子供が視聴可能である』という土台を作った上で、誰もが(主人公でさえも)抱きかねない差別や偏見を批判する教訓的なテーマを盛り込んでいるのが凄い。

そして、舞台となるズートピアを表現するCGの美しさ。ディズニーが空想する夢の国がここにあった。キャラクターの表情も動物の動きも今はCGでここまで生々しく表現できるのか、と驚いた。

 

 

5/2
『T2 トレインスポッティング』を観た。
前作のオマージュやそのまま前作の映像で回想する懐古的な映像の連発で、俺がどれだけ『トレインスポッティング』を好きだったかというのを思い知らされて、身悶えした。これはインディ・ジョーンズスター・ウォーズの続編に感じたファンへの接待感にも似ていた。俺は小説も買っていた。きっと10代の将来を悩む気持ちに、あのノーフューチャーな姿勢がカッコよく見えたんだ。

今思えば、前作で思い出すシーンの殆どに音楽もついてくる。やっぱりかなりMV的だった。今回もその傾向は健在だ。監督はだいぶ大御所になって演出する力も色々と洗練されたはずだが、斜めになり続ける画面などにトレインスポッティングらしい荒削りな感じが出ていた。

映画における音楽は無理矢理気持ちを高揚させてしまうドラッグみたいに感じているので、使い過ぎることに肯定的ではなくなったけど、トレインスポッティングに関してはこれが正解だろう。前作よりストーリーがちゃんとあって、過去との付き合い方、過去との戦いを描いていた。レントンとシックボーイの狂騒に男子校ノリを見た気がしたのは、新しい視点だった。現実を見る女性陣との対比で余計にそう感じたのだろう。前作を改めて観たような気分にもなるし、観直したくもなる映画だった。

 

 

3/21
『その男ヴァン・ダム』を観た。
落ち目になってしまったヴァン・ダムの現在を皮肉ったパロディ映画なのだが、彼が主戦場としてきたハリウッド的大衆映画ではないことに驚いた。ベルギー・フランス製作の映画なので、ヨーロッパ的アート映画っぽい雰囲気で、いろんな皮肉へのアプローチの仕方も落ち着いたブラックユーモアに満ちている。

展開も一筋縄じゃない。映画の彼岸を超えて現実のヴァン・ダム本人に接続したかのような、あの映像が撮りたくて撮った映画のように思える。反則気味だったけど、今までのヴァン・ダム映画の中で一番面白かった。ヴァン・ダムのリアルな肉体的強さもリアルなスター性も面白かったが、ヴァン・ダムをああいう風にイジっていたのが最高だった。イジリ解禁か。

 

 

3/15
ヒメアノ〜ル』を観た。
何と言っても森田剛

空気として纏っている弱い心ゆえの暴力性、包丁持って突き刺すあの動作の体重の乗り方。全てがヤバイ。

演出も素晴らしい。森田のシーンは彩度が無く、岡田のシーンと執拗に対比させる。映画の真ん中でラブコメからバイオレンス映画に反転するアバンタイトルも見事だった。ムロツヨシの演じる安藤は見た目も気持ち悪くて、ストーカー気質だけど、犯罪までには踏み込まない。物語的にはミスリードとして機能していたが、現実に本当にヤバイものを描くための対比なんだと思う。人畜無害を佇まいで表す濱田岳や、クラスにいそうなちょうど良いかわいさのヒロインも影の功労者。このギャグと暴力が入り乱れる古谷実節をここまで映画に落とし込んでるのは凄い。ラストシーンの救いの無さが、観客を安心させなくて重たい余韻が残った。

やっぱり何と言っても森田剛

 

 

2/24
スクール・オブ・ロック』を観た。

子ども達の愛らしさはズル過ぎるくらいだけど、ラストのこれ以上無いくらいの大団円っぷりは見てて笑いが止まらない。

ジャック・ブラックはイロモノ俳優としてしか見てなかったし、今もそう思ってるけど、この一作があるだけで、だいぶ印象が違う。ド派手で情けない負け犬っぷりや、メチャクチャ過ぎる顔と行動を、笑える表現に昇華するこの役は彼にしかできない。

なんか見たことあるストーリーだと思ったら、『天使にラブソングを』だ。でも、今作を観て救われる人の方が多いだろう。

 

 

2/13
Netflixで『火花』を観始めた。
どんなショット一つ取っても映画の佇まいで、美術も含めて画の作り込みが凄いクオリティだった。ロングショットの多用と説明の少なさが映画っぽさを作るのだろうか。漫才と会話のシームレスな感じや、逆に普通の人の会話が漫才に聞こえるのは、かなり意識的な魅せ方だと思う。

 

 

