2020年前半に読んだ本の記録

2020年前半に読んだ本を、いろんな視点で大まかに分類してみる。

 

小説4冊、エッセイ3冊、ノンフィクション系1冊、新書1冊、ラジオ本1冊。

 

日本人作家8冊(ラジオのリスナー投稿本1冊を含む)、アメリカ人作家2冊。

 

男性作家5冊、女性作家4冊、男女混合1冊(ラジオ本)。

 

2010年以降出版(発表)の本12冊、2000〜2010年出版(発表)の本2冊、1999年以前出版(発表)の本4冊。

 

他の年の半年間と比べてみても、かなり少ないようだ。新型コロナウィルスの感染拡大の影響はある。通勤が減って読書の時間が減ったのだ。読書の時間が確保しづらくなるのは予想外だった。それに加えて、『虚人たち』は大層読みづらかったし、『「思春期を考える」ことについて』は専門的で難しかったし、『黄金州の殺人鬼』は分厚かった。

 

以下、ネタバレはしている。


6/27〜6/30

『どこにでもあるどこかになる前に。』(藤井聡子)、読了。

痛いところを突かれた。買った時点で、自分から突かれにいってるわけだが。

とても大切な話をしていた。自分の話のように感じる部分が多くて、どうしても冷静には読めなかった。他人事には出来なかった。

『富山から上京して数年働いて富山に戻った女性が、富山と自分を見つめ直してどうなっていくのか』というエッセイ。著者は無理矢理にでも富山の良さを発見していく中で、「富山ではなく自分自身に問題があった」という事実に気づき、自分と向き合いながら成長していく。

著者が、一歩ずつ勇気を出して、外界に踏み出していく姿に胸打たれる。自分も地方から何者かになりたくて東京に出てきた身であるし、筆者が好きなカルチャーにも馴染みがあったので、想定以上に共感しながら読んでしまった。俺が生まれ育った街は、田舎にもなれない地方都市の『どこにでもあるどこか』かもしれない。既になっていたように思う。そのことに気づいたのは、埼玉のロードサイドの風景に既視感を覚えた時だった。そうか、俺の地元は全国にたくさんあるのか、とクラッときた。

それでも、俺の地元にしかない魅力的な何かがあるはずなのだ。俺はそのことに気付けないまま、退屈なのを地元のせいにして上京した。問題があったのは、自分自身かもしれないのに。まだその事実を認められないけど、きっとそうなのだ。

実際、この本で描かれていた富山市もとても魅力的に描かれていて(自分の祖父母の家が近いので言葉にも親近感が湧きやすかった)、行ってみたい場所がいくつもあった。ガイドブックとしても優秀だ。

一方で、地方都市がどうやって魅力を残すのか、というマクロな視点で読んでも面白い。地元の人達が自分達で守るしかない。自治体は残すことを優先してほしい。何かと多様性が叫ばれているが、街も多様であるべきだ。

それと、装丁もとても凝っていて、家に置いておきたい可愛らしさだった。

どこにでもあるどこかになる前に。〜富山見聞逡巡記〜
 


6/25〜6/26

『鈴狐騒動変化城』(田中哲弥)、読了。

落語のような語り口と設定を使いながら、物語を面白おかしく展開していく。児童書だけど、大人も気楽に楽しめる巧さと軽さだった。その目まぐるしさと可愛らしい挿絵で、きっと子どもも飽きずに読めるんじゃないだろうか。

買った理由を覚えていないが、ブックデザインが祖父江慎氏だったからかもしれない。賑やかな絵の整理された配置、手触りが心地良くめくりやすい紙、丸背で手に馴染みやすい重さと大きさの製本。本という物質としても、とても魅力的だった。

鈴狐騒動変化城 (福音館創作童話シリーズ)

鈴狐騒動変化城 (福音館創作童話シリーズ)

  • 作者:田中 哲弥
  • 発売日: 2014/10/09
  • メディア: 単行本
 


6/12〜6/19

『拝啓 元トモ様』、読了。

ラジオのワンコーナーをまとめた本。

ラジオで聞いてた頃から思ってたけど、元トモはかなり普遍的な事象だと思う。誰もが元トモだらけ。サラッと読めてしまったのは、実体験から想像しやすかったからだろう。オチが無いことも多く、突然物語が終わることもあるこの投稿達に、寂しさや懐かしさや後悔や反省みたいな、漠然とした切ない気持ちをズンっと呼び起こされる。

巻末に、リスナーとは別に、池澤春菜氏、しまおまほ氏、宇垣美里氏、矢部太郎氏の執筆した元トモ話が載っていて、元トモとの距離感も切れ味の鋭さも様々なのだけど、やっぱりどうしようもなく切なくなった。

拝啓 元トモ様 (単行本)

拝啓 元トモ様 (単行本)

  • 発売日: 2019/07/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 


6/3〜6/11

『まどろむ夜のUFO 』(角田光代)、読了。

角田光代の本は初めて読んだけど、めちゃくちゃ純文学っぽい小説の短編集で、面食らった。

「純文学っぽい」と感じた点を考えていくと、抽象度が高くて映像化を拒むような描写が多い点と、非論理的に感じるくらい物語の展開に関わる説明が少ない点だろうか。これらの条件を満たしていった結果、展開はかなり突拍子無く感じた。

登場人物は、みんないろんな形で現実に実感を持たずに生きているように見えた。その様子が、逃避行動でも無く、自然に描かれていたのが不気味だった。

解説にも『アパート文学』という言葉があったが、居住空間についての描写はかなり執拗で、著者は『ある空間に人が住む』という事象に、強くワンダーを感じている気がした。

このずっと後にエンタメ系の直木賞(ざっくりした評価だが)を取るという事実を知っているので、作家としての変遷を追ってみたくなった。

まどろむ夜のUFO (講談社文庫)

まどろむ夜のUFO (講談社文庫)

  • 作者:角田 光代
  • 発売日: 2004/01/16
  • メディア: 文庫
 


4/20〜6/2

『黄金州の殺人鬼』(作:ミシェル・マクナマラ/訳:村井理子)、読了。

読んでいる間、ずっとじんわりと恐怖を感じ続けた。夜中、読む前に玄関ドアのロックを入念に確認するようになった。

しつこ過ぎるくらいの細かい描写の反復で、犯人のあまりの不気味さに精神的ダメージを負った。そして、それに対抗するように描かれる犯人を追う著者の執念深さが凄まじい。ありとあらゆる手段や視点を使って、犯人を追いかけ続けていた。

本書は、著者の不慮の死によって途絶したものを、夫が雇ったライター達によって書き上げた本なのだが、これは、著者が生きていても書き上げられなかったのでは、と感じた。とても膨大な情報量で、全くまとめられる気がしない。完成した本もよくわからない章立てになっていて、はっきり言って読みにくい。それでも、最初から最後まで「絶対に悪を追い詰める」という強く気高い意志が伝わってくる。

最終的に、著者の捜査は犯人逮捕に直接結びついていないのかもしれないが、この献身には何らかの成果が残ったはずだ。また、著者の捜査方法を見ると、世界中の誰もが探偵になれる可能性が感じられる。

インターネットは悪用も簡単だけど、ひとまず、希望の書として読みたい。

 
3/10

『USムービー・ホットサンド 2010年代アメリカ映画ガイド』(グッチーズ・フリースクール編)を読み始めた。


2/19

『Jazz The New Chapter 6』を読み始めた。

Jazz The New Chapter 6 (シンコー・ミュージックMOOK)

Jazz The New Chapter 6 (シンコー・ミュージックMOOK)

  • 発売日: 2020/02/17
  • メディア: ムック
 

 
2/26〜4/8

中井久夫コレクション3 「思春期を考える」ことについて』(中井久夫)、読了。

専門的な内容が多くて、読むのにとても長い時間がかかった。

柴崎友香が勧めていたので読んだ。保坂和志もこの人の別の本を勧めていた。

精神科医が、後に続くであろう者達に指導しているような内容が多く、精神科医という仕事の難しさが十分に感じられた。精神科医がいかに手探りで仕事をしているか、あるいは、仕事をすべきか、という真摯な姿勢には静かな感動を覚える。

冒頭の『Ⅰ』の章は主に思春期について書いているが、『Ⅱ』は思春期のその後(労働や熟年)と妄想障害やうつ病を中心とした雑多な話、『Ⅲ』は病跡学という学問について、『Ⅳ』はサリヴァンロールシャッハという先人たちの功績について、書かれていた。

すべる目を何度も往復させながら読み進めると、時々啓かれるような気持ちになる文章に出くわす。特に印象に残ったのは、うつ病からの快復についての言及にあった「治るとは元の生き方に戻ることではない」という言葉だった。強い実感の伴った重みを感じる。漫画『Shrnik』(原作:七海 仁/漫画:月子)にも似た表現があったので、この考え方は定説なのだろう。

他にも全く知らない考え方に何度もぶち当たって驚いた。大学が失業者を市中に放り出さないようにプールする機能を備えているという話、日本の交番が世界的に見ても特異な犯罪予防の機能を担っているという話、歴史上の人物を心理学的観点や精神医学的観点から分析する病跡学、社会的に成果が評価されやすい『昇華』という状態が実は本人の精神状態にとっては良くないという話、統合失調症が対人関係から発生するという話(正直、病跡学の部分は普通に伝記でも読んでるような面白さで、学問として成立しているのかどうかは微妙だと思った)。

ラッセル、サリバンという二人の話も初めて知ったが、精神医学の分野での彼らの活躍ぶりは大変面白く読んだ。


2/14〜2/25

『IQ2』(作:ジョー・イデ/訳:熊谷千寿)、読了。

かなり夢中で読んだ。ハリウッド映画的なド派手展開に引っ張られた感があった。

主人公アイゼイアの探偵としての活躍が、一作目より少なくなったのを感じて残念だった。彼の探偵としての資質は減退しているように感じた。それは彼が恋愛や友情などの感情に惑わされたから、という面もあるので何とも言いがたいが、彼のホームズばりの冷静な立ち振る舞いがもっと見たかった。

しかし、やはり彼を探偵として読んではいけないのだろう。前作も少し感じたが、今回は特に推理というにはあまりに証拠が無い『想像』や『推測』で事件を解決していた。

一方で、ドットソンはより魅力的になっており、2人のバディ感もより強くなっていて、その点は読みどころ抜群になっていた。

この2人の関係性とアイゼイア自身の変化も面白くなってきてはいるので、続編が翻訳されれば読んでしまうかもしれない。 

IQ2 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

IQ2 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 


1/30〜2/13

『かなわない』(植本一子)、読了。

ここまで正直に晒し出すのか…という驚愕の文章の連続だった。

2011〜2014年のブログに載せていた文章の転載がベースになっているのだけど、この内容を世界に発信していた、という事実に驚異と恐怖を感じる。自分にはできない。しかし、その文章が本という完結したメディアになると、はっきりと文学作品のパッケージとして感じられるのは面白い。この赤裸々な吐露は、個人的な領域を突破した、立派な『作品』だと感じた。ここまで晒したから成立している。

2011年の文章を読んで、震災がもたらした不安を思い出した。原発問題って解決してないよな、解決してないことも発表しないのかな、とか考え始めると苦しい。

同時に描かれていく育児のストレスと混乱に塗れている文章は壮絶だった。子どもがいる私にとって、その姿は全く他人事ではなかった。子どもに対する「かわいい」「一緒にいよう」「大好き」と「もう嫌だ」「関わりたくない」「辛い」という感情は矛盾せずに存在し得る。子どもに手をあげてしまった描写まで正直に書いていて、読めば読むほど辛い気持ちになる。その一方で、私自身の子どもとの接し方を客観視する感覚も生じた。自分の子育てだって、不安だらけだ。世の中に正しい子育ては無いだろう。

後半では、筆者は結婚しているのに彼氏ができる。読む前から内容を少し知っていて、このスキャンダラスに見える部分がメインだと思っていたが、そうでは無かった。そこから筆者のアイデンティティと精神に抱えている問題に焦点が移っていく怒涛の展開で、夢中で読んだ。

最後に書き下ろしで挿入されている彼氏との辛いやり取りの生々しさも凄まじかった。この後、筆者は変われたのだろうか。読み終わってから、この後の彼らがずっと気になっている。私はECDのその後も少し知っているので、この後、どうなっていくのかも想像してしまう。ECD側からの視点も読みたくなった。私は続編も買うのだろう。


2019/12/20〜2020/1/30

虚人たち』(筒井康隆)、読了。

読み通すのが大変な本だった。あとがきの解説まで読んで、どうにか自分の読んだものの意味が少しわかった。

小説という形式自体を疑って問い直すようなメタフィクションで、この小説自体が小説の形式内で暗黙の了解になっている省略や前提などを露わにしていく。「小説にこの手法は本当に必要なのか?」という大事な問題提起も見えたが、この創作の動機には著者特有の悪戯心や悪趣味のような意思も感じた。

ずっと読み方がわからなかった。主人公の持つ意識をどう捉えればいいのかが難しかった。

最初、映画『トゥルーマン・ショー』のような読み方をしかけたが、そんなレベルのメタではなかった。

筒井康隆らしい実験作だった。

 
1/14〜1/16

『言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか』(塙宣之)、読了。

漫才の技術論を徹底的に解説してて、とても読み応えがあった。読めば読むほど、M-1を見返したくなった(実際に、2007年のオードリーの漫才は見返した)。

佐久間Pの推薦コメント「明快な漫才論なのに、青春期みたいに熱い」はまさにその通りで、ナイツ・塙が漫才に賭けた青春もうっすらと記録されている。タイトルの由来からしてそうだった。

最初はQ&A方式に戸惑ったが、読んでいくうちに慣れた。真剣に観ていない年もあるが、殆どのM-1を見ていたので、スムーズに読めた。

「漫才とはしゃべくり漫才である」の大前提から始めて、しゃべくり漫才コント漫才の違い、関西と関東の漫才の違い、と大まかに体系的に話を広げた上で、漫才を最大限に盛り上げるM-1という競技と、参加者達の漫才についても語っていく。

競技としてのM-1の話では、競技性を批判する意見は見かけたことがあるが、その競技性ゆえに盛り上がる大会になったという話は考えたこともなかったので、感心した。

他にも、M-1は吉本主催の大会なのに吉本以外も優勝させる懐の大きさがあるという話、観客や視聴者が求めるドラマ性が初出場や敗者復活からの活躍を望むという話、キャラ漫才の評価の難しさ、ツッコミに必要な愛の話…。どの話にも深い考察があって驚いた。漫才をやる当事者にしかわからない話があるのは勿論のこと、漫才という笑いを俯瞰で考え抜く視点にも驚いた。そののめり込めなさが枷になっている可能性もあるが…。

とにかく2019年のM-1の考察もぜひ聞きたい。

2019年後半に観た映画類の記録

前半に比べて観た本数は減ってしまった。家で皆で映画を観る習慣が潰えたからだ。また復活する日は来るのだろうか。

 

2019年後半に観た映像作品を大まかに分類していく。

映画館で観た新作5本、映画館で観た旧作1本、Netflixオリジナルの映画1本、配信サービスで観た旧作1本、配信サービスで観た海外ドラマ2シーズン。

アメリカ制作の映画8本、アメリカ制作のドラマ2本。

 

あまりに偏っている。

アメリカ制作以外の映像作品を見ていない。女性監督の映画だって見ていない。残念だ。

2020年はもう少しバラエティ豊かに鑑賞していきたい。

 

以下、遡る形で記録していく。

ネタバレはしているので、注意。

 

 

12/31

スターウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』(J・J・エイブラムス監督)を観た。

観終わって、新しさが感じられなかったことが衝撃的だったし、悲しい気持ちになった。ファンが作ったファンを喜ばせるためだけの映画に見えた。エピソード7にもその傾向はあった(ラジオ番組の『タマフル』で『過剰接待』というワードが飛び交っていて納得した)が、こんなにクリエイティビティが感じられないのか、と落胆した。

「ファンサービス総決算!」とばかりにエピソード4〜6の人気キャラ総出演だったが、それだけでファンは嬉しいんだろうか。そして、エピソード8が遺した荒地のせいなのかもしれないけれど、脚本が破茶滅茶でご都合主義的だった。フォースの能力設定は万能化とインフレが進んでいて便利過ぎるので、どんな展開になっても驚かなくなり、緊張感が保てない。レイの出自は再び血縁主義に捉われていて、前作の数少ない革新性の否定だと感じた。レイがダークサイドに陥るか否かの葛藤も、ある人物を殺すか否かという問いで作られていたはずなのに、最終的には有耶無耶になって終わって消化不良だった。カイロ・レンはどこまでも中途半端で、仮面を直したり被ったり脱いだりする意味がよくわからないし、レイに比べて大して強さも感じられないし、常に迷い続けている。その様子は、おそらく制作者の演出意図を超えて愛らしい。そこは、アダム・ドライバーの良さが功を奏しているのかもしれない。演出がうまくないと思うけど、彼の迷いにはアナキンのような切実さは無い。フィンは女性キャラクターみんなに思わせぶりで愛せない人物に成り下がっていた(観る前にsaebou氏が『オタサーの姫』と言っていたので、余計に意識してしまった)。スピーダーはまた細い道でチェイスしていたし、見たことが無い気候や文明の星も無かった。荒れる海での戦闘シーンは迫力があったが、他は必然性の無い動きもあって疑問に思うことが多かった。

そういえば、あのフラッシュみたいな映像はJ・J印だったのか。パンフレットを読むと、劇中で語られていない、もしくは、表現が足りていない設定やサイドストーリーがたくさん描いてあって、だから違和感があったのか、と納得した。

一つのコンテンツが役目を終えた。 

 

12/14

ゲーム・オブ・スローンズ』シーズン1を観始めた。

 https://www.amazon.co.jp/dp/B017S14BBW


10/12

ブルーサンダー』(ジョン・バダム監督)を観た。

スクリプトドクターの脚本教室・初級篇』(三宅隆太)で著者の個人的な思い出と共に取り上げて解説していたので、ずっと気になっていた。本で読んだ際のディテールは覚えていなかったが、脚本はしっかりしてそう、という印象を持っていた。

息子にヘリコプターのすげえアクション見せてやろう、と一緒に見ていたら、思ったよりお色気シーンがあって焦った。大人が見る分には他愛もないレベルだったけど。

留守番電話を聞くシーンや録画されたテープのやりとりは、公開当時の観客なら初見でも直感的にわかったのだろうか。ギミックとして2019年の技術と乖離し過ぎていたせいか、自分にはなかなか理解しづらかった。

キャラクターの心情の変化はわかりやすくて、目まぐるしい展開にもあまり無理を感じなかった。ライマングッドの健気さは泣ける。

何はともあれ、最後のビル街でのヘリコプターの戦闘を盛り上げるために、それまでの演出はあった。大都市でビルの間を縫うようにして、ヘリコプターが飛び回る!ヘリVS飛行機とか初めて観た!ヘリコプターをカッコ良く見せるための映像と編集も良かった。スピード感が見事に表現されていた。コクラン大佐の捨て台詞「あとでな!」を使ったやり取りも、ベタだけど面白かった。その台詞や宙返りの伏線回収も含めて、1980年代のハリウッド映画らしい作品だった。

 
10/6

『ジョーカー』(トッド・フィリップス監督)を観た。

重い余韻が身体にずっと残っている。IMAXで観てよかった。

バットマンの宿敵であるジョーカーの誕生譚、というわかりやすい前提があるから、目も当てられないような痛々しさや怖さに意識を奪われても、物語が追える。

前評判で『タクシー・ドライバー』を参照していると聞いてしまっていたが、観ながら脳裏に強く浮かんでいたのは『キング・オブ・コメディ』だった。パンフレットに両方の記述があったので、納得した。映像のルックは前者に近いのだけど、物語構成は後者に近い感じがしていて、うわ、それはやめてくれ…という痛々しい行為を主人公がしてしまうところや、妄想が炸裂するシーンで、特にそう感じていた。

不穏な音楽が鳴り響く世界で、ホアキン・フェニックスが不安と怒りを溜め込んでいく。それにしても、彼のあの身体はただ痩せただけなのだろうか。革靴を柔らかくしているだけらしい所作で、あんなに恐ろしい背中を撮れるものなのか。

発端となる電車内のやり取りの演出も凄まじい。時々暗転する車内が煽る不安と、意識を攻撃へ転じた途端に相手を徹底的に追い詰めるアーサーの恐ろしさ。アーサーが疾走するシーンは繰り返し描かれるが、いつも焦燥感ばかりを煽られる。こんなに見てて不安になるダッシュも珍しい。

アーサーが階段にいるシーンも象徴的に繰り返されるが、ジョーカーが誕生した瞬間の階段のシーンは、後世に語り継がれそうなカッコよさだった。その感想は不謹慎にも思えるし、同時に、不謹慎という感想が起きること自体が作品の完成度を物語っている。

その後、警察から逃げるアーサーは群衆を利用していて、その振る舞いは俺のイメージしていたジョーカーそのものになっていた。群衆に抱き上げられる映像は、さながらキリスト復活の宗教画のようだった。

全編を通して、最悪のネットスラングの『無敵の人』という言葉が思い浮かんでしまう。この言葉はカッコよく聞こえるので、本当に良くない。ジョーカーがカッコよく見え過ぎるのも大丈夫なんだろうか。ラストショットもめちゃくちゃカッコいい。「クローズアップで観ると悲劇で、ロングショットで観ると喜劇」というチャップリンの言葉を端的に表現していると思った。

