2017年に読んだ本の記録

2017年には電車での通勤時間という貴重な読書タイムを多く奪った戦犯がいた。

ドラゴンクエストXI』である。

気づけば70時間以上も冒険していた。

その結果、読書量は削られたかもしれないが、勇者になっちまったんだから仕方のないことか。

しかし、前年より全体の読書量は増えた気がする。小説以外を手に取る機会も増えた。特に映画に関する本は多く読んだ。他にも、エッセイやノンフィクションも好きになってきたし、地理・歴史・世界情勢・政治経済という苦手意識があったジャンルにも少しずつ興味が湧いている。加齢に伴う興味の変化とも言えよう。

ラジオで本の情報を得る機会も多かったような気がする。

そして、一つ今後の指針を立てた。

いろんな国の小説(文学)を読んでみよう。

菊地成孔がいろんな国の音楽を聴いているように。まだ『やし酒飲み』でしか実践できていないが、2018年には何冊読めるだろうか。

以下、例年通り、遡る形での記録となる。ネタバレという罪を犯している可能性は高いので、危険を感じた際には流し見をお勧めする。

 

 

12/6
『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子)を読み始めた。

 

11/24
『「いい写真」はどうすれば撮れるのか? プロが機材やテクニック以前に考えること』(中西祐介)を読み始めた。

 

 

11/14〜12/5
『やし酒のみ』(作:エイモス・チュツオーラ/訳:土屋哲)、読了。
なぜこんなに『神話』だと感じるのだろうか?展開や登場人物が突拍子も無いから?一人の男の冒険譚だから?そして、全体的にジャングル特有のグロテスクさはあるが、起きていることが日本の古事記とかの雰囲気に似ているのが不思議だった。

しかし、主人公の態度は違う。いろんな脅威に対して、現実的な判断をして逃げることが多い。その点は解説にも書いてあったが、風土の影響もあるのだろうか。

読み始めてすぐに、和訳の文章が少し変で、ところどころ、英語を無理矢理に漢字の熟語に訳したような堅苦しさや野暮ったさがある、と気づいた。読んでいて妙につまづいた。「アフリカの言語の英訳を和訳したせい?」「言葉が古びてしまった?」「訳が悪いのかな?」と適当に納得していたが、解説を読んで、これは意図的に違和感を与えるための訳らしいと知って、かなり驚いた。どうやら原文は英語らしい。その前提で思い出しても、あの奇妙な文体の意図はよくわからず、ただ変なものを読んだ、という思いだけが残った。あれが意図的な和訳だと知った上で読み直せば、また違う読書体験になるかもしれない。

 

 

10/14〜11/13
菊地成孔の欧米休憩タイム』(菊地成孔)、読了。
自分が率先して見ることの無さそうな映画の映画評が多いが、どれも読んでいるうちに気になってくる。『面白そう』とはっきりと思えるわけではなくて、とにかく気になってくる。それはいかにも菊池成孔の仕事であり、アクロバティックな装置を仕込んだ文章や、飄々として物凄くドライブ感のある独特な語り口が為せる技だった。毎回、作品を語るために選ぶ武器が意外で面白い。都市論の部分は切り離してもっと膨らませた文章でも読んでみたい。どの文章も、目の付け所(視点と視線の置き場)にいつも驚く。誤植の多さには目をつぶろう。 

 

 

10/11〜10/13
『往復書簡 初恋と不倫』(坂元裕二)、読了。
本にしてくれたことに感謝した。本来は朗読劇だったらしいが、電子メール(一部は手紙)のやり取りのみを作品にしているという点を考えれば、音声ではなくテキストで読むという体験が、一番この作品にふさわしいと思う。もちろん、俳優達による発声がもたらす効果も気にはなるが。

「行間を読む」という言葉があるが、メールのやり取りの間に何かが起きる以上、その間を物凄く想像することになり、小説などよりも「行間を読む」行為の純度が高い。この往復書簡という形で物語を書いた人を他に知らないのだが、素晴らしい発明だ。

物語自体は著者のドラマ脚本でも慣れ親しんだ、固有名詞や小道具の巧みな使い方が印象的なものになっていた。メールを打つという時間差が生む特殊性もうまく利用して、驚くような展開も作っていた。また、後で思い至ったのだが、メールのやり取りという閉鎖性から、第三者が読んで恥ずかしくなるという現象が起きるのも当然だった。

交流する瞬間だけが見せ場ではなくて、すれ違う瞬間に生まれる豊かな感情も見せ場になっている。それも著者の作品の突出した特徴だろう。そして、それらには、一般的な日本のドラマとは一味違うドラマ性がある。

 

 

10/4〜10/10
『東一局五十二本場』(阿佐田哲也)、読了。
こんな風にテキストの中に麻雀牌が普通に入り込んでくる小説は初めて読んだ。麻雀小説というジャンルなのだろうか(『麻雀放浪記』とかもこの形式なのか?)。