1/28
この世界の片隅に』を観た。
途中まで楽しく力強く小さな幸せと共に描かれていた日常が、戦争という暴力による断絶によって大きく反転する。どれだけ辛さに侵されても、どれだけ全てが疲弊しても、生活する力で立ち向かっていくのがすごい。生きるしかない、とわかる。戦時中に生きていた人のリアリティを初めて感じられた。

また、戦争と日常が地続きで感じられる説得力も凄い。終戦の次の日も生きるしかないんだ。ある暴力(による喪失)の描写は火垂るの墓以来のトラウマ級だった。

最初嫌な人に見える義姉や、最初トロく見える主人公のキャラクター設計は綿密に逆算して作られていた。アニメならではの実験的な映像も素晴らしくて、この原作に対してアニメという手段の選択が正しかったのだと思った。

そして、久々に思い出した『ライフ・イズ・ビューティフル』。あのトラウマ体験となった物語構造を。

 

 

1/15
ONCE ダブリンの街角で』を観た。

全編通して音楽が鳴り止まない。ある種ミュージカルのように、俳優達が歌う(奏でる)曲が心情を表現していた。

貧困や移民問題などの社会的背景が描かれるし、ダブリンの本物っぽい街並みにもそれが映り込んでもいる。

女性の若干のエキセントリックさは、脚本の都合のためのキャラクターに少し見える。低予算の自主映画っぽさが瑞々しさを作る。海のシーンにある幸福感には、終わりを感じさせる切なさが伴う。ドキュメンタリータッチにも感じられる。

大人になってしまった人たちの最後の青春音楽映画として、最終的な結果には納得。

 

 

1/9
最後の追跡』を観た。
Netflixオリジナル、ここまでやるか(後で調べたら日本において配信が独占なだけだった)。映像も脚本も隙の無さが凄い。アメリカ南部の社会状況が色濃く焼きついていて、貧困・銃社会・人種差別が根深く見えた。その土壌を強く意識させた上で、強盗する側の気持ちも状況も丁寧に描くから、単純に犯罪行為を悪いと思わせてくれない厳しさがあった。強盗が一般市民(自警団)から乱射されるシーンなんて見たことなかった。

ラストシーンは、撃ち合っていないのに張り詰めた緊張感があって、現代での西部劇を成立させていた。一方で全体的に登場人物と展開に独特の脱力感もあって、『ファーゴ』や『ノー・カントリー』みたいなコーウェン兄弟っぽさがあった。犯人達の兄弟愛も、ジェフ・ブリッジスの孤独を抱えた渋さも、大変魅力的だった。

 

 

1/4
『ローグ・ワン スターウォーズストーリー』を観た。
どうしても結末がわかる状態から進んでいくことになるので、悲哀が滲み出ている。これまでのスターウォーズより感情的な演出が多くてアツかった。機械の設定などはエピソード4に持ち越されなければならないために、一見チープに見えるデザインや、非効率的な構造をしているのが目立った。ラストのタワーのシーンは急にミッションインポッシブル風で驚いた。

座頭市風のドニー・イェンが強過ぎて、かっこ良すぎる。それに尽きる。

 

 

2016/12/23〜2017/1/4
ストレンジャー・シングス』(シーズン1)を観終わった。
かすかにシーズン2への引きを保ったまま終わってはいたが、このまま終わりでも成り立つ。

展開としてサスペンスとSFとアドベンチャーの間で綱引きしていたけど、結果的に殆どの登場人物の成長物語になっているという、ドラマ性の上手さが決め手だったように思う。そのドラマの軸がしっかりしていたから、バランスを崩さずに物語的な緊張感を保っていられた。登場人物がいろんな班に分かれていて、それぞれが受け持つジャンルが違うドラマを最終回で怒涛の勢いで交錯させ、見事に集約していた。やはりキャラクターの分け方と魅せ方が上手かったことも勝因だった。

 

2016/12/29
ストレンジャー・シングス』(シーズン1)の4話を観た。進んでいるのに全然終わりにたどり着ける感じがせず、なおかつ面白いという奇跡のような状態を保っている。

 

2016/12/23
ストレンジャー・シングス』(シーズン1)を観始めた。
とにかく先が気になるようにできている。キャラクターもそれぞれ際立っていて面白い。往年の浦沢直樹作品を読んでる感触に近いかもしれない。舞台となる80年代は名作揃いで、それらを直接の引用にしているのかはわからないが、それらの面白い要素をガンガン入れ込んでいて、今のところ作品になるようにバランスよくコントロールできている。影響や引用だと少しでも感じたものを挙げるなら、『AKIRA』『ツイン・ピークス』『E.T.』(スピルバーグっぽさ)『スタンド・バイ・ミー』『ビバリーヒルズ高校白書』などだろうか。現代では映像演出にもDJ的な素養が求められているのかもしれない。