ホアキン・フェニックスは決して美しい役ではないのに、カメラがクローズアップで捉えると、虚ろなのに透き通った目も髭がうっすら生えてる頬も美しく見えて、それがまた恐ろしかった。彼の精神状態は大丈夫だったのだろうか。ジョーカーを演じることのハードルはどんどん上がっていく。その後、ライムスター宇多丸氏の映画評(宇多丸、『ジョーカー』を語る!【映画評書き起こし2019.10.18放送】)を聴いた。なるほど、そのレベルまで虚実を疑えるのか、といたく感心した。映画の魅力を増やす映画評だった。


9/11

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(クエンティン・タランティーノ監督)を観た。

やっぱり映画って最高、と思える最高の映画。

最近のタランティーノ作品にある、ハイスピードズームのインとアウトを連発するようなハイテンション過ぎるぶっ飛んだ映像は、最後のお楽しみ。

それにしても、ラストのあの徹底っした突き抜けっぷりは凄まじい。歴史を覆すには相当な力が必要ということであり、監督があの悲劇への激しい怒りを表しているということだろう。これに近い手ごたえとして、藤田和日郎のかわいそうな物語(『赤ずきん』など)への怒りとその物語の救済・改変を描こうとする姿勢を思い出した。

事前に知った『シャロン・テート殺人事件に関連がある』という情報は、この映画の見方にかなり影響を与えた。シャロン周辺の展開があるたびに、不穏さを感じ取り、心配になり、緊張状態が持続した。

それと、対比するように、ディカプリオとブラピが仲良くしているだけのシーンは、平和で、穏やかで、素晴らしかった。楽しそうに車で過ごす二人、泣くリック(ディカプリオ)を慰めるクリフ(ブラピ)、クリフに仕事をあげようとするリック。これはずっと観てられる。

強く印象に残ったシーンも多々ある。『ロング・グッドバイ』を彷彿とさせるような、クリフの犬へのエサやり。アンテナを半裸で直すムキムキのクリフの、「漢!」って感じのカッコよさ。プッシーキャットのあどけないかわいさと、大胆な脇毛。車を運転するシーンの多さと、乗りたくなってくる気持ち良さ。落ち込んで情けなく泣きじゃくるリック。うまく演技ができなくてヘコみつつ自分を鼓舞するリック。見事に名演技をやり切れた時のリックのあの表情。面白過ぎるブルース・リーのモノマネ。なぜかブルース・リーと戦うクリフ。映画づくりの楽しさへの愛がある監督の眼差し。劇中劇となるドラマや映画の異様な作り込み。スパーン牧場に丁寧に漂わせる不穏な空気。重さがちゃんと伝わってくるクリフのカッコ良いパンチ。クリフの黄色いアロハ欲しい!幸せそうに過ごすシャロン。いろんなifが頭をよぎるパロディ映像。ヒッピー達も普通の人間として描いていて、途中までは好意的に感じられる。

パンフレットで挙げていたように、タランティーノにとっての『ROMA』になっていて、映像から感傷を感じたし、今まで以上に個人的な映画だと思えた。

観てからずっと思い出し続けている。

 
8/12

『ブラック・クランズマン』(スパイク・リー監督)を観た。

観客を煽り、覚醒を促すような攻撃的な映画だった。スパイク・リーの真骨頂。

その日は、観るまでに疲れていたのと、説明の情報量が多かったせいで、序盤でウトウトしてしまった。主題の説明シーンが終わってしまえば、スパイ映画っぽい「潜入がバレるかも」という緊張感と、人種差別をネタにしたギャグの連発で、眠くなる時間は無かった。もっと英語力や英語圏の文化がわかれば、より楽しめただろう。

差別主義者達が差別をする理由には論理性が感じられず、愚鈍あるいは醜悪に描かれていた。ギャグのようにすら見えるのが悪夢だった。

全てが終わって、差別主義者をみんなでやり込めるシーンのリラックスした多幸感が忘れられない。あの瞬間、差別が無くなるような理想の世界が夢見られる。しかし、すぐにそれは脆くも崩れ去る。

実話ベースゆえに、ラストに突きつけられる悲惨な現在の状況が辛い。 

 
8/10

ライオン・キング』(ジョン・ファブロー監督)を観た。

途中から「あのアニメを実写っぽいCGでやり直すという企画自体に無理があったのでは…」という気持ちで観続けた。

まず、動物達の喜怒哀楽の表情が読み取りづらい。怒り以外の表情はかなり同じに見えた。リアル路線での動物擬人化には必ず生じる問題だろう。

次に、キャラクターの描き分けの難しさも感じた。リアル路線ではアニメ的デフォルメも無いので、ライオンは似たり寄ったりに見えた。特に、ナラとシンバの母の違いはよくわからなかったし、暗いシーンではみんな区別がつかなかった。更に言うと、戦いのバリエーションの無さが辛かった。四つ足の動物は前足で抱え合うしかないのだろうか。あれは監督の魅せ方の問題もあったかもしれない。

物語自体について言っても、ハクナ・マタタのシーンが、後にシンバの成長にあまり関わってないような無駄な時間という扱いを受けていて、その物語的な繋がりの無さには違和感を覚えた。

また、草食動物と肉食動物がどのように共存しているのかも謎だった。アニメでは気にならなかったのに、リアル路線ゆえに違和感が強調されたようだ。国家が存在するならば、なおさら狩りの様子が知りたかったが、ディズニーアニメでは無理だろう。もしそれを描くのであれば、『動物農場』みたいになりそうだ。


8/2〜8/8

Amazon Primeオリジナル『ザ・ボーイズ』(シーズン1)を観終わった。

とにかく先が気になって一気に見てしまった。『ダークナイト』『アベンジャーズ』を経て、「ヒーローがいるからヴィランがいる」「ヒーローも人間的な一面がある」という流れを産む「ヒーローとは何か」という問いを突き詰めていった強烈な傑作。

普通の人間が超人に立ち向かう姿は定番だけれど、やっぱりめちゃくちゃアガる。『AKIRA』における金田や、ジョジョ4部の川尻早人の戦いを思い出す。

ヒーロー達は超人的な力を持っているが、あくまで力を持っていするだけの人間に過ぎない。その力に人間性を狂わされている様子は多少誇張されているかもしれないが、容易に想像できる。

「現実にヒーローが存在するなら本当はこんなクソ野郎だろう」から第1話が始まるが、そこに徐々に企業や政治の思惑が絡んできて、作品として社会の映し鏡となっていくのは、マーベルシリーズに近い(ヒーロー達のキャラクター造形は『ジャスティス・リーグ』に近いが)。

その過程を飽きさせないような見事な展開の連続でテンポ良く描く。基本的なトーンはコメディ寄りだが、思い切った性描写やゴア描写を効果的に使っていて、あっと驚く展開も多い。漫画のページをめくったら衝撃的な見開きが待っていた、という感じの映像も多い。主人公側の人間よりヒーロー側の方が掘り下げて描かれている場面が多くて、そのバランスも面白い。

主人公は至って普通の人間で、そのチームのメンバーはただのアウトローという感じで、彼ら自身より、彼らの冗談を交えたやり取りが魅力的に描かれている。

その結果、一番気になるキャラクターはホームランダーとなった。まんまとこの先が気になる状態になっていて、次のシーズンが楽しみ。

 https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B07VBJYC24/ref=atv_dp_b07_det_c_Z0r2A3_1_1


7/16

Netflixオリジナル『FYRE:夢に終わった史上最高のパーティー』(クリス・クロス監督)を観た。

史上空前の大失敗に終わったフェスを始まりから顛末まで描くドキュメンタリー。

邦題にもわざわざ説明を入れているので、おそらく『失敗したフェスの話』という事前情報無しに観る人はほぼいない。その前提の上で見ていくと、ほぼ時系列通りに描かれていくので、開催日までのカウントダウンが怖くて仕方ない。最初からおかしい感じはあるのだけど、小さな違和感が徐々にとてつもないカタストロフィーに向かう様子が、もはやホラーだった。

フェスの主催者の現実無視っぷりはサイコパスの域だった。スマートフォンの画面しか見ていないのだろうか。観ながら、うわー、という声が何度も漏れた。そして、フェイクニュースなどもそうだが、結局、言ったもん勝ちになる仕組が問題だった。『誰とでも繋がれる』技術の進歩の結果、とにかく多くの数にアクセスできるので、数打ちゃ当たるの詐欺が成功しやすいようだ。

また、参加者達がSNSでフェスの情報を得て、SNSに載せるためにフェスに行くという様子の奇妙さが描かれていた。ディストピア的なSNS奴隷のように見えるが、実際に多数の来場者が来てしまったのだから、このSNSマーケティングの有効性は間違い無い。

ITは世界を変えたが、良く変えた部分と悪く変えた部分のどちらが多いのだろうか?

このドキュメンタリーは、ITが虚業の爆発的成長をもたらしてしまうという一例を告発している。『この情報がどう見えるのか』と『この情報をどう受け取るのか』が争う変な時代だ。

このフェスが炎上を意味してそうなFYREというタイトルだったことも含めて、全てがフェイクドキュメンタリーである可能性を、完全には否定できない。

全ての情報に半信半疑な状態でしかいられないのは、健全とも思えないが、果たして。

https://www.netflix.com/jp/title/81035279


2017/11/6〜2019/7/11

Netflixオリジナル『ストレンジャー・シングス』(ダファー兄弟製作総指揮/シーズン2)を観終わった。

途中、間が空いてしまったが、どうにか最後まで見られた。まだまだ最高。

シーズン1も多くの名作映画を参照している感じがあったけど、シーズン2は特定の作品というよりはより広範囲のジャンル映画を参照している気がした。話数が進むにつれて、全体の基礎的なテイストが、『スタンド・バイ・ミー』や『E.T.』っぽいギャング集団的な少年期の映画から、登場人物達の成長に合わせて『アメリカン・グラフィティ』や『フットルース』的な、恋愛要素も交えた青春映画にシフトチェンジしていくのが面白かった。シーズン2では、そのベースの上に『エイリアン』的なホラー演出やパニック演出を足していく場面が多かった気がする。

そして、相変わらず脚本が素晴らしい。ちょっと伏線が読める展開もあったが、わかっていてもグッとくる演出が多かった。最も素晴らしいと感じたのは、各キャラクターに主演映画がありそうなくらいに物語を感じさせる演出だった。いろんな映画がユニバースで繋がって、このドラマで合流した、と見える瞬間があった。スティーブを応援したくなる日が来るとは思いもよらなかった。話のスケールが大きくなり過ぎそうで心配だけど、シーズン3も観ると思う。

https://www.netflix.com/jp/title/80057281


7/7

スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』(ジョン・ワッツ監督)を観た。

スパイダーマンの実写化の中で一番良かった。

しかし、それはスパイダーマンの物語がMCUの中にガッチリ組み込まれて、ドラマ性がメチャクチャ増幅されていたからでは、とも思う。『アベンジャーズ/エンドゲーム』以後のアイアンマンの喪失とどう向き合うのか、という主題は、これまでのアイアンマンの出ていた作品を知っていれば、より感情的に鑑賞できるという仕組になっている。

アイアンマンへの感傷を抜きにすると、今作ははっきりとスパイダーマンことピーター・パーカーの成長物語として描いていて、その巧さと感動を呼び起こす強さは前作『スパイダーマン:ホームカミング』の比じゃない。

恋愛にオクテで、スパイダーマンじゃなければ、普通の傷つきやすいティーンエイジャーのピーター・パーカー。それをトム・ホランドは甲高い声で、チャーミングにコミカルに、時にシリアスに演じ切っていて最高だった。特に、シリアスな場面の表情に現れる苦みのある哀愁は、大人への成長を予感させる。脚本自体がピーター・パーカーの様々な表情を多面的に引き出すように作られていた。

一方で、MJも前作に比べて格段に魅力的に描かれていた。前作ではリズというキャラクターを引き立たせるために、暗いことばかり言う陰気なキャラクターの部分だけを見せていたが、今回はそのキャラクターの本質的な部分は変わっていないのに、周りからの評価が上がって魅力的に見える、という不思議な描き方になっていた。また、前作から仄めかしていたピーター・パーカーを想う様子が大胆になっていたので、より可愛らしく見えたのかもしれない。それは、ゼンデイヤが本来の魅力を少し開放したのかもしれない。

その上で、ピーターとMJの恋愛模様もちゃんと描いていたのが良かった。

エンドゲーム以降の作品で、悪役をどう設定するのだろう、と言う問題は感じていたのだが、スパイダーマンらしいところに落とし込んで、スケールアップさせ過ぎずに楽しめるアクション盛りだくさんに出来たのは、ジョン・ワッツ監督の手腕なのだろう。

観たことがないほど立体的に躍動するスパイダーマンには驚愕した。

途中の幻想地獄のシーンも衝撃的だった。日本のマンガや『パプリカ』などでしか見たことがなかったような、超先鋭的な映像表現で、現実と仮想現実の区別がつかないという恐ろしさを存分に実感できて、凄かった。

そして、嘘が現実を歪めるという構図は、ポストトゥルースフェイクニュースのような現実の問題をエミュレートしているのが、脚本的にもやはり素晴らしかった。監督特有の『怖い大人』表現も健在だった。

 

2019年後半に読んだ本の記録

2019年後半に読んだ本を、いろんな視点で大まかに分類してみる。

小説8冊、エッセイ2冊、ノンフィクション系4冊、戯曲集1冊、勉強系3冊。

日本人作家15冊、アメリカ人作家2冊、イギリス人作家1冊。

男性作家13冊、女性作家5冊。

2010年以降出版(発表)の本12冊、2000〜2010年出版(発表)の本2冊、1999年以前出版(発表)の本4冊。

ノンフィクション系の本を多く読んだ印象があったが、そうでもなかった。

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』『黙示録』『つけびの村』『異なり記念日』には、強烈な印象を持っている(エッセイや日記に近い本もあったが、実話に基づくという大きな意味ではノンフィクション系と言っても良いのだろうか)。このジャンルに傑作と言える本が多く感じた。最近増えているのかもしれない。

もう少し、小説以外の本、海外作家の本、女性作家の本、古い本を読みたい。

 

『多様性』について考えることが多かった。

おそらく、2020年もそのモードは変わらない。

 

以下、例によって遡る形で読んだ本を記録していく。

ネタバレはしているだろう。気をつけてほしい。


12/20

虚人たち』(筒井康隆)を読み始めた。

虚人たち (中公文庫)

虚人たち (中公文庫)

 

 

12/11〜12/19

『黙示録 映画プロデューサー・奥山和由の天国と地獄』(春日太一)、読了。

圧倒的な熱量で、読みながらクラクラする。がむしゃらに読み終わった。

とにかく奥山和由の映画への入れ込み方が凄くて、久々に「自分はこのままでいいのか?」と問われた。焦燥感が心の奥底から湧き上がった。最近じゃこんなことは滅多に無いけど、映画プロデューサーの「才能に奉仕する」仕事に憧れた。誰かの才能にあそこまで心酔してみたい…!

特に初期のエピソードに顕著だけど、一つの映画ができるまでのドタバタがめちゃくちゃあって、そのスリリングなやり取りや調整だけでも死ぬほど読み応えがある。そこには、命がけの熱狂があった。奥山プロデュースの映画は裏側も映画みたいだった。

奥山和由の出来事のディテールをしっかり捉える記憶力と、細かく描写する力にもいたく感心する。それもプロデューサーに必要な資質なのかもしれない。

観てない映画も多いのだけど、こんな風に語られると、当然観てみたくなる。特に『海燕ジョーの奇跡』とショーケンの映画が見てみたくなった。色んな監督の描写も最高だけど、ショーケンの野放図な魅力が一際頭に残った。

春日太一氏の丹念な仕事っぷりは、いつも尊敬に値する。

黙示録 映画プロデューサー・奥山和由の天国と地獄

黙示録 映画プロデューサー・奥山和由の天国と地獄

 


12/5〜12/11

『ニューカルマ』(新庄耕)、読了。

茶店で勧誘に出くわしてからネットワークビジネスのことが気になって仕方なかった(闇に堕ちる - ほうる、ほうる、ほうるの最後の話を参照)ので、読んでみた。

そして、読み始めてすぐに、自分はネットワークビジネスの体験ルポやノンフィクションを読みたかったのか、と気づいたが、調べてみてもそんなものは見つからなかった。ということは、現状、読める本の中では、これが俺の欲望を一番満たしてくれるらしい、と再確認してから読み進めた。

結果的には、ネットワークビジネスの手口の一端も知れたし、物語的に予想がつかない展開もあって、かなり満足できた。読むまでは、ネットワークビジネスマルチ商法が食い物にするのは、人の不安や虚栄心だと安易に考えていたが、この小説が途中で提示する『善意』や『社会への接続欲求』を食い物にする仕組が、衝撃的で恐ろしかった。その仕組に、取材した元ネタがあるのかフィクションなのかはわからなかったけど、その衝撃がそのまま予想外の物語を展開させる原動力になる。その構成が、また面白かった。

途中にある勧誘の細かい描写はリアルで、喫茶店で見たものに似ていて感心した。勧誘する側が窓側に座るのは意味があったし、やっぱりスケッチブックみたいなの使うんだ。

また、一方で、想像していたよりも繊細な風景描写などが多くて、文学的な、というか、美しい言葉での表現が頻出していて内容とギャップがあって、かなり印象深かった。著者は光の入り方や当たり方に関心が強いような気がした。

解説を読んで、そういや、SNSを使った勧誘の描写は無かったな、と気づいた。自分が見かけた時に勧誘されていた二人組は互いに面識が無さそうだったので、「SNSで集められたのでは?」と思い始めた。書かれた時期には、手口として浸透していなかったのだろうか?小説に落とし込むのが難しかったのだろうか?

ネットワークビジネスについては、また調べたくなる気がする。

ニューカルマ (集英社文庫)

ニューカルマ (集英社文庫)

  • 作者:新庄 耕
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2019/01/18
  • メディア: 文庫
 


12/2〜12/5

きょうのできごと、十年後』(柴崎友香)、読了。

前作から、ちゃんと十年経っている。時間が経過したこと自体が負の感情を喚起するはずはないのに、なぜか寂しさや切なさを感じる。彼らの変化がそう思わせるのかと思ったが、彼らが不変であってもこの感情は滲み出てくるようで、不思議だ。そして、その十年の経過は俺にも起きていて、心情が大まかに登場人物にフィットするせいか、寂しさは増すばかりだ。

けいとは大騒ぎばかりしていられなくなっていたし、真紀と中沢も微妙になってしまった関係に引きづられていたし、みんな仕事とか結婚とか恋愛に振り回されるのもめんどくさくなっている。その心情には強く共感した。でも、相変わらず西山はうるさくてガサツだし、かわちは男前なのに抜けてるし、正道は引いた立ち位置から皆を気遣って眺めてしまっていて、変わっていない部分もあった、のがまた切ない。

登場人物は前作に出てきた人ばかりだが、殆ど全員が映画のキャストで脳内再現された(新キャストの西山の奥さんは高橋メアリージュンで)ので、とても読みやすかった。それほど映画のキャストがそれぞれの役に合っていたということもあるだろうし、あの映画がイメージを喚起しやすい強さを持っていたということでもあるけど、この小説自体があの映画も受け止めた作品だから、ということもあるんじゃないか。直接そんな言及は無いけれど、映画と小説の往復書簡みたいなものに見える。小説のあとがきを行定監督が書いているのも、その直感を確信に変えてくれる。

相変わらず、なぜそんなことやそんな気持ちが書けるのだ…とハッとさせられる言葉も多い。その度に、言いようのなかった気持ちに名前がつけられたように感じて悶える。一番気になったのは、かわちの「ああそうか。今日は、休みの日だった。しかも連休の始まり。ということを、家を出て地下鉄に乗ったときにも思ったのに、気づいたこと自体を忘れてまた同じ経過を辿ってしまった。」という何気ない文章だった。読んだ瞬間に、このかわちの思考を自分も辿ったことがあることに気づき、些末な感覚だと思ってスルーしていた自分の思考が、他人でも経験ある『あるある』だったことに気づかされて動揺した。こういう視界が啓くような体験があるから柴崎友香の小説を読みたくなる。

そして、読み終えて、映画も含めて『きょうのできごと』が自分にとって大事な作品になっていた、と知った、もしくは、思い出した。

きょうのできごと、十年後 (河出文庫)

きょうのできごと、十年後 (河出文庫)

 


11/26〜12/2

ハロルド・ピンターⅠ 温室/背信/家族の声』(作:ハロルド・ピンター/訳:喜志哲雄)、読了。

以前、機会があってピンターの戯曲を使った演劇を見た。その舞台で起きる違和感だらけのやり取りが気になって買った本。6〜7年寝かしていた。

全編、不可解さが漂い続ける。

1本目の戯曲の『温室』は一番不可解だった。舞台設定もよくわからないし、登場人物の言動の殆どが理解できない。姿を見せている人は存在しているということなのだろうが、それ以外の人はその存在すら疑わしい。信用できない語り手達が、お互いを信用せずに、延々と不穏なやり取りし続ける。かろうじてオチはあるが、何も終わった感じがしない。

背信』は妻と夫の友人に起きる不倫関係を題材にしていて、展開は一番わかりやすい作品かもしれないが、ここで彼らに起こっている心情の変化を知るのは容易くない。時系列を操作して遡っていく構成は、解説にもあったように、読者が得る情報量と登場人物が持つ情報量の乖離を意識すると、不思議な感じがした。

『家族の声』も信用できない語り手だらけで、謎の多い作品だった。家出したらしい息子が母と往復書簡をやり取りするかのような形式を取っているが、お互いの手紙は相手に出されている様子は無く、お互いに言いたいことを言い合うだけ。そのすれ違うやり取りの中に、どうやら死んでいるらしい父も自分勝手に言葉を投げかけてくる。

