あたらしい過去、なつかしい未来

おい、あんた、今は西暦何年だ?

とタイムトラベラーみたいなセリフを言いたくなる2018年だった。

11月頃、小学館系の漫画解説本シリーズの『あだち充本』を読んだ。

あだち充があの『軽さ』を出すために、編集者とかなり微妙でアツイやり取りをしていたというのが特に面白かった。雑談しかしない編集者との打ち合わせ、なかなか編集者の言う通りに描かないあだち充。この偏屈さとシャイネスに、俺は無意識に惹かれていたのかもしれない。その象徴たる『あだち去り』という姿勢の取り上げ方も素晴らしかった。

というわけで、あだち充作品を読み返したくなった。一番好きな『ラフ』を読み直そうと思ったのに、持っていなくて驚いた。思い返してみれば、古本屋で一度立ち読みしただけなのに、何度も読んだ気分になっていたようだ。それほどに脳裏に焼きついていたのだろう。それで、わざわざ買って、いざ改めて読み返してみると、ブスの扱いが酷いと感じた。具体的に言えば、男子寮と女子寮の代表者がデートする話で、男子皆がブスとデートしたがらないという部分だった。その女性は徹頭徹尾ブスとして扱われ、報われることも無い。ここが気になるのは、2018年の俺に芽生えているポリコレ的視点なのだろう。

いや、待てよ、主人公はどんな時もブスをブスとして扱っていないんじゃないか?それがモテる要因かもしれない。

一方で、二ノ宮亜美は見た目も性格も相変わらず超かわいい。このボーイッシュな可愛さへの憧れが、後にショートカットの広末~長澤まさみに偏執的に惹かれた原因だったのだろう。

『美少女とつきあう=正義』とする童貞観あだち充によって培われたのでは、と気づいた。これを良いとも悪いとも言わない。自分の成分についての分析に過ぎない。

 


え?西暦何年だって?

他にも2018年を疑う案件がいくつもあった。

テレビアニメでは『ジョジョ第5部』や『バキ』や『からくりサーカス』がやっていた。読んでた当時、「これはアニメ化できないよね~」って俺は一人で謎の優越感を覚えてたよ。そうだな、ダサいな、わかってるよ。ちなみに全部良くできてたよ(特にジョジョ第5部)。

サブスクリプションサービスってのもこの時空の混乱を助長してる。上記のアニメは全部配信してるもんな。

Spotifyを使えば、『ラフ』読んでショートカットの美少女を回想した瞬間に、広末の『MajiでKoiする5秒前』を、即座に聴けちゃう。

元ネタのMK5とかみんな覚えてるか?ホワイトキックは?

チョベリグ?チョベリバ?

 

 

2018年の大晦日、俺は一人で大掃除を少しやることにした。大掃除を少し。いい感じに変な言葉。

家の窓を拭いた。拭ける範囲で、中からも外からも拭いた。

もっと早くやれば良かったのに、いろんな理由をつけてるうちに、大晦日になってしまった。

雑巾が見つからなかったので、古くなったハンカチやら肌着やらで拭いた。普段家事をやる時と同じように、最近買ったBluetoothイヤホンでラジオを聴きながら拭いた。

色々聴いたが、最後にradikoのタイムフリーで『菊地成孔の粋な夜電波』最終回を聴いた。

この番組を聴き始めたのは、2012年だったか、2013年だったか。終わるとは思ってもみなかった。

菊地成孔がかけるなら、その音楽はクール。

菊地成孔が話すなら、その馬鹿話は喜劇で悲劇。

好きな回はいっぱいあった。

順不同で挙げれば、パニック障害になった時の話、映画『ベイビー・ドライバー』を賞賛する回、昔住んでた高円寺を歩く回、クリスマスの思い出の回、数々のグロテスクなエロスを含むコント、筒井康隆の降臨した回、ジョビンの『三月の水』、前口上にある「力道山刺されたる街・赤坂~」の言い回し。

これからも記憶の奥底にはあるけど、徐々に思い出しづらくなるんだろう。思い出すための装置として、書籍は買っておこう。

時刻は夕暮れ時。少しずつ窓の汚れが見えづらくなってきた。風は無かったが、気温が低くて指先は冷たかった。

幼い頃、大掃除の時に窓を拭くのは父親の仕事だった。何でも面倒くさがる父親が黙々とやっていた。

親に甘えていた俺は、殆ど掃除をしなかった気がする。

家の中から窓を拭く父親を見ていた。

その父親の姿に、いつの間にか現在の自分が重なっていた。父親は2018年の年末も窓を拭いたんだろうか?

この時、俺の息子は寝ていた。そのうち、俺は息子に大掃除をするように促すのだろうか?素知らぬ顔で言えるだろうか?

怠けていた過去のツケがまわってきた、と感じた。

 


え?今日?2019年だよ。平成も終わるよ。

当たり前だろ。