2017年に読んだ本の記録

2017年には電車での通勤時間という貴重な読書タイムを多く奪った戦犯がいた。

ドラゴンクエストXI』である。

気づけば70時間以上も冒険していた。

その結果、読書量は削られたかもしれないが、勇者になっちまったんだから仕方のないことか。

しかし、前年より全体の読書量は増えた気がする。小説以外を手に取る機会も増えた。特に映画に関する本は多く読んだ。他にも、エッセイやノンフィクションも好きになってきたし、地理・歴史・世界情勢・政治経済という苦手意識があったジャンルにも少しずつ興味が湧いている。加齢に伴う興味の変化とも言えよう。

ラジオで本の情報を得る機会も多かったような気がする。

そして、一つ今後の指針を立てた。

いろんな国の小説(文学)を読んでみよう。

菊地成孔がいろんな国の音楽を聴いているように。まだ『やし酒飲み』でしか実践できていないが、2018年には何冊読めるだろうか。

以下、例年通り、遡る形での記録となる。ネタバレという罪を犯している可能性は高いので、危険を感じた際には流し見をお勧めする。

 

 

12/6
『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子)を読み始めた。

 

11/24
『「いい写真」はどうすれば撮れるのか? プロが機材やテクニック以前に考えること』(中西祐介)を読み始めた。

 

 

11/14〜12/5
『やし酒のみ』(作:エイモス・チュツオーラ/訳:土屋哲)、読了。
なぜこんなに『神話』だと感じるのだろうか?展開や登場人物が突拍子も無いから?一人の男の冒険譚だから?そして、全体的にジャングル特有のグロテスクさはあるが、起きていることが日本の古事記とかの雰囲気に似ているのが不思議だった。

しかし、主人公の態度は違う。いろんな脅威に対して、現実的な判断をして逃げることが多い。その点は解説にも書いてあったが、風土の影響もあるのだろうか。

読み始めてすぐに、和訳の文章が少し変で、ところどころ、英語を無理矢理に漢字の熟語に訳したような堅苦しさや野暮ったさがある、と気づいた。読んでいて妙につまづいた。「アフリカの言語の英訳を和訳したせい?」「言葉が古びてしまった?」「訳が悪いのかな?」と適当に納得していたが、解説を読んで、これは意図的に違和感を与えるための訳らしいと知って、かなり驚いた。どうやら原文は英語らしい。その前提で思い出しても、あの奇妙な文体の意図はよくわからず、ただ変なものを読んだ、という思いだけが残った。あれが意図的な和訳だと知った上で読み直せば、また違う読書体験になるかもしれない。

 

 

10/14〜11/13
菊地成孔の欧米休憩タイム』(菊地成孔)、読了。
自分が率先して見ることの無さそうな映画の映画評が多いが、どれも読んでいるうちに気になってくる。『面白そう』とはっきりと思えるわけではなくて、とにかく気になってくる。それはいかにも菊池成孔の仕事であり、アクロバティックな装置を仕込んだ文章や、飄々として物凄くドライブ感のある独特な語り口が為せる技だった。毎回、作品を語るために選ぶ武器が意外で面白い。都市論の部分は切り離してもっと膨らませた文章でも読んでみたい。どの文章も、目の付け所(視点と視線の置き場)にいつも驚く。誤植の多さには目をつぶろう。 

 

 

10/11〜10/13
『往復書簡 初恋と不倫』(坂元裕二)、読了。
本にしてくれたことに感謝した。本来は朗読劇だったらしいが、電子メール(一部は手紙)のやり取りのみを作品にしているという点を考えれば、音声ではなくテキストで読むという体験が、一番この作品にふさわしいと思う。もちろん、俳優達による発声がもたらす効果も気にはなるが。

「行間を読む」という言葉があるが、メールのやり取りの間に何かが起きる以上、その間を物凄く想像することになり、小説などよりも「行間を読む」行為の純度が高い。この往復書簡という形で物語を書いた人を他に知らないのだが、素晴らしい発明だ。

物語自体は著者のドラマ脚本でも慣れ親しんだ、固有名詞や小道具の巧みな使い方が印象的なものになっていた。メールを打つという時間差が生む特殊性もうまく利用して、驚くような展開も作っていた。また、後で思い至ったのだが、メールのやり取りという閉鎖性から、第三者が読んで恥ずかしくなるという現象が起きるのも当然だった。

交流する瞬間だけが見せ場ではなくて、すれ違う瞬間に生まれる豊かな感情も見せ場になっている。それも著者の作品の突出した特徴だろう。そして、それらには、一般的な日本のドラマとは一味違うドラマ性がある。

 

 

10/4〜10/10
『東一局五十二本場』(阿佐田哲也)、読了。
こんな風にテキストの中に麻雀牌が普通に入り込んでくる小説は初めて読んだ。麻雀小説というジャンルなのだろうか(『麻雀放浪記』とかもこの形式なのか?)。