と自分で書いててもよくわからなくなる戯曲だが、この形式はふとTwitterに似ていると気づいた。そう考えれば、現代社会では見慣れた景色かもしれない。息子が訴える現状がまた微妙に不可解な状況だが、それも信用しづらいのはこの戯曲の形式が持つ特性だろう。このわからなさによって、思案することを強制される感じもある。

解説を読むと、筆者は『人物の行動の動機や理由を、当人も含めて誰も理解できないのが現実である』として、意図的にわからないまま表現していて、当時はそこに革新性があったらしい。そう知ってから思い出すと、納得しやすい。実際に存在してしまっている役者がこの色々と不確定な戯曲を演じると、彼らの存在感はどうなるのだろう。直接的な表現もせずに、じわじわと実存を揺らがせる作品群だった。


11/20〜11/25

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(ブレイディみかこ)、読了。

多様性と分断が混沌を作るこの時代に必読の、希望溢れる学びの書。

日本とアイルランドをルーツに持つ少年が、イギリスのブライトンにある中学校で成長する姿を、ちょっとパンクな母である著者が軽やかに描いていく。

著者と息子との受け答えが特に素晴らしい。「人種差別する人間は馬鹿ではない。無知なだけ」「多様性は楽ではないけど、無知を減らすからいいこと」という言葉が飛び出すやり取りに、胸のすくような痛快さを感じた。自分のぼんやりとした不安が晴れるような、嬉しいやり取りだった。

更に、息子はこの学びを即座に実践していく。その姿には、未来が明るく感じるような、深い感動があった。ブライトンでは、多様性を重んじる情操教育も日本よりしっかりしているようだった。子ども達にエンパシーという概念をきちんと教えているという話は素晴らしかった。シンパシーとエンパシーは『同情』系の意味で自分は混同していたが、全く異なる。シンパシーは『かわいそうな立場の人や問題を抱えた人、自分と似たような意見を持っている人々に対して人間が抱く感情』のことで、エンパシーは『自分と違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだと思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力』のことだそうだ。現代社会で大切なのは、圧倒的に後者だろう。世界の多様性とうまく関わっていくために、自分も覚えておきたい概念だし、子供にも伝えていきたい。

多様性の尊重とSNSの跋扈がアイデンティティに与える影響で、世界は複雑さを増していくが、少年達は常に大人の想像を超えて立派に成長していく。

引き続き連載中とのことなので、続編が出るならぜひ読みたい。

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー

 


11/15〜11/20

『全ての装備を知恵に置き換えること』(石川直樹)、読了。

素直でまっすぐな実感をそのまま保存したようなエッセイ集で、読んでて気持ちが良かった。著者は世界各国の最高峰や極地を渡り歩いてきた冒険家・探検家・写真家で、エッセイの内容も、世界各地で出会った風景や人との関わりを描いていた。

まず、タイトルが良い。どういうことだろう、と気になるキラータイトルだった。まえがきにある通り、この言葉はアウトドアメーカー『パタゴニア創始者の発言から引用していて、自然と身体一つで向き合いたいという理想を表明している。この理想は本全体に通底している。

短いエッセイが地理的なテーマごとに分けて集めてあるのだけど、その場所の違いがざっくりと内容にも違いを与えているようで面白い。

『海』は人類と海との関わり方の歴史を多く扱っていて、割と開放的な印象の文章が多い。

『山』は著者の個人史も含めるような、内省的な印象が強かった。

『極地』は見られる人が限られている景色について教えてくれていて、そこには心地よい孤独感があった。

『都市』は世界各国での様々な人々との繋がりが描かれていた。

『大地』は我々でもどうにか行けそうな場所での記録で、エッセイらしい文章が多かった。

『空』には人間が挑戦する姿が描かれていた。

途中、唐突に入っているトイレの話がとても好きだった。考えたことがなかったけど、極地だろうと美しい場所だろうと、どんな場所に行くにも、人が行く限り、排泄行為からは免れられない。その当たり前の現実を改めて提示されて、著者を等身大の人間として見せてもらった。

元々、著者の撮る写真が好きだった。特に山の写真にある静けさや孤独がカッコよいと思っていた。この本を読んで、このまっすぐに生きている彼が人との繋がりを撮った写真も見たくなった。

全ての装備を知恵に置き換えること (集英社文庫)

全ての装備を知恵に置き換えること (集英社文庫)

 


10/15〜11/15

草枕』(夏目漱石)、読了。

柴崎友香が写経するほど好きだというのを知って以来、ずっと読みたかった。

『坊ちゃん』『こころ』『彼岸過迄』くらいしか読んだことが無いが、一番読みづらかった。

第一の原因は言葉の難しさだった。簡単に意味が取れない熟語が多かった。『◯然』系の熟語が特に多く、その都度、注を読まなければならなかった。

第二の原因は言葉遣いの古さだった。他の作品に比べても、おそらく文章の現代的な改訂も殆どされていないのではないだろうか。というより、言葉遣いを改めると、魅力が薄れる部分が大きそうで、改訂が非常に難しそうだった。

第三の原因は、物語的な展開が停滞したまま続く執拗な情景描写の多さだった。その執拗さと描写の美しさ自体は面白いのだけど、第一・第二の原因と組み合わさると、本当に何が書いてあるかわからなかったりした。

そして、この読みづらさの第三の原因である『執拗で美しい情景描写』が、同時に、この小説の重要な要素となっており、最大の魅力と言える。柴崎友香も挙げていた羊羹を延々と描写し続ける場面は、馬鹿らしくなってくるほどの執拗さが笑える。他にも、椿の花が池にぽとりと落ち続ける描写も印象的だった。多くの場面が、詩や俳句に近い原理の描写で描かれていた。

これらのことからもわかるが、おそらく、この小説は漱石の作品でよく言われる大衆文学というジャンルからは逸脱している。画家の主人公が、山里にある宿で浮世離れした生活をしながら、詩や絵画の芸術論を考えたり、人の様子や情景を見つめていく、というストーリーには、大衆性は感じられない。『則天去私』を思わせる芸術論はそのまま文学論にもなりそうな内容だし、描かれる生活には『高等遊民』特有のゆとりと気取りが色濃く現れていて少し飽きるくらいだった。大衆性を帯びている数少ない要素としては、この小説の中心にいる那美という女性を巡る、スキャンダラスな噂や周囲の人間の反応だろう。それと対比するように、主人公の周りに現れる彼女自体は常に超越者的・怪異的に描かれているのも、アンバランスで面白い。

また、お茶の席で水墨の道具について皆で品評する場面には、他の漱石作品に通じる滑稽さと世俗性を感じた。

草枕 (新潮文庫)

草枕 (新潮文庫)

  • 作者:夏目 漱石
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2005/09
  • メディア: 文庫
 


10/8〜10/14

『つけびの村 噂が5人を殺したのか?』(高橋ユキ)、読了。

noteの記事が話題になった時、少しだけ読んで衝撃を受けて、書籍化したら買おうと決めていた(その時点で敬意を込めて課金しておくべきだった、と後に反省した)。

まず、2013年に山口県の12人しかいない限界集落で5人の村人が殺された事件の真相に迫る、というわかりやすいストーリーラインで始まる。その「連続殺人事件の裏に報道内容と異なる真実が隠れていそう」という導入が強くて良い。それはまさしくミステリーのイントロであり、気にならないわけが無い。そこに、山奥の村ならではの風習も関係しているかもしれない、という民俗学的スパイスまで放り込まれる。ここまで読むと、金田一耕助でも出て来そうな話だが(著者のインタビューを読んで、諸星大二郎妖怪ハンターシリーズ的だと言うのも納得できた)、これはノンフィクションなので、やはり名探偵は現れない。読み進めてすぐに、調査は想像と全く違う展開にツイストしていく。

犯人と事件の背景に迫るべくアプローチしていく中で著者が気になったのは、この限界集落に異様に溢れている『噂』。人は噂話が好きだ。自分だって好きだけど、人間が噂話をこんなに好きだとは考えたことも無かった。『つけびの村』と違って、自分達にはインターネットがあって、噂話の消費の仕方が違った。それだけだ。今では、いろんなSNSにつけびの村がある。この本を買う際、自分も『この事件の裏に隠された真実』というゴシップに釣られた部分はあるが、はっきり言って、この本ではそんなものはわからない。

でも、そのわからなさが凄く面白い。黒澤明の映画『羅生門』のように、加害者も被害者も、様々な証言によって印象が変わり続ける。証言者の印象でさえ、他の証言者の印象で変わる。この見え方が変わる鮮烈さに頭がクラクラする。不確かなものしかない不安が凄い。この本に登場する人物の中では、魔女の宅急便の人に一番生々しいヤバさを感じた。この当時、この事件に興味を持っていれば、「殺人事件」「限界集落」「村八分」というワードだけで自分の好きなようにゴシップを作っていたことだろう。この本は、そうやってわかった気になってゴシップを消費する姿勢への問題提起にもなっている。

当然だけど、一次情報を得るために現場に行くというのは大変だ。お金も時間もかかる。この本では、その著者の経験した大変さも、ドキュメンタリーのごとく克明に描いていく。山の奥深さの描写は想像を超えていた。いろんな証言を得るための会話で、お互いを探り合っている様子も面白い。その調査の過程では、村の過疎化が進んでいった歴史も描かれている。別に珍しい話でも無さそうだった。

つけびの村は増えていくのかもしれない。

つけびの村  噂が5人を殺したのか?

つけびの村  噂が5人を殺したのか?

 


9/27〜10/12

『僕の人生には事件が起きない』(岩井勇気)、読了。

面白かった。一気に読み終えることもできそうだったが、ゆっくり読み進めた。嘘とわかる嘘や妄想と、独自の強固な理論をフルパワーで使って、タイトル通りの事件とは言えないほど些細な出来事を、面白おかしく語り切るエッセイ。ラジオで話していたエピソードトークも多く入っているので、知っている話もあるのに、文章で読むとやはり印象が違う。オチや展開が変わっているような気さえしたけど、改めて調べてみてもそんな事は無さそうだった。著者曰く「全く本を読まない」とのことだったけれど、喋り言葉にも近い文章はとても読みやすくい。エッセイらしい締め方をしていることも多くて、エッセイという形式が文章を縛ってしまう制約もあるのかもしれない、などとも考えた。

PR誌・『波』の中で、能町みね子氏とテレビ東京の佐久間宣行氏と話していた内容も納得できるので、家ではさくらももこの『もものかんづめ』の隣に並べておきたい。

僕の人生には事件が起きない

僕の人生には事件が起きない

  • 作者:岩井 勇気
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2019/09/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 


9/23〜10/8

『掃除婦のための手引き書 ルシア・ベルリン作品集』(作:ルシア・ベルリン/訳:岸本佐知子)、読了。

どの文をどこから読んでもカッコよくて、ため息が出る。これは本当に不思議なことで、どの短編もそれなりに展開があるのに、途中から読んでも、その後に最初に戻っても、小説になっているような気がする作品ばかりだった。

それは、まず、一文のフレーズの強さに要因がありそうだった。とにかくカラフルに五感を伴ったイメージを喚起する。経験したことの無い情景が、読んだことの無い言葉で作られていて、読んだ瞬間にめちゃくちゃドキドキする。

次に、前後の文との繋がり方が驚きに満ちていることにも要因がありそうだった。一文で情景が変わるような瞬間が多くあった。それぞれの具体的な例は巻末のリディア・デイヴィスの文章や、訳者あとがきで存分に語られていて、納得の内容だった。確かに、トム・ジョーンズとは少し似ているかもしれない。

読んでいくうちに、著者の現実に起きたらしい出来事が散りばめてあるのはわかる。しかし、それらは、全てが過去のことであり、振り返る対象でしかない。いろんな短編で何度も同じモチーフについて語ることがあるが、どんな出来事も振り返る時の視点によって全く印象が違う。同じ出来事を語っているはずなのに、違う物語に当て嵌めて話すと全く別の話になる。映画『ビッグ・フィッシュ』はファンタジー過ぎるが、手法は近い気もする。

人生の、過酷な時期も、幸せな時期も、ルシア・ベルリンは極彩色に塗りたくりながら語っていた。

掃除婦のための手引き書 ルシア・ベルリン作品集

掃除婦のための手引き書 ルシア・ベルリン作品集

 


9/8〜9/23

『ライムスター宇多丸のラップ史入門』(宇多丸高橋芳朗、DJ YANATAKE、渡辺志保)、読了。

NHK-FMで放送された『今日は一日“RAP”三昧』の内容をベースにして、ラップの歴史を振り返っていく本。

1970年代から10年単位で日本とアメリカのラップミュージックを並行して見ていく試みが非常に面白くて、他の分野でもこういう本があればいいと思った。また、この本を読む際にはスマートフォンが手放せない。紹介される音楽をSpotifyで流しながら読み進めていくと、ラップ(ヒップホップ)ミュージックの進歩がよくわかる。80年代と90年代のヒップホップの流れを全く知らなかったが、トレンドの移り変わりの早さにも驚愕した。通して聴きながら読んでいくと、ここ最近の日本のラップがアメリカのラップにかなり似ていることは感慨深い。これは、YouTubeSpotifyのような情報技術の進歩の影響もあるだろうが、いとうせいこう達から始まる先人達の研究と研鑽の結果なのだと実感できる。

固有名詞を追うだけでも大変な情報量になる。その膨大な情報を整理して伝えてくれたMCの面々にも頭が下がる。

ラップの今後も気になる。昔はマッチョな世界観が主流だったラップが、女性の社会進出や性的マイノリティーをテーマとして扱えるようになったという転換は、音楽としての懐の深さを表しているのだろう。

時代に合わせて、常にマイノリティーを救える音楽であり続けるなら、ラップの繁栄は止まらない。

ライムスター宇多丸の「ラップ史」入門

ライムスター宇多丸の「ラップ史」入門

 


8/20〜9/7

『零號琴』(飛浩隆)、読了。

難しい用語や漢字を大量に投入しながら、なぜこのリーダビリティを確保できるのだろうか。ガンガン読み進めてしまった。全く観たことがないし、存在しない世界のはずなのに、想像できる。唐突に現代日本でしか理解できなそうな言い回しがギャグみたいに出て来るのは笑った。でも、この世界ではその言い回しが通じる世界なんだよな、と納得もした。SF小説は読者の想像力をどの程度信頼しながら書き進めるのだろうか?見たことも無いものを描くにしても、既存の言葉を使って創っていくんだな。その想像力と創造力の積み重ねを想像して溜息が出る。

そして、飛浩隆って他者の作品をマッシュアップした感じのSFを書くんだ…?というのが率直な驚きだった。作品名は敢えて書かないが、美少女アニメのコンセプトや手塚治虫を感じさせる漫画のアイディアを使った上で、飛浩隆らしいSF世界を拡張している。あとがきにあったように、軽いSFを志向したから、このような手法を導入したのだろうか。キャラクターは大胆にデフォルメされた人物が多くて、これも漫画的だと感じた。

それにしても、この小説の構造が凄まじい。世界観と密接に絡んでいる主人公達の物語、小説の舞台が内包する神話的サーガ、小説世界に流布しているコンテンツという3種の物語を絶え間なく各視点から語り続け、独創的なアイディアがうまく連動するように組み上げて一つの小説としていることに驚嘆する。明かされていない謎もたくさんあるが、話が進むにつれて、うまく情報が開示されていって、次の展開への興味が刺激され続けていく。この情報を出すタイミングと量が絶妙だった。

トロムボノクとシェリュバンの異能っぷりと、その異能とちゃんと繋がっているキャラクターはとても魅力的だった。続編が書かれるなら、このバディは続いていてほしい。

零號琴

零號琴

 


2018/9/19〜2019/9/6

『さよなら未来』(若林恵)、読了。

じっくり読み進めた結果、読み終わるまでに約1年かかっていた。『WIRED』という最先端テクノロジーを紹介する雑誌の編集長だった著者が、その雑誌を中心に書いてきた文章を集めた本。

話題はテクノロジー関連を中心にしながらも、多岐に渡っている。今まで自分があまり読んで来なかった内容なので、海外の最先端テクノロジーは紹介されてるだけでも新鮮な気持ちで読めた。

個人的なブログからの転載だというディスクレビューも含めて、著者の一貫した思想は感じられる。著者は人間の持つ自立心を信じている。実は、彼はテクノロジーや技術全般が好きじゃなくて、使う人間の方に興味があるようだ。人間は技術という道具に振り回されるべきではなく、技術を適切に扱うべきだし、扱えるはずだと彼は信じている。勿論、全人類にそれが可能だと思ってるわけではないし、物事に批判的なスタンスを取ることも多いが。

そんな著者が放つ文章は切れ味鋭く、カッコいい。一番シビれた文章は『「ニーズ」に死を』だった。心の底から納得できるところも多く、webで見つけたテキストはブックマークして、時々読み返している( https://wired.jp/2017/01/03/needs-dont-matter/ )。読むたびに何か意欲のカケラみたいなものが得られる。特に、「(ちなみに言っておくと「イノヴェイションは勇気から生まれる」というのがぼくらの見解だ)」と括弧付きで書かれている控えめな一文が、僕は一番好きだ。著者の活動は今後も追っていきたい。

さよなら未来――エディターズ・クロニクル 2010-2017

さよなら未来――エディターズ・クロニクル 2010-2017

 


8/5〜8/14

『異なり記念日』(斎藤陽道)、読了。

聴覚の有無を、ただ単に『扱う言葉が違う』『情報の受け取り方が違う』として、ちゃんと認めて生きていく。その理念を、生活の中で実践して積み重ねた記録。

聴こえない生活を殆ど想像したことが無かった。例えば、iPhoneFaceTimeがろう者にもたらした幸福をわかっていなかった、というように、自分のろう者への無知・無理解が一つ一つ解きほぐされていくような優しい本だった。手話に種類があるのは知っていたが、日本手話を母語とする人のことを、自分はよくわかっていなかった。生まれた時から皆が日本手話で話す家があるというのは、全く想像の外だった。言葉が身について記憶が生まれた、という著者の実感の伴った話にも静かな感動を覚えたけど、保坂和志も似たようなことを言っていた気がした。

映画、音楽、漫画、小説、会話…というあらゆる情報の受け取り方が聴者とは違うんだろうな。だけど、別に聴者同士だって、それは全然違う。当たり前じゃないか。自分と他者の当たり前の『異なり』を、また一つ肯定的に受け入れられて、少しホッとしたような気分になった。多様性を認める社会を作るための大事な一冊だった。

異なり記念日 (シリーズ ケアをひらく)

異なり記念日 (シリーズ ケアをひらく)

 


7/21〜8/2

『スウィングしなけりゃ意味がない』(佐藤亜紀)、読了。

自由より大切なものは無い、と信じさせてくれる小説だった。

解説にも書いてあったが、全くわからない単語があってもスラスラ読めてしまう。その体験はSFやファンタジーでも読んでいるかのようだが、ちゃんと史実に準拠しているらしいのだろう。相当な取材と資料収集があったのは想像に難くないけど、その労力を割くだけでは作品にはならない。

この凄まじいリアリティの世界観を描き切った創造力に驚く。一番その力を感じたのは、ナチスに属する奴ら自身も自分達の行為を馬鹿げたものとして扱うという描写だった。だから、戦争は怖い。馬鹿げてるとわかってるのにやる。やるしかなくなる。自由と尊厳が踏みにじられても。

そして、強制労働は効率も悪い。嬉々として働く奴なんているわけなくて、サボり方ばかりが上手くなる。やっぱり差別も人権侵害も全然世界を良くしない。 主人公のエディはクールだ。どんな困難も軽やかに超えて楽しんで生きて欲しいが、戦争はそれを簡単には許さない。自由を得るために生きねばならず、周りの皆も生かさねばならず、ナチスに迎合する、という耐えがたい不自由に苛まれる描写は、読むのが辛かった。

ハンブルク爆撃で、人が人じゃなくなってく様子も悲惨だ。これはどの戦争でも共通だろう。戦争はクソ。

世界中の人が読めばいい。ドイツ語訳はされているのだろうか?ドイツ人にはどう読まれるのだろうか?

マックスもクーもデュークも最高。戦後、みんながどうなったのかはわからないし、青春時代と戦争が重なるのはとてつもなく不幸だけど、あの時の彼らの輝きは永遠に戦争に負けない。

スウィングしなけりゃ意味がない (角川文庫)

スウィングしなけりゃ意味がない (角川文庫)

 


7/5〜19

『知の編集術』(松岡正剛)、読了。

世の中は情報で出来ていて、意識的にも無意識的にも、それを編集しながら人間は生きている。その編集術に意識的に生きるススメの本。

自分は何を期待して読み始めたのだろうか?情報を整理する力の向上?そういう実用性を求めていたのだろうか?