麻雀について専門的な知識があまり無くて細かいやり取りの妙がわかっていないのが悔しいが、それでも、博徒の『今だけを生きる生き様』はもの凄い迫力なので、素人でも読み応えがある。どの短編からも、賭け事にのめり込むことの恐ろしさと楽しさが、興奮と共に伝わってくる。みんな勝負に忘我の瞬間を求めている。大抵の賭け事は身を滅ぼすが、みんなそうしたがってるようにも見えた。漫画『坊や哲』に出てたダンチの登場は嬉しかった。

長谷川和彦の解説も、著者の怪人ぶりや生き様を軽妙に描いてて楽しかった。っていうか、この二人繋がりあるんだな。麻雀小説ではない色川武大の小説にも興味が出てくる、入門的な一冊だった。

 

 

9/23〜10/3
『それでも、読書をやめない理由』(作:デヴィッド・L・ユーリン/訳:井上里)、読了。
読書をしている時の感情や思考は、ぐるぐるとしたり悶々としたりしていて、単純にそれが楽しいわけでもない。

それでも、なぜ読書をしたいのだろうか、とよく思っていたが、その答えの一つは本書に書いてあった「価値観を揺さぶられるため」かもしれない。初めて納得できる答えを得て嬉しい。読書からは、映像よりも漫画よりも音楽よりも、価値観を揺さぶる可能性(あるいは危険性)を感じる、ような気がしてきた。著者は息子との文学についてのやり取りをきっかけにして、いろんな文献や記事から読書に対するいろんな見解などを引用しつつ、読書体験について考えていく。その過程では、現状に即した読書のあり方や電子書籍についての見解も経由する。そこに、本が中身に集中するしかない点に魅力があるという言及があり、それもとても納得した。読書という行為自体の歓びも書いてあって、それがまた読んでいて楽しい。

そして、いろんな本が読みたくなる。中でも、読んだことあるのに『グレート・ギャッツビー』は特に読みたくなった。

 

 

9/20〜9/22
『星の子』(今村夏子)、読了。
両親が入信していたために幼い頃から新興宗教に入信している二世信者の主人公は、その宗教がどっぷり入り込んだ状態で生活するしかない。もうそこには、『信じる・信じない』という選択肢は無い。その微妙なスタンスで描き切っているので、読んでいる方もどういう心構えで読めばいいかわからなくて戸惑う。新興宗教への肯定も否定も簡単には許してくれない感じ。その不安定な気持ちの時間が楽しかった。

更に言えば、この作品の主人公の両親は真っ先に入信してしまうが、きっかけは病気がちだった主人公の健康を願う気持ちだった。この入信までの流れは、シミュレートしてみると、わからないでもない。この辺りは読者を惹き込むテクニックとしても、意地が悪い。主人公の両親は新興宗教に盲信に近い状態で、それがあのラストの行動を引き起こしている。ように見えるのだが、ハッピーでもバッドでもあるエンドにはひどく動揺した。

主人公は少し変なところもあるようだが、概ね普通の女の子のように描かれており、新興宗教は狂気へ導かないし、その逆で狂気が新興宗教へ導いたりもせず、不穏さだけをほのめかすバランスがずっと居心地の悪さを生む。

また、中三の主人公という年齢も絶妙で、安易に同級生の中でイジメが起きたりせず、大人からの眼差しの方が歪んでいるというのも、ドキッとさせられた。新興宗教に入信するのも、新興宗教を過剰に敵視するのも、子どもじゃなくなった人たち。盲信と思考停止は、大人がセットでハマってしまう甘くて怖い罠。

 

 

9/11〜9/20
『映画評論・入門!』(モルモット吉田)、読了。
映画評論を書くための入門書というよりは、(その要素もあるがそれだけではなく)映画評論史を通して映画評論という文化全体を楽しむための入門書だった。

昔の映画評論争のなんとスリリングなことか。映画も映画評論も、確かに社会に影響を与えていた時代があったんだ。元々、北野映画の評価の変遷などに興味があって買ったのだが、公開当時の他の映画の評価などもわかる。特に『リアルタイム映画評論REMIX』は最高。名作としてしか知らない映画の当時の評論を読むと、改めてフラットな視点でその映画を確認できるし、映画評論が世相や世論に左右されてしまうという事実もよくわかる。

評価が高いとされるものばっかり見てるんじゃねえや、俺!そして、評価が高くても感想を臆するなよ、俺!

そして、裏テーマとなっている増田貴光氏の話は映画で見てみたいくらいに強烈。映画は人を狂わせるのか、人生を狂わせるのか。それにしても、著者の丹念な取材とそれをまとめ上げる構成力が感動的。

素晴らしい映画評論を書くのは本当に大変そうで、俺にはできる気がしなかった。

 

 

9/7〜9/10
『ボラード病』(吉村萬壱)、読了。
震災直後に色濃く存在した不穏な空気は、実は今もずっとあり続けている、というのを突きつけてくる。そのことをいつの間にか忘れていた自分が気持ち悪い。

表面的に今は噴出していないが、現代の日本ではその不穏さをベースとして、その上にみんな生活している。不安な現実を直視したくない気持ちはわかるが、その現状は不気味だ。自分も含めて。

作中で徐々に語り手の情報がわかってくるやり方が面白かった。母と同居している大人の女性→小学生の女の子→大人の女性の回想録、という風に、語り手は変わらないのに、その語り手の情報は移り変わっていて、その謎が展開を作っていた。主人公と周囲とのズレにある居心地の悪さは、震災以後感じる不穏さを無視している読み手にも、そのまま居心地が悪い。現実を直視しないための方法は考えないことだ。作中では綺麗な言葉で現実を覆い隠して、それを他の人にも強要して、思考停止を促す。このやり方の暴露は、まっすぐに今の日本を糾弾している。作家の勇気を感じる。

自分もみんなも気味が悪い。

 

 

9/1〜9/6
『パルプ』(作:チャールズ・ブコウスキー/訳:柴田元幸)、読了。
『L.A.ヴァイス(インヒアレント・ヴァイス)』や『ビッグ・リボウスキ』みたいな、探偵小説モノを下敷きにして面白おかしく再解釈した作品群を思い浮かべながら読んだが、最終的にそれらとは違った。

小説自体がジョークのような代物だった!

物語は酒場で進展する。主人公の探偵は奮闘しているが、大抵は展開と無関係にお酒を飲んだくれているだけだ。ワケあり美女と、頭の悪い大男が頻出するが、それが探偵小説の定番なのだろう。そんなハードボイルド風の物語に宇宙人や死神が滑らかに物語に入ってくるのが、めちゃくちゃ面白い。

また、事件が動きそうでも、主人公がすぐに動かないのが可笑しい。その休憩のような時間が、まるで作者の休憩のようなリズムで頻発する。柴田元幸のあとがきを読むと、この小説に畏敬の念も抱いてしまうが、まあ、この馬鹿馬鹿しい話は馬鹿馬鹿しい話として受け止めておくのが一番楽しめるし、ふさわしそうだ。

  

 

7/21〜8/31
『ゲンロン0 観光客の哲学』(東浩紀)、読了。
世界の状況を確認して絶望しつつも、可能性が見える新たな希望を作り上げていた。全編にわたるその姿勢が感動的。

気づけば、著者の本は小説も含めて結構読んでいるが、本書でも書いてあるように、この本はそれらに連なる続編のようだった。著者の思想が一貫していることがわかる。

また、何かのインタビューでも読んだ表現だが、『要約力』が凄い。単語見ただけで難解に思えて辛くなる概念を、勇気を持って要約して説明し、読者の理解度を押し上げて著者の伝えたい内容に到達させてくれる。ネット上では今日もウヨクとサヨクが戦っている。その争いは醜く、彼らの多くが魅力的ではないし、彼らのどちらにも100%は賛成できない。そんな現状を傍観して悲観するしかない自分は最悪。

そんな悲惨な状況にある世界と自分を、少しでも変えるための最初の一歩になりそうな、新たな視点を得るためのカッコいい本だった。

 

 

7/20〜7/21
コンビニ人間』(村田沙耶香)、読了。
感情や心は、人間の中にあるのか?あるかどうかわからないそんな曖昧なものではなく、身体外部にあるコンビニの情報に動かされている人間の話。

読みながら、誰もが少なからずそういう部分があるはずだと気づいた。コンビニほどマニュアル化してある職場は一般的ではないかもしれないが、その職場で働きやすい役割もルールもあるので、それに合わせると生きやすくなる。その前提も踏まえた上で、人間が周囲からの影響を受けるものだというのは、全くその通りだと思う。人間が生きるために周囲の状況や人から情報を獲得して対応する様子に、感情とか心という名付けがあるのかもしれない。

主人公はそういった外部情報とそれから受ける影響に、過度に意識的なために『普通』からズレているように見えた。無理に『普通』に合わせようとするのがまた可笑しくて、会話から伝染したという『!』の使い方には笑った。ズレた会話の作り方がめちゃくちゃ上手い。いわゆる普通の人ではない人(むしろブッとんだ人)主観で語り切っているのも凄い。読み手もメディアも、作者と主人公を混同しやすいだろう。

地元にいる奴らがあまりにステレオタイプである点は少し気になった。 

 

 

7/16〜8/1
『マイ・リトル・世田谷』(しまおまほ)、読了。
過去だろうが現在だろうが、記憶が風景の見え方を大きく変える。たくさんの何気ない会話・言葉・気持ちが積み重なって、現実が出来ていく感じがする。しまおまほの周りはそうなっていて、いや、きっとみんなそうなってるはずなんだ、と想像すると何だか楽しくなる。