あれもこれもどれもこれも『編集』という言葉で説明できるのはわかった。練習すれば編集術は身につくのだろうか。『編集稽古』という練習のページをもっと熱心に読み込んでみればよかったかな。一つの事象について、視点を変える方法のヒントは少し得た、ような、気がしないでもない。

要約法と連想法という編集の分け方はわかりやすくて感心したが、どうも実用書っぽい本が苦手で、やはり著者のエッセイっぽい箇所や蘊蓄ばかりが気になった。次は普通にエッセイ読んでみようかな。

知の編集術 (講談社現代新書)

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6/29〜7/4

『IQ』(作:ジョー・イデ/訳:熊谷千寿)、読了。

主人公の冷静さがカッコイイ!まさにクール。久々に実写化が見えるエンタメ小説を読んだ。解説を読むと、著者は脚本家だったみたいなので、映像的に感じやすい表現が多かったのかもしれない。

キャラクター描写がいちいち気が利いていて、シャーロック・ホームズを彷彿とさせる主人公アイゼイアの、鋭い観察眼と冷静に事実だけを追って真相を推理する姿勢は、ヒーローに相応しい。小説の構成として、同時に彼が探偵になるまでのオリジンも追うので、彼の未熟だった頃の描写と合わせて見ると成長が見て取れて面白い。

そして、そんなアイゼイアの魅力を最も引き立てるのがドッドソン!彼がワトソンのような立場でありながら、全く異なる動き方をするのも最高に面白い。アイゼイアに愛憎入り乱れた感情を抱いて隣にいて、粗を探そうとすることで結果的にアイゼイアを助ける、という構図は独創的だった。

2000年代後半〜2010年代という時代を黒人文化多めできっちり描いていく。実在する固有名詞を混ぜながらストーリーを進める手法は、まるでラップのようだった。

主人公の魅力でガンガン突き進む展開はずっと先が気になる感じなので、勢い2作目も買ってしまった。

IQ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

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2019年前半に観た映画類の記録

息子と一緒に映画を観られるようになってきた。

1〜5月までは、「週末の夜に一緒に映画を観る」ということをしていた。自分は幼い頃に『金曜ロードショー』や『ゴールデン洋画劇場』を楽しみにしていたので、息子にその習慣を作ってみたいと思って始めた。彼に事故的に映画に出会わせたい。そのための映画選びがとても楽しかった。以下の条件を作って考えていった。

  1. 残酷描写や性描写などが無い映画にする。
  2. いろんな年代の映画にする。
  3. いろんな国の映画にする。
  4. なるべく上映時間が短い映画にする。
  5. 息子も自分も妻も楽しめる映画にする。

1の条件を満たそうとすると、自然と子ども向けになりやすくてアニメが多めになる。3の条件を満たそうとすると、有名な作品は大抵がアメリカ産で、なかなか大変だと気づいた。そして、これら全ての条件を満たそうとすると、ディズニー・ピクサーが強い。ジブリはその次に強い。それらをどう避けるか、もなかなか難しい。

最近では、息子と一緒に映画館に行く機会も増えた。

一時期、『アベンジャーズ:エンドゲーム』の影響もあって、MCU作品ばかりを観てる時期もあった。

以下、作品の感想。ネタバレもあるだろうから、注意されたし。

 

6/30

『アラジン』(ガイ・リッチー監督)を観た。

2019年におけるディズニー実写化としてのアップデートがとてもうまくいっていて、ほとんど違和感なく楽しめた。その改変は特にジャスミンに顕著で、あそこまで女性をエンパワーメントする役になるとは思わなかった。吹替で観たので歌声はわからないが、演じるナオミ・スコットも力強さを備えた美しさが素晴らしかった。アニメ版の『アラジン』はシンデレラを男女逆転したようなストーリーだったが、2019年にはそれだけでは足りなくて、知識も経験も豊富なジャスミンが国王になるべき、という最適解を導き出していた。やはり差別は社会のためにも良くない。

その部分を強化したり、国王を少し賢王に変えたりの微調整はしたものの、基本的にはアニメのストーリーに沿って話は進む。冒頭にあるアラジンの街での大立ち回りも同じなのだけど、アクションに躍動感があって、実写にする意味を感じられた。パルクールを取り入れたような動きもイマドキだった。アラジンはダンスも上手くて、運動神経抜群で良かった。

そして、あのウィル・スミスのジーニーの芸達者っぷり!今後、彼を見かけるたびに脳裏にジーニーが浮かびそうで、鑑賞に支障が出そうなレベルのインパクトだった。表情の面白さが半端無かった。

アクションの見せ場も足されていて、ランプを奪い合うシーンなど、観てて飽きない作りになっていた。

一方で、監督ガイ・リッチーの作家性はかなり感じづらかったが、展開のスムーズさやアクションの魅せ方の巧さに集約されていたのかもしれない。1か所だけ『ジャファーがランプを宮殿で使う』→『ランプを奪われたとアラジンが家で気づく』→『ジャファーが王になる』の流れを、何故かワンカットっぽいカメラのパンで繋ぐ独特の編集には、『スナッチ』等で見た作家性を感じた。

www.disney.co.jp
6/23

海獣の子供』(渡辺歩監督)を観た。

映画そのものが詩になっていた。『生命、海、宇宙が相似関係にある』という世界のワンダーを主人公の琉華以外は当然のこととして祝福していて、琉華も徐々にそう考えるようになっていく。その過程を詩としか言えない映像で表現する。登場人物の言葉は日常の中で発せられたと考えると不思議だが、ポエトリーリーディングだと思えば違和感が無かった。

アニメーションは動き方に歓びを感じるものだけど、この映画での動き方の凄まじさと言ったら無い。日常風景も1コマ単位でひたすら繊細な動きをしていて、目が離せない。表情豊かに動く水の面白さも凄い。後半の『ファンタジア』のようなブッとんだアニメーションも、観客に体験として爪痕を残そうとするような気迫を感じた。そのために、音響も相当気を使っていた。アニメーションの映像表現として、『スパイダー・バース』に勝ち得る可能性のある映画だと思った。

宮崎駿の感想も聞いてみたい。

www.kaijunokodomo.com
6/15

ゴジラ キングオブモンスターズ』(マイケル・ドハティ監督)を観た。

まず、監督とハリウッドに感謝。ツッコミどころや怪獣達の愛嬌も含めて、ちゃんとゴジラだった。音楽に顕著だったが、ゴジラシリーズへのリスペクトに溢れていて、びっくりした。ゴジラはともかくモスラの登場曲まであんなに堂々と使うとは…!ハリウッドが作ってて立派な映画だったけど、B級感は健在だったのが面白かった。ゴジラからB級感は消せないらしい。

一番驚いたのだけど、ラドンがこんなにカッコ良かったのは初めて見た。

芹沢博士は最期以外ほとんど傍観者で、なぜ怪獣を保護しておきたいのかわからないのが、平成ゴジラシリーズを思い出させた。MONARCHの無能さや不要さも同様だった。世界的な視点と個人的な視点の混同もそうだと思う。アレってセカイ系の走りだったのかな。

エマのあの意見って他の作品でもよく見かける気がするんだけど、何だっけなあ、とずっと引っかかっていた。エマの通信に挿入された映像には笑った。

怪獣達のバトルはものすごくカッコよく描けてるんだけど、主人公や人間に魅力が無くて観てるのがしんどい(主人公がびしょ濡れのシーンが多いのは面白い)。でも、3分に1回くらいの頻度で怪獣が出て全く飽きないように作ってあって、そこはハリウッドらしかった。キングギドラが十字架と一緒に咆哮するシーンとか、カッコよく描かれてた。

それと、これは仕方ないことだけど、吹替で見た結果、田中圭の声が主人公に合わな過ぎて残念だった。もう少し年配の太い声が良いと思う。単なるミスキャストであって、田中圭は悪くないが。木村佳乃芦田愛菜先生はさすが。

godzilla-movie.jp


6/9

『くすぐり』(デイビッド・ファリアー&ディラン・リーヴ監督)を観た。

以前、松江哲明氏が勧めていた頃から気になっていたが、ラジオ番組『アフター6ジャンクション』でも取り上げていたので、ようやく観てみた。

このドキュメンタリーで監督が戦っていた相手は、一貫して気味が悪い。観終わった今でも、あんな得体の知れない巨悪が存在するのか、と疑いの気持ちを少し持ってしまう。

その疑いの原因はカッコ良すぎる映像にも少しあるだろう。構図がカッコ良すぎる風景の頻繁な挿入が、ドラマ的に見えた。また、イメージ映像や再現映像の多用も同様だった。『フリントタウン』を観た時にも思ったけど、ドキュメンタリーは劇映画に近づいているのが主流なのかな?

映像は全体的に凝っていて、人をくすぐる映像をエロティックに見えるようにする工夫にも驚いた。画角を限定した撮影とスローモーションと音楽を使えば、十分にポルノ的になるのか。

この巨悪が存在している前提での感想を述べるなら、監督二人があらゆる脅しに屈せずに戦い続ける姿が凄く良かった。こういう人達がちゃんといることの頼もしさと、脅しにすぐに屈してしまいそうな情けない自分が、はっきりと認識できた。少しずつでいいから、自分も勇気を得て変わっていきたい。

www.netflix.com
6/1

シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』(アンソニー・ルッソ&トニー・ルッソ監督)を観た。

ようやく観られた。エンド・ゲームから遡っての復習の一環という感じ。

最大の見せ場はアベンジャーズ内での内輪揉めシーン。あんなに入り乱れてるのに、全員の能力をどれも魅力的に紹介した上で、戦況をわかりやすく描写していて素晴らしかった!何回も観直した。

その中でも、特筆すべきは、アントマンスパイダーマンアントマンのあの戦い方は、やはりアベンジャーズにも通じるんだという嬉しさと、あのホークアイとの協力プレイの面白さ!マスクを脱ぐとタダのおじさんという愛嬌がまた良い。スパイダーマンはあの可愛さ!少し甲高い声でたくさん喋る少年がちゃんと強いというギャップもまた良い。

全体的にアベンジャーズの存在意義を問い直すような重いテーマを物語の軸に置いているのに、展開はテンポよく進む。強大な敵を設定せずに飽きない展開を作っているのも、とても巧い。「アベンジャーズを国連の監視下に置くかどうか」で彼らは内輪揉めしていくわけだが、もう一つの重要な要素として『復讐の連鎖』がある。ソコヴィアで起きた悲劇(『エイジ・オブ・ウルトロン』)の被害者による復讐、父親を殺されたブラックパンサーによる復讐、両親を殺されたトニー・スタークによる復讐。どれも個人的な復讐・報復(revenge)が悲劇を拡大している。社会正義による復讐・報復(avenge)は存在し得るのだろうか。おそらく存在しない。なぜなら、世界に絶対的な正義が無い。MCUもそういう複雑な世界を描いていると決定的に宣言した、勇気ある作品だった。


5/10

『ヤング・ゼネレーション』(ピーター・イェーツ監督)を観た。

素晴らしい青春映画。CUTTERSの白Tの眩しさが忘れられない。

まず、冒頭のダラダラとした会話から、いきなり石切り場のプールに飛び込む一連のシークエンスからして、引き込まれた。石切り場の画の強さも凄いが、それに至る映像が常にバッチリかっこよく決まってる。

主人公のデイブの独特のキャラクターが良い。あの好きなものに打ち込む心の強さと、その心を持ったままの挫折。周りの友達も、みんな辛い目に遭っているそれぞれのエピソードがまたグッとくる。

そして、最後の大決戦。

主人公が最後の勝負に、お金でも恋愛でもなくプライドだけをかけているというのが、観ててたまらない気持ちになる。

あの時代に自転車をあれだけ追えていて、臨場感溢れる映像を作っているのも凄い。最後の長回しの緊張感も最高。『みんな本気でペダルを漕がないといけないけど、ラストシーンは決まっている』と言う難しそうな演技が、とても上手くいっている。

あの後、みんながどうなったのかはわからないけど、あの一瞬に賭けた力強さに心揺さぶられる。

 

5/6

マネーモンスター』(ジョディ・フォスター監督)を観た。

Netflixから奨められなければ観なかっただろう。ジョディ・フォスター監督で、ジョージ・クルーニージュリア・ロバーツが競演、という豪華さに釣られた。

何となくジョディ・フォスター政治的主張や社会への問題意識がしっかりあって、それを映画にするタイプだろうと予想してたけど、意外とエンターテインメント要素が強くてわかりやすく楽しめる映画になっていた。

どんなに世界の情報技術が発展しても、少数の人間が富を独占しようとすれば、世界が良くならないのは自明だろう。金持ちは儲けて、愚民は踊らされるだけなの?という問いかけがある展開を途中から期待していたが、そこまでの問題意識は感じなかった。

最後まで見て「金持ちの蛮行を許してはいけない」という当たり前の結論は見えた気がしたけど、愚民を踊らせる人間は無反省に見えた。これは社会への諦念なんだろうか。民衆が踊らされたがってるというのか。

途中から既視感のある映画に思えて調べたところ、自分が『マッドシティ』という映画を思い出していたとわかった。立てこもり犯とTVが共犯関係を結ぶあたりでの連想だったのかもしれない。最終的に被写体がコンテンツ消費されるような後味からは『トゥルーマン・ショー』も感じた。

このTVショー司会役のジョージ・クルーニーは、めちゃくちゃハマり役でよかった。あの腰の動きの滑稽さ。ジュリア・ロバーツの聡明さも時代に合っているとは思う。

 

5/2

『メッセージ』(ドゥニ・ヴィルヌーブ監督)を観た。

美しい映画だったに違いない。音質も画質も残念な環境で見てしまい、かなり後悔した。Blu-rayとか買っても良いかも(特に場面ごとに盛り上がる音響が凄そうだった)。

最初、主人公の抱えている過去が提示されているのかと思って観ていたが、それは安易過ぎた。俺は謎を謎だとも認識できていなかった。物語の核となる謎の説明と、世界存亡を賭けたスリリングな展開を、完璧に同時に提示するのが凄い。美しい思い出が、そのまま未来に繋がるという映像の作り方には驚愕した。時間芸術と言われる映画への挑戦でもあるだろう。やはり時間が直線的に進むというのは、産業革命以降の西洋思想に過ぎない。

主人公の全てを受け入れて進もうとする強い意志が、とても気高く美しかった。

きっと原作はなかなか映像化が難しい作品なのでは、と想像している。宇宙生命体による影響の描き方は今まで観たことがない斬新なアイディアだった。小説での表現を確認してみたい。

 

5/1

ニンジャバットマン』(水崎純平監督)を観た。

手書きとCGをうまく混ぜて迫力あるアクションを表現する手法から、最近の日本で作られている作品らしい印象を受けた(『進撃の巨人』などを想起した)。アクションは面白いシーンも多かった。

途中のジョーカーとハーレクインが農作業してるシーンはかなり湯浅政明っぽかったけど、クレジットがあるのかどうかはよくわからなかった。

あのいかにも日本的な合体ロボ展開は、突き抜けていてギャグとしても良かった。

ストーリーライン自体は王道だった。突飛過ぎないように、見やすくするための配慮なのだろう。

企画は新しいはずなのに、映像として『スパイダーバース』ほどの斬新さを感じなかったのは、日本のアニメを見慣れてるせいだろうか。


4/29

アベンジャーズ/エンドゲーム』(アンソニー・ルッソ&トニー・ルッソ監督)を観た。

気持ち良く終わらせてくれて、ありがとう!劇場で観て良かった。

いろんな監督がいろんなキャラクターを描いてるのを、よくぞあんな風にまとめ上げた。MCUはこの二人の監督がいなければうまくいかなかったに違いない。

全部観てたら、もっと感慨深かっただろう。もっと追えていたら…と後悔すらした。今までの作品を振り返るような展開の作り方も、見事としか言いようがない。ああ、全部観て確認してたい。

物語として素晴らしいと思ったのは、過ぎてしまった時間を受け入れながら、より良き世界を目指すところだった。もしくは、敗北を受け入れた上で復讐(アベンジ)を目論むところ、というか。ご都合主義的に時空を改変するような流れしか想像出来てなかったので、その点は素直に驚いた。やはり制作者達は人類の力を信じている。

MCU全体としても、円環が閉じるような終わり方をしているところも良かった。

アイアンマンとスパイダーマンの擬似父子的な関係性は、前作からより強調されていて思わず泣きそうになった。

ラストシーンにはちょっとタイムパラドックスを感じたけど、まあ、あそこを清算したかったんなら仕方ないのか。


4/28

アントマン』(ペイトン・リード監督)を観た。

想像してたより凄く良かった。

犯罪者に堕ちてしまいそうなかなり普通の人に近いおじさんが、ヒーローとして人生を再起するまでの成長物語として、わかりやすく面白く描かれていた。

小さくなる能力だけでヒーローが成り立つっていうのが想像できてなかったけど、戦闘シーンを観れば、ちゃんと能力を活かした斬新な戦い方がカッコよく描かれていた。ミクロの戦闘と肉眼での体感をギャグ的に見せるのも上手かった。

ミッション・インポッシブルを意識した潜入シーンもちゃんと緊張感があって面白かった。3バカトリオがシリアスを乱すギャグはかなり重要だった。

父と娘をキーワードにした人間関係の作り方も良くて、それのおかげで物語全体を見通して展開が本筋からズレないようになっていた。


4/27

アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』(アンソニー・ルッソ&トニー・ルッソ監督)を観た。

うおー。アガった!

これまでMCUの良い客では無かった俺でも、ヒーローたちのファーストコンタクトや協力バトルには、漏れなくグッときた。特にサノスVSアイアンマン他の戦いが良かった。ドクターストレンジのサポートが良い。今まで何本くらい観たのだろう。この映画を観てると、他のもちゃんと観てみようと思えた。みんながどうやってヒーローになったのかに興味が湧いてくる。

いろんなネタバレをうっすら聞いたり、ある場面を少しだけ見たりしてたのは残念だった。純粋にこの衝撃を受けたかった。

今までのアベンジャーでさえスケールが地球規模で大きくなり過ぎてた気がしてたのに、今回は全宇宙規模になっていて、ついていけるのか心配していたが、めちゃくちゃわかりやすくストーリーが進行するので感心した。監督のまとめ力凄い。惑星を行き来するところは、スターウォーズに似ていた。

あのサノスのキャラクターも良い。あの変な孤独感を抱えながら、まっすぐ狂気を推し進める悲壮な姿には魅了された。

そして、葬式のようなあのラスト。いやー、エンドゲーム見たくなるでしょう。逆転してもらいたくなる。


4/12

スパルタンX』(サモ・ハン・キンポー監督)を観た。

素晴らしきカンフーバカ映画。悲哀はゼロで、ずっと笑いとアクションをやってた。

ジャッキー・チェンのアイドル性は凄い。ベビーフェイスなのにムキムキでとんでもない動きをする。表情も豊かだ。サモ・ハン・キンポーのコメディアンとしての能力にも驚く。あの体格であれだけ動けるということ自体がギャグになっている。表情も常に面白い。急カーブで無駄に車から落ちたシーンにはかなり驚いたのだけど、その後、普通に家にいたから、そのシーンの無意味さに爆笑した。そして、監督が彼自身であることにも笑った。作品全体のギャグは吉本新喜劇を連想するようなベタさだった。これなら万国共通で笑えるのかもしれない。

この映画で最初に気づいた面白いことは、スペイン人も含めてみんな広東語を喋ってたことだ。違和感凄すぎ。これで公開したんだろうか。「考えてみりゃ、スターウォーズだってみんな英語話してるの変だもんな」っていう違和感を久々に思い出した。

しかし、何と言っても体張りまくりのカンフーが素晴らしい。まずは、アクションの多彩さとそのキレの良さ。スケボーを使った食事サービス、走るバイクへの飛び蹴り、フェンシングなど、見ててまるで飽きない。危険を省みない命がけのアクションの連発にも驚く。車はとんでもない転がり方をするし、みんな平気でどんどん高所に上っていくし、前方に身体ごと飛び込む動きは最早普通だった。

ストーリーを追うと、わけわかんない場面転換があったり、省略し過ぎな編集があったりするのだけど、それも愛嬌に思える愛らしさがあった。特に、サモハン演じるモビーがトーマスやデビッドと知り合いであるという展開に驚いた。その事実は3人が会うシーンで初めてわかるのだけど、事前にそういう話をしてほしい!

スハ?ルタンX [Blu-ray]

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4/5

『アラジン』(ジョン・マスカー&ロン・クレメンツ監督)を久々に観た。

アラブ世界を舞台にしてはいるが、思った以上にアメリカナイズされた映画だった。

ハリウッド的アクションと、男女逆転したシンデレラストーリーを詰め込んだ当時のディズニーの王道。この恋愛至上主義は、この時期のハリウッドでは頻発してた気がする。アクションでもサスペンスでも恋愛成就をゴールにしていくようなストーリーが多かったかも。現代の日本でもその部分を踏襲した『海猿』とか『コード・ブルー』とかあるけど。

そんな中、スタンダップコメディ的に突入してくるジーニーが、過激に物語にアクセントを加えていた。彼がいなければ観てられなかった。

当時わかっていなかったけど、トラの顔の洞窟とかでCGを多用していたことに改めて驚いた。

魔法のじゅうたんの飛翔シーンは、『ピーターパン』と比べると視点の演出やスピード感の魅せ方などで、かなり進歩していた。

また、魔法のじゅうたんは相当飛ぶのが早いらしいと初めて気がついた。短時間に中国まで行っているのはギャグ的でもあるけど、当時の知識の無さでは気づけなかった。

全体的に、ハリウッドの実写映画の影響を受けていたように感じた。

 

3/30

『スパイダー・バース』(ボブ・ペルシケッティ&ピーター・ラムジー&ロドニー・ロスマン監督)を観た。

まだまだ見たことない映像って作れるんだな、といたく感動した。後世に語り継がれる偉業。手書きとCGを織り交ぜているらしいとは聞いていたが、あの映像の作り方は全くわからなかった。ブルーレイ出たらメイキングを見たい。フルアニメーションにリミテッドアニメーション混ぜてるとか半端ない。

吹替にして良かった。妻に言われて納得したが、字幕に割く情報量が勿体無い。見たことない映像が怒涛の量で迫り来るのに、見づらくないというのも素晴らしい(これも妻が言っていて納得したが、『仮面ライダービルド』の映画のクライマックスシーンと比較してもそれは明らかだった)。アクションシーンは実写映画の動きを参照した上でアニメらしく作り変えている感じがした。

そして、興味を持続できる映像になっているのも凄い。それは映像の作り方だけでなく、脚本の力に依るところも大きい。とっ散らかってしまいそうな何でもありの設定を持ってきているのに、上手にマイルスの成長をメインとしたストーリーに集約しているのが凄い。その上で、ハリウッド的な伏線回収もバッチリやっていく。

キャラクターが魅力的に描かれているのは、監督の演出の力でもあるだろう。コミックで説明するやり方もすごく巧い発明だった。スパイダーマン達のキャラを魅力的に描きつつ被らないようにしているのも気が利いている。スパイダーマン特有のおしゃべりなギャグもちゃんと笑える。

マイルスの黒いスパイダーマンは完全に新しいスパイダーマン像を確立していた。

何度も見返したくなる傑作。 

 

3/15

ミツバチのささやき』(ビクトル・エリセ監督)を観た。

2〜3回目のトライでようやく最後まで観られた。真っ暗な状況作って集中力高めなきゃ観てられなかった。

所謂古き良きヨーロッパの映画という感じだった。想像してたより暗い映画に思えたのは、戦争の影響が見え隠れしていたからだろうか。スペインの農村の雄大な景色は、美しいけれど、『荒涼』という言葉が似合う寂しさだった。時折流れる素朴な音楽には、海外に来たような旅情を感じた。

イサベルの行動も、無垢で無表情なアナも、終始不穏さを醸し出していた。戦争のメタファーやアナロジーが埋め込まれている空気は感じた。

アナは美しい子供だった。フランケンシュタインの怪物でさえも傷つけるのを躊躇うイノセンス。その美しさに説得力があった。

また、観たばかりだからかもしれないけれど、作品の雰囲気が『ROMA』に似ている気がしていた。スペイン語圏だからだろうか?家の作りや子供たちの生活環境も似ていた気がした。

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3/13

アトランタ』(第1シーズン)を観始めた。

www.netflix.com

 

3/8

『SING』(ガース・ジェンニングス監督)を観た。

とにかく力技の脚本で、超テンポよくハッピーエンドに向かうファミリー向け映画。歌の力を信じる(ことで問題が解決する)というテーマから、『天使にラブソングを』シリーズなども思い浮かぶ。そのため、ずっと音楽が鳴っているが、それはちゃんと映像に合っていたし、吹替でも歌はバッチリだった。

バスター・ムーンを一応の主人公には設定しているが、世間一般からは少し外れている沢山の動物達の群像劇になっている。それぞれが全く違う悩みを抱えながら、同じタイミングでピンチに陥って、同じタイミングで復活するようになっている脚本の設計が素晴らしい。しかし、その反動として、バスター・ムーンの人物造形が、反社会的に見えるくらいに好人物から逸脱してしているのは気になった。脚本にキャラクターが従属してしまっている。

映像も面白くて、ディズニーやピクサーやドリームワークスとかのフルCGアニメと違うなと思ったのは、実写で使う映像手法を多用している点だった。具体的に言えば、歌っているキャラクターの口元に寄る映像や、タイムラプス的な映像は、フルCGアニメでは初めて見た気がする。

水の表現なども実写っぽくて、自然現象に関しては、リアル路線のようだ。

同時に、フルCGアニメならではの、実写では不可能なカメラワークもうまく使っていた。冒頭のカメラの高速移動は話のテンポをよくしていたし、カメラでは撮影不可能な位置で動かす映像には迫力があった。

次は字幕で観るのも良いな。

 

2/1〜3/4

『グッド・ワイフ』(第1シーズン)を観終わった。

古き良き海外ドラマの系譜だった。ER以降Netflix以前という時期を感じさせられた。

基本的には1話完結になっているが、検察、判事、刑事、FBI、依頼人などが何回も登場することがあるし、ピーターの裁判というメインストーリーも進めていく。

基本的には登場人物がみんな魅力的に描かれていて、ちゃんとそのキャラクターが動くことで物語が動く。アリシアの強さはずっとカッコイイし、ケイリーの軽薄な小狡さは意外とチャーミングになるし、低い声で笑うダイアンはどんどん人間くさくなっていく。でも、やっぱりダントツ飛び抜けてるのは、カリンダのクールな有能さだろう。もはやギャグ的ですらある。インド系という珍しいルーツも良いし、自分を語らない強さはいつもカッコいい。

多様性や性差別への眼差しはオンエア時には早かったんだろうが、今の時代にはよくフィットしている。

常に先が気になる作り方が大変上手くて、沼に引きずり込まれかけている。

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3/1

シコふんじゃった。』(周防正行監督)を観た。

メインストーリーはベタなのだけど(『柔道部物語』を連想した)、変わった演出をしているシーンが多々あって、不思議な魅力のある映画だと思った。

具体的に言えば、迫力のある撮り方と編集ができそうな相撲のシーンを、盛り上げたり溜めたりせずに終わらせていたり、緊迫した立ち合いのシーンにそぐわないクラシックのような呑気な(もしくは優雅な)楽曲をかけたりする。立ち合い自体は、息遣いなど含めてリアルには描いている。きっとテレビドラマなら、勝敗が決する瞬間はスローモーションと皆の表情を捉えたカットを交えて編集すると思う。よくよく考えれば、それはダサいのだけど。

他には、バストアップの画角で正面から撮って台詞だけ言わせて3〜4人に交互に喋らせるシーンが急にあって、何だこれと思ってたんだけど、あれは小津安二郎的な演出なのかもしれない。

竹中直人は若い頃から竹中直人だった。演技経験の浅そうな人が多くて、正子と春雄の棒読みにはビックリすることがあった。本木雅弘もまだ演技に迫力が無かった。

相撲という旧態依然とした体質の世界で、性別や国籍を問わない多様性を訴えるエピソードが盛り込まれているのは、先見の明と言えるのかもしれない。正子のエピソードは、「これが一番描きたかったのでは…?」と思えるほど丁寧な演出をしていた。ライバルとして用意していた相手を倒した後にもう一試合あって首を傾げたのだけど、この部分を描くためだったのではないだろうか(『SLUM DUNK』の陵南戦終わった後のインターハイを思い出した)。

田中の決断も、主人公の最後の決断も、成長をしっかり描いていて、グッとくる。

 

2/23

『ROMA』(アルフォンソ・キュアロン監督)をNetflixで観た。

贅沢な時間の使い方を予感させるオープニングに始まり、その予感通りに2時間続く豊かな映像は、どのシーンで停止しても、写真として額に入れられそうな美しさだった。

脚本自体は地味というか小さい感じだが、映像の美しさでずっと見ていられた。強く生きる女性の悲しい美しさ。どんな出来事があっても、主人公の感情を抑えた表情がグッとくる。

メキシコの「カラフル」で「明るい」イメージは先入観だったと気づいた。それへのアンチテーゼでもあったのかもしれない。

出来事を綺麗に追う長回し、カメラと被写体の間に重層的に入り込むもの、不穏な予兆や予感を伝える象徴的な映像。撮影と演出が素晴らしい。

また、モノクロ映画は色情報が無い分、集中を強いる気がするのだけど、この超精細なデジタルでのモノクロ映像はとんでもない情報量で、今まで見たことないものだった。

観終わってからメインビジュアル見直して、神話的な絵画のようだ、と気づいた。

この脚本でモノクロ映画のこの企画を映画化させてくれるNetflixはやっぱり凄い。内容も、監督が撮影してるのも含めて、お金のかかったインディーズ映画だった。

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2/22

『センター・オブ・ジ・アース』(エリック・ブレウィグ監督)を観た。

圧倒的なアトラクション感に爆笑。ジェットコースターを体感するような映像や、タイミングよく現れる船などにそれを感じた。

調べてみたら、初めて本格的に3D上映に取り組んだ作品で、監督も『キャプテンE.O.』『ミクロアドベンチャー』を作った人だったと知って、ああ、これはあの3Dアトラクションを長編にしただけだと大変納得した。どおりで画面に向かってくるものが多いと思った。志向しているものが違う。

脚本も大変駆け足で、3人の登場人物に関係性らしきものがあるような前提で、アトラクション映像をご都合主義的な展開で繋いでいくだけの作りだが、まあ、これも90分に収めるには仕方ないのだろう。

何度もとんでもない事態に遭うのに悲壮感が無いので、ファミリームービーになっている。しかし、あの飛翔シーンはいくらなんでもやり過ぎでは。めちゃくちゃ爆笑した。

息子がいなければ見なかったと思うと、感慨深くもある。

センター・オブ・ジ・アース [Blu-ray]

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2/16

『ブレンダンとケルズの秘密』(トム・ムーア&ノラ・トゥーミー監督)を観た。

久々にTSUTAYAでジャケ借りした作品。

始まってすぐに、『パワーパフガールズ』や『サムライジャック』を思い出した。キャラクターデザインや動き方がよく似ていた。あの独特の輪郭線とデフォルメ。しかし、それと対比するように、背景が有機的とでも言うような、美しく気持ち良い動き方をしていた。詳しく見たことがないが、おそらく『ケルズの書』の世界観をうまく表現していそうだった。それは、ミュシャの描く背景に似ているようだ、とずっと思いながら観た。

途中でかかるギターの音が美しい音楽は、作品の雰囲気にとても合っていた。オーガニックで土着感たっぷり。

バイキングの描き方が徹底して残虐で、人外の不穏さを醸し出していたのも良かった。

ストーリーはちょっとドラマ性が物足りない感じがした。何か元になる史実があったりするのだろうか。クロム・クルアハとの対決で、無理矢理見せ場っぽいシーンを作っていたが、その後のバイキング襲来からは為す術もなく皆がやられるだけで、観ていて辛かった。院長が頑なに砦を作ろうとした理由も、最終的に謝罪した理由も、ケルズの書の必要性も、あまりわからなかった。

ブレンダンとケルズの秘密 【Blu-ray】

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2/10

少林サッカー』(チャウ・シンチー監督)を久々に観た。

CGがうまく使ってあるんだと思うけど、カンフーアクションはどこまでCGかわからないシーンもあった。あれは日本の特撮にも影響与えてそう。海外の人が思うカンフーを理解して、パロディとして批評的に使っていた。ギャグとしての馬鹿げたアクションもかなり笑える。

カメラワークも自由で、スクリューするように右に左に傾けるのも、片目への超ズームインも、大袈裟な表現として作品に合ってて上手い。

メインストーリーがわかりやすいからかもしれないけど、主観の移り方とかで無理をしていて独特だった。監督主観で始まったのが、いつの間にかシンがメインにスイッチするのとかちょっと不思議。普通にシンから始めて監督の話を挿入するのが王道の語り方だと思う。フェイントとかギャグなのかな。

そして、あのダンスシーンは今見てもわけわからな過ぎて爆笑。そこも主観を無駄に変えてて、その躊躇の無さが良い。

でも、やっぱり一番は兄弟弟子が全員覚醒するシーン。『鉄の頭』のあの映像から始めるのが最高!

馬鹿すぎる試合シーン見て『テニスの王子様』思い出してたけど、そうか、あれは『キャプテン翼』だな。ウィキペディア見て納得した。

小ボケがしつこく繰り返されたり、音楽も使った壮大なフリがあったりするのは、この監督特有なんだろうか。そのせいで、少し疲れて長く感じる。

それにしても、あの曲は強い。

 

2/2

『ウォーリー』(アンドリュー・スタントン監督)を観た。

上映されていた頃、無理にでも感動させようとするCMを見て敬遠してたけど、超傑作SFだった!

荒唐無稽に感じられる設定なのに、その設定の細部まで徹底的に突き詰めていて、破綻しないようにうまく作り込まれていた。この脚本は集合知で作ってるんじゃないだろうか。集団で何度もチェックしてる感じがする。伏線の張り方とその回収の仕方もやたらと上手い。

ロボット同士の感情の交感を美しく際立たせるために、最高の舞台としてのディストピア世界を徹底的に作り上げていた。

ディストピアなんだけど、キャラクターやロボット達のデザインがかわいいので、子供も観てられる。

ウォーリーのキャラクターがとにかく愛着が持てるように作ってある。あのとぼけたようなレトロな造形や、プログラムを遂行する健気さ、童貞っぽさすらある純情さ、親しみを持ちやすいmacの起動音。そして、ウォーリーの子孫にあたるであろうロボットのイブのあの洗練されたデザインは、アップル製品が進化の末に作り出した感じが面白い。

メインのストーリーラインは、ウォーリーとイブの恋愛に似た交流にあるんだけど、そのサブプロットとしてウォーリーが周囲に与える影響も観てて楽しい。落ちこぼれ達の奮起、人間達の再起。普遍的なテーマをSFでやっている。

宇宙遊泳ダンスのシーンは信じられないくらい美しい。

「このハッピーエンドはちょっとみんな楽観的過ぎない?」って感じてた不満を解消する映像の魅せ方と、そこから歴史が作られていくエンドロールのスマートさには感服した。

ウォーリーが大奮闘しているシーンで、3歳の息子が「ウォーリーがんばれー!」と叫んだ。字幕で観ていた。殆ど言葉がわからなくても伝わる映像になっているんだ。

 
1/26

紅の豚』(宮崎駿監督)を久々に観た。

初めて観たのは小学生の頃だったと思う。当時は、ナウシカラピュタやトトロと比べてわかりやすい冒険要素がないのが不満で、地味な映画だと切り捨てていたようだ。

しかし、改めて見直してみると、実に無駄無くテンポ良く進むストーリーの中で、大人には楽しめる程度に、言葉にしない微細な感情のやり取りが描かれていた。主に空を飛ぶことへのロマンと男のダンディズムがそこにはあるのだけれど、その表現はマチズモに陥るのを避けている。そのための工夫として、フィオや飛行機を作る女性達の活躍と、ポルコが豚であるということ自体のユーモアとチャーミングさがある。

ポルコはカッコいい。が、カッコよければカッコいいほど可笑しい。そんな二重の評価を同時に持たれるというだけで、豚がモテるのもわかる。

ポルコが豚になった経緯の説明がほぼ無いのも、子どもだった俺には不満だったが、今はこのマジックリアリズム的な手法にも面白さを感じられる。戦争との距離もうまく取っている。

ジブリらしいフルアニメーションの映像も素晴らしい。動いていない部分がない。ずっと動いている。

太陽が明るいイタリアの空と海も、ずっと美しい。夕暮れ時の空と雲も綺麗な色だった。

空を飛ぶシーンも最高だ。どうやって空を飛ぶシーンを創造したのだろう。きっと飛ぶ時に映像を撮ってもあんな風には見えない。資料にはならないと思う。まさにイマジネーションの産物ではないだろうか。

そして、この企画のスポンサーに日本航空が入っているのも面白い。世界恐慌の時期に飛行艇で飛び回っていた豚の物語に。ちゃんと説明したのだろうか。

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1/19

駅馬車』(ジョン・フォード監督)を観た。

こんなに古い白黒映画を久々に観た。最初は集中できなくて、登場人物も展開も全く頭に入って来なかった。しかし、徐々に映像に慣れてくると、めちゃくちゃ面白いとわかってきた。

登場人物がみんな個性豊かで、ちゃんと彼らの言動と関係性がドラマを動かすし、展開も多くて見ていて飽きない。

ロードムービー的要素、アクション要素、ラブロマンス的要素などが、無理なくバッチリ詰まった超娯楽大作だった。

特にインディアンの襲撃シーンは圧巻だった。馬に飛び乗るシーンも馬からずり落ちるシーンも衝撃的だった!映像も凝っていて、馬車から撮った映像や、地面に埋めて撮ってるシーンがあって驚いた。あの時代に、この撮影は斬新だったに違いない。

インディアンの表現や女性を扱うシーン以外は、全く古びていない。むしろ、その後の映画に通じるエッセンスがたくさん詰まっていて、2019年に観ても鑑賞に耐え得る大傑作だった。

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1/15

わたしは、ダニエル・ブレイク』(ケン・ローチ監督)を観た。

今イギリスに住んでいる人々の辛い状況と、それに対する政府や役所の対応の酷さを、大声で告発している映画だった。そのメッセージの強さは、頭を殴られたような衝撃だった。

物語は終始淡々と進む。この印象は、派手に動かないカメラと、ずっと一定に見えるワンカットの長さから受けるのかもしれない。長回しもテンポの速い編集も無い。最近珍しいこともあって、その誤魔化さない映像の魅せ方は逆に目を惹く。

主役のダニエル・ブレイクの生活がリアルに丁寧に描かれていく。裕福ではないが、慎ましく健やかに生きていたようだった。

政府からの給付が滞るダニエルと、シングルマザーのケイティの生活は極貧に向かっていく。特に、ケイティが気力を失っていく様子はショッキングだ。そんな中で、助け合う人々の姿はその分感動的だけど、この事態は政府が救うべきじゃないのか。

極貧になっても、服装や内装からは日本的な貧相さが感じられない。類似性が指摘される『万引き家族』を思い出すと、それは明らかだった。むしろ、シャツとセーターの合わせ方とかオシャレだ。それは文化の違いで済ませる問題ではなく、彼が人間としての尊厳を大事にしていたからだと最後まで観るとわかる。

寝室税とか本当に驚いた。でも、日本も似たような方向に向かってて、暗澹たる気持ちになる。

途中、ダニエル・ブレイクに皆が喝采を送ったように、見事な告発を遂げた監督に喝采を送りたい。

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1/13

『ピーター・パン』(ウィルフレッド・ジャクソン&ハミルトン・ラスク&クライド・ジェロミニ監督)を観た。

2019年に見ると、インディアンに対する人種差別的表現も、ウェンディに対する男尊女卑的な扱いも、なかなか強烈だった。

ピーター・パンを通して、『少年』という存在の邪悪さが際立っていた。原作のテイストからだいぶ削ぎ落としたのだろうが、これ作った人達は子どもを好きそうに思えなかった。

間抜けなフックが憎たらしいピーター・パンにやられるシーンのあの滑稽な残酷描写は、『ホーム・アローン』に繋がっていると思った。

しかし、全編通して映像に隙間が無い。ずっと何かが起きている。何かが動いている。アクション、会話、ギャグのハイテンポな連打。目が離せなかった。

そして、冒頭の飛翔シーンは、イマジネーションがまっすぐに体現されている最大の見せ場だろう。それは宮崎駿作品に繋がっていそうだった。「You can fly!」と連呼される音楽の中で子供達が飛び回るシーンは圧倒的過ぎて、もう笑うしかなかった。 

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1/12

ミッション:インポッシブル』(ブライアン・デ・パルマ監督)を久々に観た。

こんなにクラシックな映画って感じだったっけ…。冒頭のプラハの場面とか、霧立ち込める街で起きるミステリーっていう感じで驚いた。スローモーションで水が押し寄せるシーンも、妙に幻想的で重厚さがあった。

パソコン系のテクノロジーは2019年に見ると時代を感じてしまう。

シリーズの他の作品に繋がっているのは、不可能に思えるミッションをギリギリでクリアする部分と、無茶なアクションだった。ラストシーンの賭けでしかないアクションには笑った。

スリードの多用と根拠が微妙な犯人推理のシーンは、この脚本でいいのかなー、という感じだった。

一番驚いたのは、昔観た時は重要な役の印象だったジャン・レノが結構ミスをする極めてダメなヤツだったこと。

 

1/2

仮面ライダー平成ジェネレーションズFOREVER』(山口恭平監督)を観た。

お祭り映画!

一番の見どころは美味しい場面で登場する佐藤健a.k.a 良太郎。俺もオダギリジョー要潤水嶋ヒロ菅田将暉瀬戸康史福士蒼汰竹内涼真がライダーだったこと忘れないよ!出し方もうまかったし、メッセージも良かった。他のライダーは少しずつ特徴を触る感じ。時間の都合だろう。それでも、上映時間長過ぎだと思うけど。

平成ライダーズが暴走族のごとくバイクで走り回る姿には笑ってしまった。

仮面ライダーが虚構として存在するというメタ構造を取り込んだこと自体は面白いが、あんまり上手くやれてない感じはあった。更に、ジオウ自体がかなり無茶なタイムパラドックス抱えてそうな(頭痛くなるのでちゃんと検証はしていない)ところに、電王まで時空を突っついちゃうのでストーリーはぐっちゃぐちゃになってた。そして、CGだけで展開される戦いはゲームムービー見てるのと変わらないので、やっぱり良くない。特撮は身体性にこそ緊張感があると思う。

 

2019年前半に読んだ本の記録

「いろんな国の本を読む」という目標は引き続きあるけれど、「女性作家の本をもっと読む」という目標も新たに追加された。

それは、昨今の世界的な流れに影響されて、というのもあるのかもしれないが、自分に潜んでいるミソジニーやマチズモを恐れているから増えた。それは長い時間をかけて醸成されてしまっていて、自分でも気づけないレベルで存在している。俺が育った地方都市の社会では、女性が専業主婦になるのが一般的で、家事育児の担当は女性、という感じだった。

しかし、その感覚は一般的では無いし、むしろ、一般的であるべきではない。地方都市にあった家を出て、首都圏にある大学に入り、東京で勤めて、結婚して、子どもができた現在、やはりその感覚が正しくないと実感した。女性にだけ生き方の選択権を狭めるような抑圧があるのは、間違っている。おそらく自分が抑圧される立場に無かったので、ある時期まで俺は無関心だった。それまでの俺は間違っていだと思うし、恥じている。

上記のことについてはこれからも悩んでいくだろう。

更に読む本の条件で言うと、今まで無意識に考えていたが「いろんな時代・いろんなジャンルの本を読む」という目標も明確化されつつある。

そんな風に、ルールで自分を縛るのが好きな俺が、2019年の前半に読んだ本は以下の通り。

多分、ネタバレはしている。注意。

 


6/29

『IQ』(作:ジョー・イデ/訳:熊谷千寿)を読み始めた。

まだ読んでる途中だけど、Netflixでドラマ化お願いします。

IQ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

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6/15〜6/28

『アヘン王国潜入記』(高野秀行)、読了。

ようやく読めた高野秀行を象徴する一冊。『アヘンの種まきから刈り取りまでを体験する』という前代未聞の挑戦の記録。「現代での探検はかくも手探りになるのか…」という四苦八苦が、最近読んだ『謎の独立国家ソマリランド』に比べて多めな気がする。こちらが著者の初期の作品だからだろう。

読み始める前から、「この挑戦って法的にはどうなんだろう」という点が気になっていた。読んでいくと、著者はアヘンを使用もしていたので、余計に疑問を覚えた。どう考えればいいのだろうか?日本の法律に照らして?現地の法律に照らして?国際法に照らして?