嘘っぽくなく、世界を肯定していた。

 

 

7/5〜7/19
『自生の夢』(飛浩隆)、読了。
毎度のことながら、機械や無機物などに生命力(もしくは魂)を漲らせて蠢かせる描写にとても動揺する。そして、名作『グラン・ヴァカンス』を彷彿とさせる、人間のいない世界による人間のエミュレート描写は、その虚構の構造自体も含めて面白くて、この小説群が実は人間ではないもの(もしくは人間+機械)による作品なのでは、と一瞬でも疑えるメタ性が面白かった。

また、あとがきを読むまでどの作品から書かれたのか全然わからなかった。アリス・ウォンの作品群は凄い。文字の暴走という表現にはもの凄く脳が刺激を受ける。このシリーズはまだまだ書けそうだし、この先も気になる。

 

 

6/7〜6/23
団地のはなし〜彼女と団地の8つの物語』、読了。
団地いいな、と思ってしまった。それは東京R不動産の思うツボ。この本は『団地』という概念自体の広告としても機能させる特殊な本だった。団地そのものを本の形に落とし込んだ装丁も良く出来ていて、小説、漫画、写真、対談、エッセイという内容の多様性も、団地の懐の大きさを表現していた。
アプローチの方法は色々だが、どの作品も、自分の得意な分野に上手に『団地』を持ち込んで、古き良き団地の素晴らしさと、現代の社会生活にフィットさせた団地の新たな価値の見直しに繋げていた。唯一、冒頭の山内マリコの短編には「書きたい」という意欲が感じられなかった。「依頼のあったテーマで書いた」。それ以上でもそれ以下でも無いように見えた。別に悪いことではないが、もう書きたいこと無いのかな。

エントランスの屋根が低いというのは、団地に通底する共通のイメージらしい。

 

 

5/29〜7/3
『時間のかかる読書』(宮沢章夫)、読了。
慌てて読み進めないことと、時間をかけて読むことは大変難しい、と初めて思い当たる。もっと脱線したり、日記のようになったりするのを想像していたので、ゆっくりでもちゃんと読み解こうとしている姿勢に少し驚いた。このやり方で最後までやれるのか、とずっと疑問を抱いたまま読み終わった。やり切っていた。

『小説』として読めるが、『壮大な冗談』として読める点が素晴らしい。意図的な勇気ある誤読には笑った。最後に横光利一の『機械』が入ってることに、また驚いた。宮沢氏による時間のかかった『機械』論を読んだ後に本編を読むことになるのだが、自分で読むと宮沢氏の読み方の可笑しさがよくわかる。

そして、宮沢氏の『機械』論を読んだ後に『機械』を読んでしまったことで、真っさらな気持ちで『機械』を読んだらどんな心地がしたのだろう、と作品享受の不可逆性を強く感じた。

 

 

2/12〜6/7
『ダメをみがく "女子"の呪いを解く方法』(津村記久子 深澤真紀)、読了。
トイレで少しずつ読み進めた。ダメな人の肯定をテーマにしてて、実際にこの本はそれを実践できているのだが、深澤真紀の発言が若干過剰な気もして、納得しづらい部分もあった。どうやら、ダメであることの過度な肯定に自分は不安を感じるみたいだ。

しかし、ダメであることを受け入れつつ社会適応するためのテクニックはどれも面白くて、特にポモドーロ・テクニックはぜひ試したいと思った。ダメであることは言わば個性の一部なので、どうにかして付き合っていくしかない、という姿勢がこのテクニックによく表れている。

また、子どもの有無によるステージの変化については、最近よく考えることだったので、腑に落ちるものがあった。子育てが趣味や交友関係を制限するのは一時的なものだと思う、多分。

そして、転職はできればたくさんした方がいいのかもしれない。いきなり失職したらどうすればよいのだろう。

などと新たな悩みは尽きない、というか、増やしかねない本でもあった。 

 

 

5/26〜5/28
VTJ前夜の中井祐樹』(増田俊也)、読了。
なるほど、確かに『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』『七帝柔道記』というサーガの中に属する本で、その二冊を読んでいた方がより楽しめるのは間違いない。『木村政彦は〜』が未読だったので、少し読んでしまったネタバレを、今必死に忘れようとしている。

表題作『VTJ前夜の中井祐樹』は『七帝柔道記』に比べると、筆者が当事者ではない上に、ノンフィクションにより近い形式内での記録者・報告者である分、熱量が低いようには見えるが、伝えようとする静かな気迫をしっかりと感じる。『七帝柔道記』の登場人物も多数出てくるので、やはり『七帝柔道記』を読んでから読んだ方が感慨も深まるだろう。もちろん、『七帝柔道記』を読んでなくても、中井祐樹の魅力で存分に楽しめる内容ではある。