別に著者を責めたいわけではない。むしろ、尊敬もしているし、応援もしたい。ただ、法的にはアウトのように見えるのに堂々と挑戦してるし、読んでみても、この一連の行為にあまりに躊躇いが無かったので、何かの法には引っかからないのだろうか、と単純に心配になった。ワ州を出てから、ようやくその部分も描写はあるが、やはり法的にも倫理的にも良くないようだった。

しかし、その「社会的に良くない」とされることを平然とやっている人がいる地域があり、そこがワ州で、この逡巡の無さは現地に著者がどっぷり浸かった証拠とも言えそうだった。

本書の見所は沢山あるが、まずは、世界の政治経済的観点から見て、ワ州という地域を学ぶこと自体が面白い。『ビルマと呼ぶか、ミャンマーと呼ぶか』問題や、中国との微妙な関係など、この地域の抱える問題の難しさを自分は全く知らなかった。また、その難しさが、著者がワ州の村に滞在することの難しさに直結する。その様子から、国家やそれに付随する政治経済が社会を形成しているというのを、存分に実感できた。

その理解が進んだ上で始まるワ州の村での生活もめちゃくちゃ面白い。外国から入り込んできた準共産制らしき仕組と、伝統的な文化の融合の中で生きている村人は、完全な異文化の人間だが、全くわからないわけでもない。やはり人間は人間だった。その生活を追っていくと、アヘンの歴史や作り方の理解も進む。

そして、何と言っても面白いのが、著者本人のリアルな重みのある体験談だろう。アヘンという植物、ワ州の人々の穏やかさ、アヘンを使った人の様子を見て描写する言葉に感心し、笑ってしまう。やはりこれは高野秀行にしか書けない本だ。中でも、著者のアヘン体験は凄まじい。『欲望の器が減る』という表現に宿るリアリティには深く感心した。なるほど、成長を求める社会がアヘンを禁止するのは納得できた。

まだまだこれからも高野秀行の探検記を期待している。

アヘン王国潜入記 (集英社文庫)

アヘン王国潜入記 (集英社文庫)

 

 
6/10〜6/15

『女たちのテロル』(ブレイディみかこ)、読了。

生まれた時代のせいか、あまり読んだことがないが、これはおそらく檄文というヤツだろう。女性たちよ、虐げられている人々よ、蜂起せよ、とアジってる。読めば自然と高揚させられる。前のめりで読み終えた。著者からはイギリス由来の強いパンク精神を感じた。

大逆事件イースター蜂起も、何かの授業で名前だけは知っていたが、恥ずかしながらその意味も詳細もわかっていなかった。だから、当然、金子文子も、エミリー・デイヴィソンも、マーガレット・スキニダーも、全く知らなかった。3人とも戦いの絶えない激しい人生を送っている。3者の生き方をリンクさせて語りながらも、メインは金子文子の人生についてで、彼女の生き方には鬼気迫るものがあり、著者はその凄まじさを存分に描き切っていた。

人を下に見るのが悪だとは子どもの頃から学んでいたが、上に立つ人間がいるから下に人間ができる、という思想は自分には無かった。彼女の壮絶な人生を見てきた後には、『人間は絶対的に一個体で生きるべきだ』という権威も体制も超越した悟りに、重大な説得力が宿っている。最初からずっと思っていたが、歴史上の人物を2019年からの言葉で語り尽くすやり方は、古川日出男を連想させた。文体にも近しいものがあった。

全体を通して放出され続ける、普通の小説ではあまり見ないような、喋り言葉っぽいブロークンな言葉には、地べたから生み出されたような強さがあった。

女たちのテロル

女たちのテロル

 

 
6/1〜6/7

『憂鬱たち』(金原ひとみ)、読了。

読み始めていきなりの官能小説のような場面描写にクラっときた。『クリトリス』という単語を鋭くストレートに使っていて、衝撃的だった。エロい。

憂鬱がもたらす誇大妄想や被害妄想と、過剰に暴走した自意識に苛まれて、狂いそうになりがら、もしくは、狂いながら、どうにか生きてる女性が主人公の短編集。同一人物なのかはわからないけれど、カイズという中年男性とウツイという若い男がいろんな役で毎回現れるし、主人公はいつも精神科の病院に行けない、というのが各短編に共通している。

小説自体が妄想の産物と言われればその通りなのだけど、物語全てが主人公の妄想であると思わせるような小説っていうのは読んだことがあっただろうか?夢だと認識できる夢(明晰夢)のような?

この思考をつらつらと書き連ねるような文体は、保坂和志とか前田司郎でも似た形式を読んだことがあったけど、ここまで砕けた喋り言葉を軽快なリズムに乗せて書いてあるのは記憶に無い。のめり込むようにして読める。1Pの中に大量に『憂鬱』と書いてある場面もなかなか壮観だった。

カイズさんから菊池成孔氏を連想してしまうのは、最後に彼の解説が書いてあるからだろうか。ラジオでやっていたコントもこの小説の世界観に近い気がした。

このエネルギッシュな憂鬱には終始圧倒される。躁と鬱はそんなに違わないみたい。

人の憂鬱は笑っていいのだろうか?

憂鬱たち (文春文庫)

憂鬱たち (文春文庫)

 

 
5/28〜6/1

ジーザス・サン』(作:デニス・ジョンソン/訳:柴田元幸)、読了。

強烈な言葉とイメージが、同時に頭の中に飛び込んでくる。パッと火がついたような興奮が起きては消える。

最初、しっかりとした筋があるのかと思って読み進めていたが、途中で読んでいる内容がわからなくなる時間が訪れる。いつ?どこ?なぜ?だれ?なにこれ?と何らかの疑問で混乱する。

前に読んでいた本で、タイトルは思い出せないけど、記憶や幻覚や夢が混在していて面白いと思った本があったけど、この本はそういう分類すらできないような『イメージ』としか言いようのない場面が並んでいる。

フィリップ・K・ディックSF小説や『裸のランチ』とかも思い浮かべたけど、一番近いのは中原昌也の小説だと思う。

短編集だけど、おそらく主人公は同じ人物で、彼と周りにいた人々がドラッグと酒と他の理由で、何となく人生を台無しにしていくように見える話が連なっている。彼らは何かを選ぼうとする意思に欠けているように見えて、日々をやり過ごすだけで良いと思っているみたいだった。

読んで頭に浮かんだイメージの断片は、鮮やかに脳裏に居座っている。

ジーザス・サン (エクス・リブリス)

ジーザス・サン (エクス・リブリス)

 

 

5/23〜5/27

『いい親よりも大切なこと』(小竹めぐみ小笠原舞)、読了。

自己啓発本や生き方の指南書みたいな本が苦手だ。自分が影響されやすい自覚もあるので、そのタイプの本に恐怖すら感じている。大雑把に育児書もそれに近い分類で考えているので敬遠していたが、最近、子どもとの接し方で辛いことや疑問に思うことも多く、藁にもすがる思いで手に取った。

育児の呪いからママを解き放つための良い本だった。全てがママ宛の書き方だったので「育児はママのもの」っていう呪いは少し感じたけど。

『「しない」でいい』という提案で呪いを順番に解いていく。その方法はとても実用的で、すぐにでも実践できそうだった。読んでいる最中から、子どもと接する時にこの本の内容を意識するようにした。まだかなり意識しないと、うまく行動できない自分を感じる。

読み終わって、俺は怒り過ぎていると感じた。クセになってしまったのだろうか。もう少し、子どもを『待つ』姿勢を持とうと努力することにした。「子どもが発達途中である」という意識を持つのが、俺には難しいらしいので、それを強く意識している。

実用的な文章があるページには付箋を貼った。読み返しながら頑張ろうと思う。

最後の方は、親を励ましたり親を容認するような内容だったので、自己啓発本っぽさを感じて、熱心に読めなかった。

いい親よりも大切なこと ~子どものために“しなくていいこと

いい親よりも大切なこと ~子どものために“しなくていいこと"こんなにあった! ~

 


5/2〜5/23

田中小実昌ベストエッセイ』(作:田中小実昌/編:大庭萱朗)、読了。

人はみんなどうせいつかどこかで死ぬし、みんなどうせいつかどこかで生まれる。田中小実昌の思想には、そんな死生観が滲み出ていて、どんな話からもそれが感じられた。特にそれは新宿で飲み歩く話に一番色濃く出ていた気がする。その死生観で見れば、どんな人も受け入れられる。一般的にダメな人間がいたとして、それはダメなだけ。そのまま受け入れればいい。これには戦争体験が強く影響を及ぼしているように思えるけど、それはわかりやす過ぎるだろう。

語られていた戦争体験は『ポロポロ』に入っていた小説にも似てるが、相変わらず底抜けの虚しさが描かれていた。

また、戦後まもない頃の狂騒時代の描写は、現代でいう『実話ナックルズ』のようなグレーゾーンの話が生々しく描かれていて、他とは少し題材が違った。それでも、やっぱり筆者の全てをそのまま受け入れる姿勢は変わらないみたいだった。

保坂和志への影響は多大だろう。話の脱線のさせ方も、情景描写の重ね方も、最近の保坂和志の小説が連想された。

どのエッセイも唐突に終わる感じに驚く。途中でやめたようなブツっと切れる終わり方。うろうろと話が脱線するのも面白いのだけど、一応、どの話も本線に戻って来て終わる。そこも、何だか変な生真面目さで面白い。

 
4/25〜5/1

悲しみよこんにちは』(作:フランソワーズ・サガン/訳:朝吹登水子)、読了。

少女の心の揺らぎが繊細に描かれていた。読んでいる間、古いフランス映画を観ている気分になっていた。読みながら古いフランス映画が退屈に見えがちな理由が少しわかってきた。心の動きを物憂げな表情だけの長時間の映像で表現したりするからだ。感情の推測が観客に委ねられているような、あの時間。

小説だと思い悩む様子をずっと独白してくれるので、その部分はわかりやすかった。気分や心情が景色の感じ方に影響を与えてしまう詩的な描写は、やや辛かったけど。

自分の感情がわからなくて点検しているような表現は、あまり読んだことがなくて面白かった。自信過剰になったり、自信を無くしたり、好きになったり、好きじゃなくなったり、大人ぶったり、子どもらしく振舞ったり、というこの不安定さを青春の特権として独白で描いているのは、読んだことが無かった。

この微細過ぎる心の動きをうまく表している翻訳も良いと思う。砕けた口語の混ぜ方も特徴的だった。

策謀をはっきりとした意思では練らず、子どもっぽい反発や、ぼんやりとした不快感が主導してしまうという部分も妙なリアリティがあった。その結果起きた悲劇は、その代償としてはあまりに大きかったが、これで主人公は大人に近づいたのだろうか。

悲しみよこんにちは (新潮文庫)

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4/12〜4/25

『ライムスター・宇多丸のウィークエンド・シャッフル“神回”傑作選Vol.1』、読了。

確かに、面白くて内容のある神回が収録されていた。あとがきにある出版時点までの放送内容を読むと、ああ、そういうくだらないのあったな、と笑ってしまう回もあった。でも、それもタマフルだったし、それはラジオならではの楽しさだったはずだ。

タマフルを聴き始めたのは開始から5〜6年後くらいで、かなり後の方だったので、収録されている神回はどれも聴いたことが無かった。

時系列に沿って収録されているのが良くて、番組のコアの部分と展開・拡張していった部分がわかりやすい。共通しているのは、『本気で何かを好きになることを肯定する』という姿勢だった(当然だが、犯罪行為は除く)。その結果、人は様々な論を作り上げてしまうものらしい。そして、この番組は、それが暴論でも極論でも面白くエンターテインメントにできる。そういう番組の姿勢に、いろんな論者がどんどん引き寄せられて凄まじさが増していくのが、ドキュメンタリーさながらに収められている。中でも、『アイドルとしての大江戸線特集』はそのぶっ飛び方で一線を超えたのでは、という感じがした。

そして、タマフルをベースにして大幅にアップデートされたのがアトロクがあることがはっきりとわかる。この本と照らし合わせると、アトロクは神回だらけに思える。凄まじい情報量になったもんだ。

新しい視点をもたらされて蒙が啓くように、聴くと(読むと)見えてくる。

 

3/15〜4/22

電気グルーヴのメロン牧場6』、読了。

トイレで読み終えた。

つまらない先入観抜きで、事件前に読みたかった。

それでも、相変わらずのバカな話がたっぷり。時々、真理を突いてるように感じる話もあるが、おそらくその瞬間、自分の常識が揺らいでる。俺もバカだし、世間もバカだし。

以前の『メロン牧場』よりピエール瀧の発言が全体的に少なくなっている印象だったのだけど、石野卓球のバカ話の炸裂っぷりが増幅していたからだろう。その姿勢が本当にブレないし、他の二人も石野卓球をノセていく。

甥っ子をライジングサンに連れて行った話だけは、他の回と全然違う良い話だったけど、それも面白かった。

歳を重ねた結果だと思うけど、二人が仲良いことに照れが無くなってるのが凄く良かった。

あとがき座談会まで読んでからカバーをめくって、爆笑した。あれはズルい。

 

2018/4/3〜2019/4/20

『365日のほん』(辻山良雄)、読了。

一日一ページ読み進めてピッタリ一年で終わるつもりで読んでいたけど、意外と難しかった。

本屋TitleのHPで毎日一冊を紹介している『毎日のほん』をベースにしていて、この本でもちゃんと面白そうな本に何冊も出会った。本のための本。

存在感のある愛しやすい装丁で、手に馴染む。別のタイミングで、また一年かけて読んでもいいかもしれない。 

365日のほん

365日のほん

 


4/9〜11

もものかんづめ』(さくらももこ)、読了。

最高にくだらないものが詰まっていて良かった。個人的な読書遍歴の話だけど、『地球星人』からの落差も功を奏したかもしれない。自虐多めのどうしようもない話を、エンターテインメントに押し上げるサービス精神も感じる。この資質は電気グルーヴにも近い気がするんだけど、静岡にこの資質の温床があるんだろうか(いや、無いだろう)。

巻末の土屋賢二氏との対談まで読むと、著者は世界の在り方に対して徹頭徹尾ドライもしくはクールだ。『ちびまる子ちゃん』の「〜〇〇(まる子やヒロシなどの人名)であった」という感じのナレーションの切れ味を思い出す終わり方をする回も多い。そして、あのナレーションのような俯瞰した視点で、自分も含めた世界を見ている気がした。引いて見てしまえば、全て喜劇か(『ちびまる子ちゃん』の感動的な回の作り方はまた別のロジックだろう)。

その中では、ツイッターでも話題になってた祖父をボロクソに書いてるエッセイが良かった。俺も「家族だから」という理由で自動的に愛情は生まれないと思っている。家族から共同体の範囲を広げても同じだ。ある共同体に属しているからと言って、その共同体自体を盲目的に愛しているのは不気味だと昔から思っている。映画『万引き家族』のパンフレットで中条省平氏が書いていた『家族は自明ではない』とも通じる話だろう。著者はこの件について作品解説でもしっかりと追い討ちをかけてて、かっこいい。

もものかんづめ (集英社文庫)

もものかんづめ (集英社文庫)

 

 

4/3〜4/8

『地球星人』(村田沙耶香)、読了。

現時点での集大成的な作品だ、と途中までは思っていた。『しろいろの街の、その骨の体温の』のニュータウン的要素や幼少期の描き方や、『コンビニ人間』と同様に世界の在り方に馴染めずに違和を感じている主人公がそう思わせたのだが、それらは舞台の初期セッティングに過ぎなかった。最後まで読み終わると、集大成の更に先に行き過ぎてて、言葉を失った。ここまで考え抜くのは相当辛かったんじゃないだろうか。

まず、真っ先に読んでて辛い気持ちになるのが、性的虐待の場面だった。子どもから見た『わからなさ』を踏まえている恐ろしい描写に衝撃を受けた。こんな奴は許せない、と本気で思わされるくらい徹底的に描かれていた。微妙な気持ち悪さの積み重ね方がまたエグい。そして、周囲の理解の無さがまた酷かった。しかし、現実もこんなもんかもな、と悲しくもなる。人を性別と容姿で判断し、常識で縛ることが人をモノのように扱う第一歩となっている。

そして、「地球にやってきた宇宙人が地球に住む日本人を見たらどう思うか」をシミュレートしていく部分が圧巻だった。あのラストは想像がつかない。考え抜いていくと、あんな事態になる場合もあるんだ、と驚く。ラストの描写は地球星人から見るとゴア描写でもあるので、落ち着かない気持ちで読んだ。面白く感じたのは地球星人らしさを捨てると動物に近くなるということだった。やはり、人間は社会性を持って動物を辞めているらしい。

読み始めた時は、人間の多様性などを重んじるならばポハピピンポボビア星人の方が現代の世界の動きに合っているし、自分もそっち寄りかも、と思っていたのだけど、途中で、自分が家庭を持った事実を思うと「ああ、俺もただの地球星人か…」と寂しい気持ちになったりした。

ずーっと自分がどういう人間かを問われているような気がした。俺の中のリベラルっぽい考え方は流行に乗って生まれただけなのかな、偽善かな、でも、弱者が虐げられる世界が嫌だって気持ちに嘘は無いよな、と思考が乱反射して小説から遠ざかったりした。

それでも、どうにか小説に戻ってきて読み進めた。『終わりの始まり』の直前に、どんな星人も他者との繋がりを求めるのかな、と思えるような、とても穏やかな時間がある。その場面は何だかとても切ないのだけど、他者との繋がり方への僅かな希望を感じた。

地球星人

地球星人

 

 

3/18〜4/2

ラテンアメリカ五人集』(作:ホセ・エミリオ・パチェーコ、マリオ・バルガス・リョサ、カルロ・フエンテスオクタビオ・パスミゲル・アンヘル・アストゥリアス/訳:安藤哲行ほか)、読了。

既存の文学を革新したいという野心に満ちている作品が多かった。

その中では、オクタビオ・バスの詩や、ミゲル・アンヘル・アストゥリアスグアテマラに伝わる伝説を描いた短編は、率直に言って俺には難しかった。どちらも強烈なイメージの奔流みたいなものは感じたが、頭の中に入りづらかった。原文との差による問題もあるのかもしれない。

小説は楽しく読めた。とても刺激的だった。

パチェーコが『砂漠の戦い』で描いた少年の繊細な心の動きには、妙に感傷的な気分にさせられた。場所が映画『ROMA』と同じ舞台だったので想像しやすかったこともあるか。フエンテスの『二人のエレーナ』に描かれている生々しい妖艶さにはドキドキした。展開だけ追うと昼ドラみたいな印象も受けたが。オクタビオ・パスの『青い花束』の不気味さは良かった。メキシコの夜の闇は深そう。気候の印象もあるのだろう。冷気を感じさせるような不在の不安による不気味さではなく、高温多湿な中で何かが蠢く不気味さだった。

その中でも、やはり一番印象に残ったのはリョサの『小犬たち』だった。豊崎由美氏の解説的な鑑賞エッセイも素晴らしくて、最初に読みづらかった理由が『誰がしゃべっているかわからないから』だったのかと納得できた。『僕たち』と語る誰かがいるような気がしていたが、そんなことはなかったのか。この『誰が喋っているかわからない』という状態から、保坂和志の『プレーンソング』を思い出した。この作品では、この状態のまま、状況自体が語るかのように、テンポよく進んでいく。小犬みたいにじゃれあってる彼らを取り巻く情景はとても眩しい。そして、やはりその輝きは失われていく。青春が始まった時からそれはわかっていたことだったけど、それは切ない。時の流れの残酷さを容赦なく振り下ろすラストはカッコよかった。ちょっとマルケスの『百年の孤独』のクールなラストも思い出した。それはラテンアメリカ文学という情報に引っ張られているのかもしれない。

そういえば、解説にもあったように、ラテンアメリカ文学についてまわるマジックシュルレアリスム的要素がどの作品にも無かった。これは新鮮な発見だった。

ラテンアメリカの文学 ラテンアメリカ五人集 (集英社文庫)

ラテンアメリカの文学 ラテンアメリカ五人集 (集英社文庫)

 

 

3/13〜3/18

『20億人の未来銀行ニッポンの起業家、電気のないアフリカの村で「電子マネー経済圏」を作る』(合田真)、読了。

プレゼン資料のようなまとめ方をした本で、結論を章題にして各章で内容を説明するという形式になっていた。詳しくないのでわからないけれど、ビジネス本はこういう本が多いのだろうか?内容的にはエッセイにもノンフィクションにもできただろうが、『事業内容』と『その事業をやる理由』が一番言いたいことだったのであれば、これが最適な形だったのだろう。

読み方にも自分の得意な形というのがあるようで、自分は作者の体験したノンフィクションとして読んだ。その過程で、フィンテックや通貨の今後を想像しながら楽しんだ。

かなり刺激を受けた。世界をより良くするための仕事を着実に進めているのが単純に素晴らしい。自分のことを振り返ると、そういう理想らしきものは持っているかもしれないけど、できていない。

また、現状の世界の在り方を、筆者が噛み砕いて解説する部分もとてもわかりやすかった。食糧・エネルギーをうまく皆に回すための『ものがたり』である通貨・金融が、現在の資源に対してうまくフィットしていないのでは?という指摘には、感覚的に頷ける部分があった。資源拡大期と資源制限期があるという時代の流れも、同様に理解しやすい。

少数の企業や人による富の独占・集中が世界を良くするとは、俺にも思えない。その格差をデジタル技術が是正できるはずだったのに、結果的にGAFAのような資本主義王国が誕生しただけになってしまった。それらへのカウンターとしてのフィンテックが、世界を良くする可能性を信じたい。

 

3/4〜3/12

『献灯使』(多和田葉子)、読了。

3.11の震災と原発事故にビビッドに反応していて、もの凄くたじろいだ。頭の後ろの方か、胸の下の方に、何かどんよりと重いものが溜まったような感じがする。吉村萬壱の『ボラード病』を読んだ後味に近いけれど、より複雑に思い悩む種を植えつけられた気がする。

この本について、高橋源一郎が平成をテーマにしたラジオで話してたり、小袋成彬がラジオで不意に話してたりしてた上に、全米図書賞を受賞しているというので、気になって読んでみた。

震災が起きた日本と繋がる世界観を緩やかに共有した作品の短編集だった。『献灯使』が顕著だが、全編に共通して、最後の方がいつの間にかぶわっと拡散するような展開になっていて、曖昧だけど強烈な印象が残る。

表題作『献灯使』は、震災後の日本を極端に戯画化したSF的な物語だった。パラレルワールド的に現実と乖離させながらも、不意に現実と交差させて対照する思考実験のようになっている。

死ねない高齢者・義郎と病的にか弱過ぎる若者・無名の対比は、読んでいて落ち着かない気持ちになってソワソワする。どうしても自分は義郎側に近い感覚があって、単純に震災と原発事故には悲しみや怒りを覚えてしまうし、直接的な被災者の人達に安易な同情をしてしまうが、それらとは無関係に無名は生きている。失われたものが多く、変わり果ててしまった現実を受容して、というより、それしか知らずに無名は普通に生きている。この無名視点が描けるのが凄い。読めば読むほど、日本に生きているのに、自分に足りない当事者意識を自覚させられて辛い。

また、政治も社会全体もギャグみたいな事態が着々と進行してしまうという描写は、実は現実とそんなに変わらない。すぐにそのことに気づいて、思わず苦笑も出るが、悔しくなるし、反省もするし、逃げたくもなる。全編にわたってこのテイストがあって、その鋭さが恐ろしい。

それにしても、全米図書賞を受賞したというが、この漢字を使ったギャグのような部分やダジャレみたいな部分はどう訳されているのだろう?海外では風刺小説として楽しまれているのだろうか?『万引き家族』がカンヌのパルムドールを獲ったのと似たような評価だろう、と想像する。俺も、ここで描かれている日本は、世界中に知られた方がいいと思う。

献灯使 (講談社文庫)

献灯使 (講談社文庫)

 

 

2/8〜3/1

岡潔 数学を志す人に』(岡潔)、読了。

大変読みづらかった。

愛国主義的な考え方や、男女差別的な考え方が描かれる部分は、当時の世相をよく映しているけど、時代を超える普遍性は無いように思う。

教育についての部分も全てが良いとは思えないけど、「まず情緒を養う」「他者に優しくするように育てる」の部分は納得できた。

数学者の文章か…と難しさを覚悟していたが、日本の四季折々を慈しむ老人の穏やかな文章だった。思い返すと、難しさを期待していたところもあったのかもしれない。

納得できるところとできないところが入り乱れていて、他者との会話らしい読書体験となった。

そういえば、戦後の『アメリカが3つのSを流行らせて日本を弱らせようとしている』という噂の話は面白かった。SportsとScreenとSexは、今も見事に流行っている。

岡潔 数学を志す人に (STANDARD BOOKS)

岡潔 数学を志す人に (STANDARD BOOKS)

 

 

1/17〜2/20

『水中翼船炎上中』(穂村弘)、読了。

短歌集も詩集も殆ど読んだ経験が無い。音読がいいのかな、リズムをつけて読むといいのかな、いや、やっぱり黙読の方がいいのかな、とか楽しみ方を試行錯誤しているうちに読み終わってしまった。

穂村弘のことは少し知っていたが、意外と不気味な歌もあるんだな、と思った。「短歌の高尚で堅苦しいイメージを変えるために、ゆるくて軽い感じのアプローチをしてるに違いない」と何となく思い込んでいたようだが、それだけではなかった。表現として新しいものを目指してる感じがした。「こんな言葉を繰り返すの…?」と驚く反復表現や、「わざわざこの言葉に文字数割くの…?」という言葉選びをする歌と同じ並びに、ゆるくて軽いのもある。

全体的にオフビートな映画を観たような気持ちになった。思い浮かぶのは山下敦弘。時々はホラー映画。

名久井直子氏の装丁も良かった。歌集や詩集は、ずっと手元に置いておけるような、時々読み返したくなるような、そんな装丁にしてあることが多そう。

水中翼船炎上中

水中翼船炎上中

 

 

1/23〜2/8

夏への扉』(作:ロバート・A・ハインライン/訳:福島正実)、読了。

タイムトラベルを扱ったSF小説の初期名作なのだろう。時の流れを運命論で捉えて覆せないパターンのようだが、その現象にあまり自覚的でも無く、悲観的でもない(この頃は時間の分岐やパラレルワールドみたいな理論は無かったのだろうか)のは、なかなか見ないパターンかもしれない。

最初ピンチで最後は全て上手くいくので、物語として痛快だった。タイムパラドックスなどが起きそうな事例も多々あるが、少なくともこの小説内では綺麗に完成している。前半の様々な伏線が後半のあるギミックで回収されるのは、若干反則気味には思えたけど。

主人公が、様々なトラブルにも負けずに頑張っている姿が、魅力的に描かれているので、応援するような気持ちで先が気になるようにできている。特に、作家の信条の反映かもしれないが、彼が猫のピートに常に敬意を払っているのが、とぼけてて面白い。家事の面倒くささの描写や、女性を尊重した眼差しは現代的だった。

主人公が、結局、人を信じないと人は生きられない、ということに気づくシーンは唐突だけど、グッとくる。

そして、猫の自由気ままさも楽しく読める。

夏への扉 (ハヤカワ文庫SF)

夏への扉 (ハヤカワ文庫SF)

 

 

1/9〜1/22

スクリプトドクターの脚本教室・初級編』(三宅隆太)、読了。

希望の書だった。これ読めば誰でも脚本が書けると思う。面白いかどうかは別にして。

ラジオの語りのままの文章で、説明が丁寧。あれは大学の先生+カウンセラー的な語りだったんだな、と納得もした。

『脚本と脚本家の関係が密接である』という前提には疑う余地は無さそうだが、ここまでだとは思ってなかった。脚本を救うこと=脚本家を救うことになっているのが面白い。そう考えると、逆に脚本を書くことが一種のアートセラピーにもなり得るのだろう。

脚本を書く方法も救う方法も、順序立てて論理的に説明していて、納得するところが多い。

教育論としても面白い箇所が多くて、相手の言うことを全て「それは関係ない」と切り捨てずに傾聴する姿勢は、生徒に向き合う先生として、子に向き合う親として、必須だと思った。相手が何について『関係ある』と思ったのか、聞いていきたい。

後半のスクリプトドクターとしての実践的な話は、スクリプトドクターを目指していない自分には無関係に見えるが、読んでいけば仕事に対する姿勢を学べるくらいには一般化できる内容だった。やはり「それは関係ない」はあんまり良くない。

作品から逆バコ起こしして、逆バコから課題作って、たくさん練習して、脚本を書いてみたくなった。

スクリプトドクターの脚本教室・初級篇

スクリプトドクターの脚本教室・初級篇

 

 

1/5〜1/12

『cook』(坂口恭平)、読了。

料理を作り始めた日々を記録した本。レシピ集ではないので、これを読めば料理ができるという本ではない。

でも、読めば料理を作る意欲が湧く。その意欲はそのまま生きる気力となる。と坂口恭平は楽しみながら書いている。

料理に初めて接する人だけが感じられる言葉が記録してあるのが面白い。ベーコンエッグはベーコンを焼いた油で卵を焼くのが良い、みたいな言葉にはワンダーが溢れている。

手書きの備忘録や、考えられた盛り付けだけど凝りすぎていない料理の写真には、手作りの気持ち良さも詰まっている。他人の手書きの文章でまとまった量を読んだのは、久しぶりかもしれない。手書きの文字には情報量が多くて読むのに時間がかかる。その気づきは新鮮だった。

あとがき的な料理についての文章には、何だか同じところをグルグル回るような感覚があって、面白かった。 

cook

cook

 

 

2018/11/29〜2019/1/8

『島の果て』(島尾敏雄)、読了。

『死の棘』の作家という認識はあったけど、こんなに壮絶な戦争体験をしていたのは知らなかった。1年半もの間、特攻で死ぬための準備をして、ギリギリで終戦になって特攻が中止になる。この体験の異様さは想像を絶する。しかも、その体験が特攻隊長だった人の視点で語られるのも、非常に珍しいだろう。読んだことがない。

この本は、その体験をベースとした半自伝的な短編集だ。

各短編は書かれた時期も違うので、微妙にテイストが違う。

『島の果て』は幻想性が強くてドラマチック。『徳之島航海記』は当時の部隊の様子が克明に記されていて、かなり人間くささを感じる。『出孤島記』『出発は遂に訪れず』『その夏の今は』は特攻の準備をするも終戦で特攻しなかった主人公の極限の精神状態を、執拗に記録している。

全体を通して読むと、奄美大島のエキゾチックで幻想的ですらある自然の中に、無理矢理介入してきた戦争の奇妙さが歪に際立っている。その超現実的な世界の中で、主人公とトエ(名前は様々。後の妻)が重ねた逢瀬の激烈な感情には圧倒される。死の予感がそれを強調していた。

更に、終戦の『発生』(という感じだった。自然現象のようだった)がもたらす様々な影響は、今まで想像したことがなかったと気づいた。終戦を知った上で特攻する人の可能性なんて考えた事もなかった。

終戦を機に、次第に精神状態をむき出しにしていく人々の様子が生々しく描かれていて、じわじわと不安になる。人々が戦争前の人間に戻ろうとする反応も、その反応に戸惑う主人公の気持ちも理解できる。戦争状態にとにかく無理があったとわかる。

想像していたより読むのに時間がかかった。心理描写が風景描写のようであったり、その逆であったりして、それに出くわすたびに何度も読み返すことになった。死を覚悟する心理描写の部分は、凄まじい迫力で一気に読まされた。

島の果て (集英社文庫)

島の果て (集英社文庫)

 

闇に堕ちる

レストランを出て、下に降りるエレベーターに皆で乗った。しばらくすると、窓から入っていた日光が壁に遮られた。暗くなったその瞬間、3歳の息子が言った。

「やみにおちるよ…」

 

 

息子は順調に育っているようだ。

『闇』という言葉は、ウルトラマンで覚えたのだろうか?いや、仮面ライダーか?あ、戦隊シリーズ

『室内が暗いエレベーターが下降する=闇に堕ちる』という連想はそんなに悪くない。大袈裟過ぎる表現に伴う中二病っぽさが面白いわけだが、3歳で中二病ってむしろ成長し過ぎなくらいでは。

息子の語彙力と理解力が上がっていて、面白い発言は増えている。「まいにちまいにち、あさよるあさよるあさよる、いやだ!」と叫んだのも良かった。息子曰く「朝夜交互に来なくてもいいじゃん」ということらしい。言われてみればわからんでもない。

 

 

一方で、妻は順調にジャニーズオタクに育っている。

以前から大晦日ジャニーズカウントダウンコンサートの放送を熱心に見たりしていたので、素養はあった。自分も聞きかじったグループを面白半分でオススメしたりしていたが、こんなに本格的にハマるとは思っていなかった。気づくと、あるグループのファンクラブに入って、地方のコンサートチケットの抽選に応募して、当たる前からホテルを確保していた。その本気度に驚いた。

堕ちるのは一瞬だ。

こちらは闇より沼という表現が合いそうだが。ちなみにチケットの抽選にも一瞬で落ちた。

ここで、俺は自分の感情を確かめてみた。妻がジャニオタになることについて、自分はどう思っているのだろうか、と。

最初、何かモヤっとする感じがしたので、そのアイドルへの嫉妬に近い感情が起きているのか?と推測した。アイドルを追いかける感情が疑似恋愛に近いイメージがあるのかもしれない。究極的には、ファンはアイドルを性的対象として見ているのでは?などと考えた。

しかし、それは男性が女性アイドルのファンになるパターンで多い例なのかもしれない。女性アイドルが恋愛禁止を謳う例は、ファンにアイドルとの疑似恋愛を推奨しているためだろう。勿論、これらの推測自体も偏見に満ちている。

と、一般論について悶々と考えたところで意味が無い。結局のところ、「彼女がどのようにアイドルを愛でているか」が重要なので、彼女の行動を見守ってみた。

なるほど。どうやら母親のような視点で楽しむ要素も強いようだ。美しい少年達がスターになっていくのが嬉しい、らしい。

それにしても、見ているうちに可哀想になってきた。好きなアイドルが出ているという理由だけで、こんなつまらないバラエティ番組やドラマを見なければならないのか。修行か、苦行だ。あ、つまらなくないのかな。いや、彼女もつまらなそうだ。iPhoneをいじりながら流し見している。

しかし、彼女はまだジャニオタであることに照れているので全てポーズの可能性もある。仮に、本当に彼女がつまらないと思っている上で見てているならば、なんでこんな苦行に耐えられるのかがわからない。

しかし、それは自分がアイドルに本気でハマったことが無いからかもしれない。

とも思って対抗して異性のアイドルを好きになれるか検討してみたが、やはりノれなかった。昔、ももクロならイケそうな気もしたのだが。思い返してみれば、特定の人物のオタクになって、この人の作品を全部買おう!となったことが無い気がする。

ああ、きっと他者の目を気にしているんだな、俺は。オタクへの偏見を持っていて、カッコつけてるのね。我を忘れてのめり込むのカッコ悪いと思ってんのかな。ダサいじゃん。落ち込むよ。

何はともあれ、『わからないからと言って、他者の好きなものを否定してはいけない(犯罪行為は除く)』という信条を持っているので、堕ちていく妻を温かい目で見守るしかない。

 

 

堕ちる、と言えば、先日、喫茶店で不思議な集団を見かけた。

その日は、久々に時間があったので、都内の喫茶店で読書をすることにした。

案内された席は2人席で、窓に向かって座った。

隣のテーブルが近いのは気になった。そこには男性が3人いて、窓を背にする男が先輩面して対面の二人に熱心に語っていた。その先輩風の人は 20代前半くらいに見えた。髪型は側面を刈り上げた短髪で、上半身は白シャツの上に茶のベストを着て、下半身はベストとセットアップのスラックスを履いていた。対面の二人は彼より幼い感じで、カジュアルな格好だったので大学生くらいに見えた。そのテーブルを見て読み取った情報から、【大学生の後輩がサークルの先輩(社会人?)に就活の相談をしてる】と推理した。『名探偵コナン』を読んで培った観察眼が役立った。

先輩風の男がノートに色々と書いて見せながら、偉そうに喋っている。

「死ぬまでにどれくらいお金がかかると思う?」

「結婚はしたい?子どもは欲しい?そっか。2人ね。そうなると、こんなにかかるんだよ!」

聞く気が無くても耳に入ってくる。読書に集中できない。それにしても、この『スラムダンク』の赤木みたいな髪型の先輩、偉そうに語ってるなあ。そんなに偉いのかな?

「じゃあ、社会では何が大事だと思う?三つあるよ。まず、『課題解決能力』。じゃあ、それはどうやったら身につくと思う?次に、『カリスマ性』。じゃあ、それはどうやって?最後に、『コミュニケーション力』。じゃあ、それは?」

って感じで延々と諭すような口調で話していて、徐々に違和感を覚えた。

俺の推理が…間違っている…?

先輩風の男が、『お金』と『課題解決能力』と『コミュニケーション力』と『カリスマ性』を得るための方法を教えてあげよう、と言って、一呼吸置いた。

「NBって知ってる?」

…ん?何だろ?わからない。後輩風の2人の男も知らなそうだった。「ニューバランスじゃないよ!ははは」と先輩風が軽口を叩いてから言った。

ネットワークビジネス!」

胸の奥がざわつき始めた。店の入り口にあった『サークル・マルチの方はご遠慮いただきます』の看板を思い出した。NBはマルチだろ!遠慮せずにいるじゃん!

先輩風は2人に話し続けた。

ネットワークビジネスマルチ商法じゃないよ。完全に合法だから。ちなみに、マルチ商法ってどういうイメージがある?」

後輩風の1人がおずおずと答えた。

アムウェイみたいな…。」

先輩風は「あー、『マル』ウェイさんね!はっはっは」と笑い飛ばした後、「全然アムウェイの肩を持つわけじゃないけど、売ってる商品はイイものなんだよね」とまた諭すように話した。先輩風は、何やら「価値」とかそういう単語を混ぜながらひとしきり話した後、ちょっと電話してくる、と外に出て行った。俺は少しホッとした。

しばらくして、隣り合って座っている後輩風2人が話し始めた。

「そのシャツ、カッコいいですね…」

「あ、そうですか?ありがとうございます…」

え?あれ?ここも初対面!?NBの人はどうやって勧誘する相手を連れてくるんだろう。しばらくの間、2人は服の話をしていた。「友達には馬鹿にされるけど、自分は結構アヴェイル好きです」アヴェイルはファッションセンターしまむらの別名義ブランドだ。しまむらは地方都市にあるイメージなので、関東の地方都市に住む若者なのかな?っていうか、その言い回し、グッとくるな…。『2人とも職場には40代や50代のおじさんしかいなくて、飲みに行ったりとかしない』という話をした後、「この話、どうします…?」みたいな相談が始まった。あ、やっぱりちょっと疑問は感じてるのね、がんばれ、騙されるなよ!「やっぱりいきなりは決められないので、資料とかもらいましょう」という結論を2人で出してて、俺は隣で、うんうん、と頷いた。

先輩風が席に戻って来た。第一声は「なんか聞きたいことある?」だった。2人が勇気を出して「資料とかってありますか?」というと、先輩風が「資料か〜、資料ね〜」とか散々勿体ぶった後、「何が聞きたいの?」とまた尋ねた。それを聞いて、耐えられなくなった俺は店を出た。

この勧誘にはマニュアルがありそうだ。

 

  1. 将来の不安を煽る
  2. とにかく質問して、自発的に答えさせる(もしくは、そのように錯覚させる)
  3. 資料を渡さない

 

というテクニックが垣間見えた。

この先輩風も似たような勧誘を受けたのかもしれない。先輩風も単なる加害者とは言いづらい。負の連鎖。後輩風2人に「騙されない方がいいですよ!」とか言った方が良かったのだろうか?いや、赤の他人にそんなことはできないだろう。

NBの闇に堕ちそうな人を見て見ぬフリしてしまって、気持ちが闇に堕ちていくのを感じた。

2018年後半に観た映画の記録

総じて昨年より観た本数は減った。

代わりに、何をしていたのか。

時々料理を作ったりした。

アニメも結構見たかもしれない。

まあ、仕方ない。

 

『ヘレディタリー/継承』を映画館で観られたのは幸運だった。

 

以下、遡る形で振り返る。

きっとネタバレはしている。

 

12/5~12/17

『フリント・タウン』(ザカリー・カネパリ&ドレア・クーパー&ジェシカ・ディモック監督)シーズン1をNetflixで観た。

初めて全部スマートフォンで観た。

第1話の冒頭の映像から『劇映画じゃない』という事実を何度も疑った。ドキュメンタリーとして、こんな映像が撮れるのか?