次の『超二流と呼ばれた柔道家』は、他の短編集で以前読んだ内容だったけど、中井祐樹の物語の後に読むと、同じテーマの通底が感じられて読み味が違った。最期の和泉唯信氏との対談は、『木村政彦は〜』と『七帝柔道記』を著者と和泉氏が俯瞰した視点で捉えつつ、『七帝柔道記』以上に和泉氏自身の魅力を伝える内容になっていた。和泉氏の発言の真摯さには感動した。

中井祐樹、堀越英範、和泉唯信。こう並べると、この三人は人生において相手との勝ち負けではなくて、目の前の自分との戦いを大事にしているのが確信できる。それが武道なのかもしれない。 

 

 

4/27〜5/15
『ゴッドタン完全読本』、読了。
やっぱり最高に最低!膨大な量のインタビューと文章が、ゴッドタンが如何に特別な番組であるかを教えてくれる。

考えてみれば、俺は前番組の『大人のコンソメ』から見ていた。『ブルードラゴン』という口論だけで相手に罰ゲームをさせる企画があったのだが、それで小木ドラゴンが『自分を人質にして相手を脅迫する』という荒業のために、ライターで手を炙ったのを今でも鮮明に覚えている。受験勉強を放ったらかして俺は大爆笑していた。だから、あの頃からずっと特別な番組だった。そんな風に色々思い出してしまう内容だった。

その中で、特に面白く感じたのは、多くの人が劇団ひとりの天才性に言及している点であり、ゴッドタンが劇団ひとりの番組であるという点だ。言われてみれば、あの人天才で、そのためにある番組かもしれない。そうか、下品なことやブッとんだことにも天才はいるんだ、と改めて気づいた。

 

 

4/18〜5/25
アメリカ』(作:フランツ・カフカ/訳:中井正文)、読了。
カフカの本が世の中に沢山あって嬉しい。冒頭から最高じゃないか。その瞬間を懸命に生きているだけなのに滑稽に見える。これは全ての生き物に当てはまるとも言えるかもしれず、目新しくないけれど、それを小説で読める歓びは、そう簡単には経験できない。

俺の大好きなロードムービーである点も最高だった。訳の分からない奴らがどんどん現れて、いつの間にやら主人公が予想外過ぎる展開に巻き込まれるのが滅茶苦茶面白い。その展開の分からなさによって、不思議と先が気になる。それに、この小説の基礎と言えるコミュニケーション不全っぷりが、笑えて仕方ない。

それにしても、訳が古い。一人称が『拙者』はあり得ない。忍者かよ。

 

 

4/11〜4/18
『観なかった映画』(長嶋有)、読了。
観なかった映画も、観ていない映画も、観ない映画も、いっぱいある、と改めて思った。

でも、やっぱり観たい映画がいっぱい増えた。映画を映画の外から語るようなこのやり方は、長嶋有の小説などから感じる創作のスタンスに近い。いつの間にか見たことない視点に連れて行かれていて、大変楽しかった。 

 

 

4/10
『柿の種』(寺田寅彦)を読み始めた。落ち着いて読んだ方が良い。忙しない電車の中とかでは読めない。

 

 

3/29〜4/6
『七帝柔道記』(増田俊也)、読了。

読んでいる間ずっと苦しいし、読み終わったからと言って、その苦しさから簡単には解放されない。練習風景の描写は地獄のように苦しいし、物語自体も極限に苦しい。夢中で読み通しても結局安易なカタルシスは得られない。ずっとこの小説に首を締められているようだった。それでも、その苦しさと同時に強烈な面白さを感じて、胸を打たれる。
癖のある魅力的な登場人物、極限状態の心身、微妙な人間関係、青春を感じさせる会話や行動、北海道の景色や気候。それら全ての描写がリアルで、熱を帯びている。
こんな青春があり得たのか。いや、殆どの人が経験し得ない。絶対経験したくないのに、その経験が羨ましいという不思議な感情を覚えた。とにかくずっとのめり込んで読んだ。柔道のことがわからなくても全然問題無い。どっちみち、この七帝柔道を知ってる人はきっと少ない。
知ってよかった。努力は報われるのか?報われるに決まってる。どんな形かは問わない。

続編が刊行されたら読みたい。

 

 

3/21〜3/29
『ヒットの崩壊』(柴那典)、読了。

答えが欲しくて急いで読んでしまった。『音楽がヒットする』という現象に注目して、今までとこれからを論じていた。それは、「どのように音楽にお金を払うか」という形態の変容と密接に関わっている。音楽が「所有する」対象から「アクセスする」対象に変わったというのは、感覚的に気づいていたが、明文化されてとんでもないパラダイムシフトだったと気づいた。

著者が他の業界の先行指標にしてほしいと発言していたが、全くその通りだ。

 

 