計算ずくでカッコ良過ぎる構図、全然カメラを意識してるように見えない出演者、ここぞというシーンが生々しくよく撮れている映像。これらの要素がこの作品全体をフィクショナルにしてしまっている。それはいわゆるヤラセっぽさに繋がっている気がする。

ちゃんとドキュメンタリーであるとして、パトカーにカメラが入り込んでるのも、現場に一緒に急行しているのも凄い。犯人、被害者、血。これらが現実のものだと思うと、カメラマン大丈夫かな、という緊張感があった。

事件が解決するわけではないというのが不思議なくらい、ドラマ的だった。

また、かなりストーリーが整理されていて、それもフィクション性が高く見えた原因だろう。

ドキュメンタリータッチのドラマが増えたせいもあるのかもしれないが、ドキュメンタリーもドラマに接近しているのだろうか。ドラマみたいなドキュメンタリーというのは少し微妙だな。その手法は、実際にそこで苦しんでいる人の気持ちをちゃんと汲み取れるのだろうか。

思っていたより、警察主体のドキュメンタリーだった。水質汚染の問題は日本の現在に直結しているので、もっと詳しく見たかった。

www.netflix.com

 

12/15

『ヘレディタリー/継承』(アリ・アスター監督)を観た。

観終わってまず、太ももの裏にべっとり冷や汗をかいていることに気づいた。そのせいで寒気が止まらなかった。観ている間ずっと手に汗握っていたことは気づいていた。まだ映画館にいるのに、家までの帰り道にある暗闇を想定して、嫌で嫌でたまらなかった。想像力が刺激され過ぎてバカになっていた。観ている間も、無いはずの風を感じたりした。

ラジオで三宅隆太氏と宇多丸氏が言ってた通り、既にクラシックと思える大傑作だった。

序盤は批評家気取りの少しひいた目線で観始めた。とにかく構図やカメラワークがカッコよくて、家の中や外観の映像は、ニューカラー的なアメリカの写真集を見てるような美しさだった。友人の言っていた『ウェス・アンダーソン的』という指摘も凄くわかる。ミニチュアみたいに家を撮り、横位置で撮り続けたり、カメラのスムーズなドリーなどがその連想を促す。

しかし、徐々に映像に違和感を覚えていく。そして、少しずつ不穏さが入り込んでくる。

まず、最初に小さな違和感が起きたのは、葬式のシーンに詰め込まれた情報量の多さだった。母・アニーのスピーチ、祖母の遺体、胸にあるネックレス、それに気づくチャーリー、それを見て笑う男、そして、誰かが口で鳴らす音。この音はチャーリーが鳴らしていたのだろうが、誰もリアクションしないから観客は疑問に思いながら見続けなければいけない。短いシーンなのに疑問がいっぱい浮かぶようにできていて、その答えを下品に提示したりはしない。

全編通して、答え合わせ的な演出を抑制している。疑問は興味へと変わり、観客はどんどん振り回されていく。

カメラが向く方向に何があるのか?と常に不安になる。

何も無くても、あるように思えてくる。暗闇に何かが映ったような気がしてくる。本当に映っていたのかどうかは、最後までわからなかった。

スリードも多い。チャーリーの存在感は、彼女自身が大暴れする映画になると予想してしまう。ピーターが活躍するとは思えない。少しずつ、観客は予想を裏切られて、あの結末へ向かう。その裏切りの殆どに反則を感じないのと、ちゃんとした展開があるこの脚本は奇跡的だと思う。

演出も見事で、観客を不安にさせるカメラワーク、ピーターの表情だけで時間を持たせるあの悲劇のシーン、位置をくっきり感じさせる鉛筆の描く音や蠅の羽音。

母・アニーは恐怖に怯える顔も相手を恐怖させる顔もやっていて、文句なしの名演。

あまりに多くの情報量だったので、おそらく見逃していることもあるだろう。チャーリーという男っぽい名前、家族と人種が違い過ぎるように見えるピーター、最後の三角形。これらも意図があったように思うのは深読みなのだろうか。

疑問と恐怖を今もずっと反芻している。

hereditary-movie.jp 

 

11/23

ドッグ・イート・ドッグ』(ポール・シュレイダー監督)を観た。

ニコラス・ケイジ主演でウィレム・デフォーとの競演、そして、監督が『タクシー・ドライバー』の脚本のポール・シュレイダー。そりゃ見たい!ってことでようやく見て、なるほど…この布陣なら確かにこんな作品になるよな…でも、俺が観たかったのはこんなんだっけ?えーと…?と微妙な気持ちになった。

ニコラス・ケイジがドラッグ漬けなのを観たのは『バッド・ルーテナント』以来か。相変わらず面白い顔。ぶっ飛んでるウィレム・デフォーもよく見るような…。いや、気持ち悪くて怖くて好きだけど。っていうか、二人はマトモじゃない役ばっかりだな!ああ、この組み合わせ、『ワイルド・アット・ハート』で観たのか。既視感あると思った。

アメリカの貧困層の白人には、儲けている黒人や黒人文化に対して強い憎悪がある。そう描かれていた。かなり白人至上主義が見え隠れしていた、というか。結果的に主人公達は破れるので、そういう思想を馬鹿にしているのかもしれないし、物語的装置として導入しただけなのかもしれないが。

残念ながら、映像にも物語にも新しさは感じなかった。

思慮の浅い男達が、露悪的なまでに強烈な暴力を振るいながら、惨めに情けなく負けていく映画だった。

負け犬達の挽歌。

ドッグ・イート・ドッグ [DVD]

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11/1

アメリカン・スリープオーバー』(デヴィッド・ロバート・ミッチェル監督)を観た。

子供から大人に変わっていく少年少女の感情の揺れ動く様子が、静かに繊細に描かれていた。

視線のやり取りだけで物語が進められるシーンが多々ある。映画の醍醐味だ。

手や顔や身体のパーツのズームインを、細かいショットで滑らかに挟み込んでいるのに、映像自体が忙しない感じにはなってなくて、とてもうまく抑制して静けさを保っていた。

女の子がかわいく撮れている。最初かわいく見えなかった女の子が、次第にかわいく見えてくるのは、監督の手腕なのだろう。

いくつかの話が同時に展開していく中で、違う話の登場人物を一つのシーンの中で微妙に交錯させる。その映像とその効果が面白い。観客は少しずつ登場人物の人間関係を把握できるようになっていく。

双子の女の子にその同級生の兄が会いに行く話は、なかなか変わった展開をしていて、先が読めなかった。最初は兄の挙動の痛々しさにヒヤヒヤしっぱなしだったが、最終的には気持ちを不器用に確認し合うやり取りに美しさを感じた。

彼氏と同級生の浮気を知った女の子が同級生に仕返しする話では、最後の彼氏との大人っぽいやり取りに、子ども時代の終わりを感じて切なかった。

誰でもいいから性的な体験をしたいように見えたロブは、最後には相手を大事にする気持ちを得ていた。マギーも同様の成長をしていたが、その成長に切なさを感じた。大人になってしまった。

子供は大人になりたがるけど、大人は子供が大人になることを、切なく感じてしまう。

戻れない時間が詰まっていた。

www.americansleepover-jp.com

 

9/30

エウレカセブン ハイエボリューション1』(京田知己総監督)を観た。

このインタビュー

https://www.cinra.net/interview/201802-eurekaseven

を読んだことと、2の副題がANEMONEだから見てみた。

テレビシリーズを見たのは10年以上前で、当時と感じ方が変わった。当時はエヴァの強い影響下にあるフォロワーか、もしくはパクリに見えるけどなんか気になる…って感じだったが、このインタビューを読んだことで、エヴァだけの話ではないし、あれほど露骨に真似しているのは、音楽用語の『サンプリング』に確かに似ていると気づいた。キャラクターの名前は丸ごといろんなところから持ってきていると気づいていたが、キャラクターの境遇や作品の世界観まで、いろんな要素をわかりやすくハメ込んでいた。

戦闘やメカのワクワクする動きとキャラクターデザインが良くて、そこでオリジナリティを作り出している。またインタビューの表現に沿っているが、この映画自体はテレビシリーズのリミックスというのがしっくりくる。テレビシリーズでの色んな要素をうまく繋いで良いとこ取りできるようにしている。

しかし、いくらなんでも時間軸イジり過ぎじゃない?今まで見ていた人は内容の相違に混乱するし、初めて見る人も追い切れないだろう。

物語としては導入でしかなかった。トレインスポッティングの要素を強く感じた。2作目でどこまでテレビシリーズからアレンジしていくのかは気になる。

 

9/19

ミッション:インポッシブル/フォールアウト』(クリストファー・マッカリー監督)を観た。

映画の原初の機能と言える気がするが、この鑑賞は、ただ観る体験では無く、アトラクション的な体験だった。

ド派手なアクションをやるためにストーリーがあるような場面が多くて、全体的にはハチャメチャな印象だったけど、映画館で見るならこれでいい。特にヘイロージャンプについては、「この作戦要る…?」という疑問を強く感じたけど、いや、これでいいんだ。見ててハラハラしたから。高速で走るバイクでのチェイスも、前代未聞のヘリでヘリを追うヘリチェイスも、手に汗握りながら爆笑し続けた。

でも、これが臨界点かもな…。次はどう見せるんだろう。宇宙空間とか、海底とか…?楽しみではある。

イーサン・ハントのアイデンティティに迫る部分の話はなかなか面白かった。確かに、彼が世界を救う動機は意外と描かれてなかっただけに、見直す良い機会だったかもしれない。

それにしても、最高級のドラッグバカムービーだった。 

paramount.nbcuni.co.jp 

 

9/5

寝ても覚めても』(濱口竜介監督)を観た。

映画館を出た直後のカップルがいたのだが、男が「はぁ〜!?」と言って、女が笑ってた。とても率直な感想で良いと思った。話の展開だけを追えば、こういう感想で然るべきだと思う。

俺も原作小説を読んだ時には、あのシーンで「えー!?」と叫んだ気がする。しかし、小説と映画で感じ方は大きく異なる。小説では朝子主観で心の動きを見た上で驚いたし、その驚きに不思議な感動があったが、映画ではその心の動きを外側から推し量るしかなくて、それが難しいので唐突に行動したように見えた。そのわからなさは恐怖映像のようでもあった。

そんな風に、全体的にホラーのような演出が多々あった。ビルの上から朝子を見た亮平が朝子に見返されるシーン、麦が唐突に家に来るシーン、朝子が亮平を追いかけるシーン。これらはホラー演出のようだった。家に来た時は幽霊のようだった麦が、実体化したように唐突にレストランに来るシーンは鮮烈で、とにかく怖くてカッコよかった。原作との相違の中では、そこが一番面白かった。怖く見えるのは、恋というもの全般の怖さを表しているのかもしれなかった。

全体的に誰かが誰かを追うシーンが多かったような気もする。車に追いすがるようなシーンも面白くて、外と中の断絶がはっきりしているのがコミュニケーションの機能不全を表しているようだった。

マッサージのシーンの丁寧過ぎて何か含みを感じてしまう描写も良かった。どうしても性行為っぽく見えるんだな。

皿を洗いながらプロポーズするシーンの、生活感の混じる恋愛表現も面白かった。

パンフレットを読むと震災の話を盛り込むのは必然に思えたが、観ている間は違和感があった。

渡辺大知の普通のお調子者感がすごく上手かった。朝子は亮平と話す時だけ棒読みっぽいというか演技っぽい喋り方になるのだけど、全体的に感情が読み取りづらくて、それがまたホラー要素を強化しているようだ。

ラストシーンに含まれる、雲と光が動く中で川沿いを走るロングショットは最高。ラストショットの不気味さも良かった。

本当に変な映画で面白かった。

netemosametemo.jp

 

8/25

『カンタ!ティモール』(広田奈津子監督)を観た。

例によって、俺は東ティモールのことを殆ど知らなかった、と観始めて気づいた。相変わらず俺は無知。

冒頭は楽しげな歌と子供たちの笑顔の映像が溢れていて、とても幸福な時間だった。

でも、やはりその幸せの裏には、独立戦争による悲惨で壮絶過ぎる辛い経験が横たわっていて、大人達は皆その過去を噛み締めた上で未来を見ようとしていた。飽くまで忘れてはいない。東ティモールどころか、世界平和を願うような純粋な振る舞いには胸打たれる。

という映像にはなっていた。

しかし、主役級の男のアレックスの怒りや悲しみがわかる映像はほぼ無いし、独立のために戦っていたゲリラ軍が本当に残虐な行為をしなかったのかはわからない。皆があまりに聖人に見えて、その疑念は微かに感じたが、どうなんだろう。あまりに穿った見方かもしれない。

それでも、この映像を見て、日本が経済的なメリットを理由にインドネシアを援助していた、といういかにも日本的な活動には、憤りを覚えた。

自分たちの周りを良くすることが世界平和に繋がる。それは間違いないだろう。

また、余談になるが、今まで見てきた作品がたくさん想起された。

インドネシア側の暴虐ぶりからは『アクト・オブ・キリング』。あれに出てたような人達がやったんだろうなあ。『オンリー・ゴッド』も思い出したが、あれはタイだった。それでも、残酷性で結びついたんだろう。ティモールの皆が信じるルリックという自然信仰からは諸星大二郎の『マッドメン』。あれはパプアニューギニアだけど、見えないものへの信じ方が似ていた。独立戦争の経緯を見ているうちに、高野秀行の『謎の独立国家ソマリランド』も思い出した。国連はただの会員制の高級クラブで、無条件に正しいわけじゃない。日本の経済援助が悪影響を及ぼすこともある。それは肝に銘じる。インドネシア東ティモールの女性に強力な避妊薬を投与しようとしたという話は、『地下鉄道』で白人が黒人女性に不妊手術を促すシーンを思い出させた。どちらも出生率のコントロールを意図している。どこの国でも人を虐げる方法は似ている。

こんな風に頭の中でぐるぐると思考を巡らせながら観終えた。見た後も、やっと目に入った非常にシリアスな問題について、心を痛め続けているし、出来ることを探しながら悩んでいる。

www.canta-timor.com

 

8/23

悪魔のいけにえ 40周年記念版』(トビー・フーパー監督)を観た。

想像より何倍も凄かった。40年経っても耐え得るクオリティってすげえ。

かなり細かくカットを割っているのだけど、固定の映像に自然に手持ちが混ざっていて、その瞬間が来るたびにそのドキュメンタリーっぽさにドキドキした。

カメラの動かし方も面白かった。ローアングルから上方に向けたカメラで後ろから人をゆっくり追うシーンが二回ほどあったが、サリーが館に入る時に、館が異様なほど大きく見える映像は超現実的で感心した。また、サリーがトラックで連れ去られるシーンでは、カメラが前に行ってから後ろに下がってまた前に行くという不思議な動きをしていて、「何かが起こるのか…?」ととても警戒してしまった。恐怖の表情もよく捉えている。サリーの表情は演技に見えない。

音響に関して言えば、金属を引っ掻くような生理的に嫌な音が恐怖心を掻き立てた。

脚本も素晴らしい完成度だった。ホラーやスプラッターは夜の暗闇が舞台というのがセオリーだと思っていたので、真夏の真っ昼間からレザーフェイスが出てきてめちゃくちゃ驚いた。明るい時間でも怖い演出はできるんだな。沈む夕日も怖い。途中で家族らしい振る舞いを始めるシーンの不気味な可笑しさも良かった。レザーフェイスの一家があくまで人間であることが、恐怖を増大させる。追ってくるチェーンソーがうるさいのも面白い。

演出も細部まで行き届いていて凄い。最初に出てくる狂人の演技がうまくて、何をやるかわからない不穏さにドキドキした。鉤爪に生きた人間を引っ掛けるシーンは見るからに痛く感じた。口にボロ雑巾を突っ込まれる行為の生理的な嫌悪感も半端なかった。美術もぬかりがなく、骨と毛皮と羽が気持ち悪い。動かないと思っていたジイ様の醜悪過ぎる動きもヤバかった。ラストのサリーの笑顔と笑い声は目と耳に焼き付いて離れない。狂人が増えてしまった。

どれも真似できないオリジナリティで、一部分でも真似すればすぐにパクリに見えるアイディアばかりだった。

ひっくり返ったアルマジロは不気味だけどかわいかった。叙情的に暑さを感じさせる映画でもあった。

衝撃が反響し続けててまとまらず、ぶつぶつと箇条書きでしか書けない。

 

8/12

『劇場版仮面ライダービルド Be The One』(上堀内佳寿也監督)『快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャーen film』(杉原輝昭監督)を観た。

『劇場版仮面ライダー~』は、予算も潤沢そうで、ゲスト俳優も豪華だし、投入されているエキストラの人数も多いし、ショッピングモールをフィールドとして贅沢に使っていた。

エスカレーターで仮面ライダーが戦うのは見たことも無い映像だったし、ゾンビ映画じみたホラー演出も面白かった。

しかし、テレビの本編同様つまらないシーンも多い。ずーっと暗いテイストの映像とやり取りが続く。それだと見づらいとわかっているようで、時折、照れ隠しのような悪ふざけのようなギャグを挟み込むが、それがあまり笑えない。

それと空から俯瞰する映像も多用しまくっていたが、不要じゃないか。単純に飽きる。

とにかく主人公は一人で悩む。それも見るのに堪えない。

何より戦闘が単調で面白くない。力に対して新たな力で対抗するのを、敵味方で交互にやってインフレしていくというストーリーのせいだろう。CGを多用しているせいでアクション的な限界も感じられず、どうでもよくなってくる。制約は大事なのだと改めて思う。ラストシーンでは敵と味方のビジュアルが似過ぎていて、結末に全く興味が持てなかった。

『快盗戦隊ルパンレンジャー~』の映画は予想外に良くて、アイディアに満ちているアクションが映画の出来を端的に表していた。

このアクションの面白さにはテレビ本編でも時々驚くのだけど、今回はいつもにも増して『アベンジャーズ』以後の作品だというのがよくわかった。アクションがそのまま快盗と警察の関係性を示している冒頭のシーンだけでも、映画館で観る価値があった。

アクションパートは大きく分けて3部あり、どれも面白いのだけど、最初と最後を比べるとアクションが大きく変わっていて、その関係性の変化も示している。いかにも映画的で良い。

同時に、全体的にポップな色彩設計(敵の世界のおどろおどろしい表現でさえもその設計に準じていた)とテンションは、子供向けとしてもちゃんと見やすかったように思う。 

www.build-lupin-vs-pato.jp


8/8

カメラを止めるな!』(上田慎一郎監督)を観た。

この大ヒットの理由は「ネタバレを知らずに見た方がいい」という気になるクチコミが拡散したのと、もう一度見たくなる内容なのでリピーターが多いから、と推測した。

観終わって、いたく感心した。前評判通り脚本がとても良くできている。三谷幸喜を思い浮かべる人が多いと聞いてたけど、俺が思い浮かべたのは宮藤官九郎だった(内田けんじという人も思い浮かんだけど、クドカンの方が近い)。特に『木更津キャッツアイ』だった。こっちの方が資質は近い気がするが、どうだろう。

しかし、脚本が良く出来てるだけでなく、その演出に、映像の現場での叩き上げ感があって、それがとても泥臭い感じがして良かった。全ての映像制作の大変さと楽しさを高らかに宣言している内容で、感心だけでは終われず、感動せずにはいられなかった。

まず、何もわからずに最初のAパートを見ていると、変な間や微妙なカットが連発で頭の中にたくさん疑問符がつく。しかし、その悪手が謎解き編のBパートでいつの間にか見事な好手に変わっている(『ヒカルの碁』みたいな表現にしてみた)。それが、とてもスッキリする快感。それはAパートとBパートでギャップがあればあるほど気持ちよくて、演技している役者とその役者の素顔の落差や、意図していた演出と事故との差異など、観るべきところはたくさんある。

そして、その演出は細部にまで行き届いていて、何度も観たくなる。あの一発撮り・生中継というルール設定は、この映像に事件が起きるために相当考えられていて上手い。プロデューサーがプロジェクトTシャツを着ないで部外者っぽいという設定は、最後に皆が力を合わせるシーンへの布石になっている。という具合に、終始とにかく細かい伏線が張り巡らされている。

そして、この映画は『映画に起きる魔法』を信じている。当初の意図とは変わっていても、不運や事故があったとしても、結果良いものができるということは、きっと多々ある。映画はカメラが捉えたものが全てだけど、その舞台裏にはいつもこんな汗と涙が滲んでいるんだと思うと、全ての映画が愛おしくなる。そう思わせてくれる。

予算が増えたらどんな映画を作るのだろうか。次回作は気になる。

後から聞いたライムスター宇多丸氏の映画評にあった「フィクションとメイキングがシームレスに折り重なっている」という表現にはとても納得した。メイキングにも作品と言えるほど面白いものはある。その面白さまでぶっ込んでいたのか。 

kametome.net

 

8/8

Netflixで『オレンジ・イズ・ニュー・ブラック』(ジェンジ・コーハン監督)シーズン1を観始めた。

www.netflix.com

 

7/25

万引き家族』(是枝裕和監督)を観た。

真面目。観終わってから言葉が出てこなくてなんだかモヤモヤしていたんだけど、やっとこの言葉が思いついた。監督は敬意に値するほど超真面目。真摯に日本の現代社会に向き合ってこの映画を撮っていた。

社会への問題提起を孕んだ枠組みだけ作り込んで、その中で役者がバチバチと演技に見えないレベルの演技をして、それを映像に捉えた結果、映画になっていた。という作り方もそうだし、一貫している切実さも『誰も知らない』に似ていて、精神的な兄弟みたいな作品だと思った。この社会性の映し方が、最近のカンヌ映画祭で好まれる傾向なのだろう。

一つ一つのショットは、込められた意図を受け取りやすいと思う。難しく考えなくてもよい、というか。全体的には猥雑で美しい生命力に満ちている。それを充分に体現していた『家』が主役と言ってもいいのかもしれない。

安藤サクラが魅せる濃厚過ぎる人間味にはドキドキするし、樹木希林の妖怪じみた異形っぽさはゾッとする。松岡茉優の育ちが良さそうな雰囲気は上手い。城桧吏は美しい。

また、チョイ役で出る人達も上手くて豪華。所謂世間で言われる正論を背負う高良健吾池脇千鶴の非人間的な感じも巧かった。

gaga.ne.jp

 

7/15

『ミッション・インポッシブル/ローグ・ネイション』(クリストファー・マッカリー監督)を観た。

冒頭のシーンからワクワクしまくるバカ映像!ここだけでも映画館で見たかった。トム・クルーズがプロデューサーなだけあって、そのスター的サービス精神が強く反映されている。

見せ場がほぼ間断なく詰め込まれていて飽きない上に、話の流れをちゃんと思い出せるほどおかしな展開が無い。

それは、「この窮地をどう脱するんだ?」「コイツは裏切り者なのか?」「これも敵の作戦のうちなのでは?」等の様々なスペクタクル要素を上手く使って、必ず予想外の展開を魅せながらも、なるべく物語に矛盾を持ち込まないようにしてるからだろう。よくあるダメな映画のように、裏の裏の裏の裏の…と予想を裏切ろうとした結果生まれる矛盾を作らないようにしている。それは、映像的に「見たことのないもの」を作る場面を作ることで回避できているのかもしれない。

『正義は勝つ』というお約束の期待は裏切らず、勝ち方では予想を裏切る。気持ちの良い最高のエンターテインメントだった。

前作『ゴースト・プロトコル』に比べると急激に話がスケールダウンした気もするが、これはこれで大人も楽しめるリアリティを作ったということかもしれない。また、対007も意識しているのではないだろうか。

そして、イーサンがベンジーを好き過ぎだろ。