2/25〜3/17
『誰が音楽をタダにした?巨大産業をぶっ潰した男たち』(作:スティーブン・ウィット/訳:関美和)、読了。

MP3開発者、MP3を使って違法行為にのめり込む海賊、MP3に次第に翻弄される音楽業界の人間、という三者三様の立場から、音楽の在り方を塗り替えたMP3の興亡史を描いていた。

膨大な調査による肉付けによって魅力的に描かれる三者が出会うことは無く、それぞれが自分達の世界でやるべき事をただやっていただけで影響し合っている点がまず面白い。インターネット社会がその要素に拍車をかけている点もある。それに加えて、男が成功するまでを描く伝記的な要素や、捕まえたい側と逃げる側との攻防を描いたスリリングな犯罪小説的な要素など、エンターテインメント要素をたっぷり詰め込んだ上で、音楽の在り方と時代の移り変わりを描き切っているのがすごい。

  

 

2/17〜2/24
ガケ書房の頃』(山下賢二)、読了。

「何がどうなってもなんとかなる」と思わせられる超ローリングストーンな人生の記録。読むと元気になる。人が人生で必ず一冊は書けるという種類の一冊。

ガケ書房を経営してる部分がハイライトというわけでもなく、人生全てにドラマがあるから、全てにハイライトを照らしている。本当に本が好きで、読書という文化を未来に継承するためのことを考えている姿が嬉しい。俺もそうありたい。

書店経営の考え方や、スマートフォンについての思索など、エッセー的な部分も感心する文章が多い。

  

 

1/20〜2/16
車輪の下で』(作:ヘッセ/訳:松永美穂)、読了。
超俯瞰で物語世界を掌握する神(作者)視点の小説は久しぶりに読んだ。その点はいかにも古典で、人物の心情まで説明してくれる余白の無さには、なかなか慣れなかった。

それでも、光り輝くような瑞々しい情景描写や、若者特有の悩みをしつこく丹念に描く心情描写には、嫌でも心動かされる。また、鬱病みたいな症状も凄くリアリティを感じる描き方だった。青春は始まった時から失われる予感を含んでいることに気づいた。

 

1/23
車輪の下で』を読んでいる。冒頭から独特の読ませる力を感じる。老成した若者が懐かしむ青春時代の瑞々しさが、読んでてかなり面白い。風景の美しさは読んでて楽しくなる。

しかし、この通底している切なさは何だ。青春が失われたという事実、あるいはハンスから青春が失われる予感に寂しさを感じているのでは、と推測した。

 

 

1/5〜1/18
『観ずに死ねるか!傑作音楽シネマ88』、読了。
知っていて観てない映画や、観て面白くなかった映画も載っているけど、わざわざ紹介されてると面白くみえる。極めて私的に見える映画の感想なんかでも、やはり面白そうに見える。その度合いにはバラつきがあるけれど、映画を介して評者との親密さが増すような錯覚を覚える。

青春シネマより評者は冷静に見える。

 

 

2016/12/16〜2017/1/5
『地鳴き、小鳥みたいな』(保坂和志)、読了。
どの作品も、脱線だろうがなんだろうが、ひたすら思考の変遷を書いていくというスタイルで、それが徐々に実験的に更新されていく感じだった。

表題作の「あなた」に語りかけて始まる実験性も面白かったけど、最後の『彫られた文字』が保坂和志の最新の小説観なのだと思う。この作品では、人称と脈絡の撹乱が最高潮に達しており、論理性などを度外視している部分がある。この『撹乱』という言葉は本文からの引用だった。自分の語彙に無い。

今回、著者は一貫して〈感じ〉や〈雰囲気〉みたいな漠然としたものを、言葉で限定していき、読者との共有を図ろうとしていた気がする。だから、読んでいる間、何かを共有している感覚がずっと面白かった。

 

2016/12/29
『地鳴き、小鳥みたいな』(保坂和志)に書かれていることを思い出す。周到に読者の誤解を避けようとしている。読む行為には必ず誤解が生じるというのは大前提だ。そして、一言で伝わることなら小説を書く必要も無い。

 

2016/12/22
『地鳴き、小鳥みたいな』(保坂和志)に書かれている思考の跳躍・飛躍は、酔っ払いのようだ。DOMMUNEに出た保坂和志の映像を見た人の感想に「保坂和志がただの酔っ払いみたいだ」と言っていたのがしっくりきたからそう思った。『記憶』と『記憶を語ること』の間に生じるズレにはいろんな原因があって、彼はそのズレを創作の中で試行錯誤しながら楽しんでいる。

 

2016/12/15
『地鳴き、小鳥みたいな』(保坂和志)を読み始めた。
読点の使い方が日本語のネクストステージ、あるいは、別世界に向かっている。『夏、訃報、純愛』は『未明の闘争』の時よりも思考の変遷を追体験するような小説になっていた。遠藤と近藤は実在したのだろうか?こんな用意されたような名字の2人が近くに存在し得るのか?