麻雀について専門的な知識があまり無くて細かいやり取りの妙がわかっていないのが悔しいが、それでも、博徒の『今だけを生きる生き様』はもの凄い迫力なので、素人でも読み応えがある。どの短編からも、賭け事にのめり込むことの恐ろしさと楽しさが、興奮と共に伝わってくる。みんな勝負に忘我の瞬間を求めている。大抵の賭け事は身を滅ぼすが、みんなそうしたがってるようにも見えた。漫画『坊や哲』に出てたダンチの登場は嬉しかった。

長谷川和彦の解説も、著者の怪人ぶりや生き様を軽妙に描いてて楽しかった。っていうか、この二人繋がりあるんだな。麻雀小説ではない色川武大の小説にも興味が出てくる、入門的な一冊だった。

 

 

9/23〜10/3
『それでも、読書をやめない理由』(作:デヴィッド・L・ユーリン/訳:井上里)、読了。
読書をしている時の感情や思考は、ぐるぐるとしたり悶々としたりしていて、単純にそれが楽しいわけでもない。

それでも、なぜ読書をしたいのだろうか、とよく思っていたが、その答えの一つは本書に書いてあった「価値観を揺さぶられるため」かもしれない。初めて納得できる答えを得て嬉しい。読書からは、映像よりも漫画よりも音楽よりも、価値観を揺さぶる可能性(あるいは危険性)を感じる、ような気がしてきた。著者は息子との文学についてのやり取りをきっかけにして、いろんな文献や記事から読書に対するいろんな見解などを引用しつつ、読書体験について考えていく。その過程では、現状に即した読書のあり方や電子書籍についての見解も経由する。そこに、本が中身に集中するしかない点に魅力があるという言及があり、それもとても納得した。読書という行為自体の歓びも書いてあって、それがまた読んでいて楽しい。

そして、いろんな本が読みたくなる。中でも、読んだことあるのに『グレート・ギャッツビー』は特に読みたくなった。

 

 

9/20〜9/22
『星の子』(今村夏子)、読了。
両親が入信していたために幼い頃から新興宗教に入信している二世信者の主人公は、その宗教がどっぷり入り込んだ状態で生活するしかない。もうそこには、『信じる・信じない』という選択肢は無い。その微妙なスタンスで描き切っているので、読んでいる方もどういう心構えで読めばいいかわからなくて戸惑う。新興宗教への肯定も否定も簡単には許してくれない感じ。その不安定な気持ちの時間が楽しかった。

更に言えば、この作品の主人公の両親は真っ先に入信してしまうが、きっかけは病気がちだった主人公の健康を願う気持ちだった。この入信までの流れは、シミュレートしてみると、わからないでもない。この辺りは読者を惹き込むテクニックとしても、意地が悪い。主人公の両親は新興宗教に盲信に近い状態で、それがあのラストの行動を引き起こしている。ように見えるのだが、ハッピーでもバッドでもあるエンドにはひどく動揺した。

主人公は少し変なところもあるようだが、概ね普通の女の子のように描かれており、新興宗教は狂気へ導かないし、その逆で狂気が新興宗教へ導いたりもせず、不穏さだけをほのめかすバランスがずっと居心地の悪さを生む。

また、中三の主人公という年齢も絶妙で、安易に同級生の中でイジメが起きたりせず、大人からの眼差しの方が歪んでいるというのも、ドキッとさせられた。新興宗教に入信するのも、新興宗教を過剰に敵視するのも、子どもじゃなくなった人たち。盲信と思考停止は、大人がセットでハマってしまう甘くて怖い罠。

 

 

9/11〜9/20
『映画評論・入門!』(モルモット吉田)、読了。
映画評論を書くための入門書というよりは、(その要素もあるがそれだけではなく)映画評論史を通して映画評論という文化全体を楽しむための入門書だった。

昔の映画評論争のなんとスリリングなことか。映画も映画評論も、確かに社会に影響を与えていた時代があったんだ。元々、北野映画の評価の変遷などに興味があって買ったのだが、公開当時の他の映画の評価などもわかる。特に『リアルタイム映画評論REMIX』は最高。名作としてしか知らない映画の当時の評論を読むと、改めてフラットな視点でその映画を確認できるし、映画評論が世相や世論に左右されてしまうという事実もよくわかる。

評価が高いとされるものばっかり見てるんじゃねえや、俺!そして、評価が高くても感想を臆するなよ、俺!

そして、裏テーマとなっている増田貴光氏の話は映画で見てみたいくらいに強烈。映画は人を狂わせるのか、人生を狂わせるのか。それにしても、著者の丹念な取材とそれをまとめ上げる構成力が感動的。

素晴らしい映画評論を書くのは本当に大変そうで、俺にはできる気がしなかった。

 

 

9/7〜9/10
『ボラード病』(吉村萬壱)、読了。
震災直後に色濃く存在した不穏な空気は、実は今もずっとあり続けている、というのを突きつけてくる。そのことをいつの間にか忘れていた自分が気持ち悪い。

表面的に今は噴出していないが、現代の日本ではその不穏さをベースとして、その上にみんな生活している。不安な現実を直視したくない気持ちはわかるが、その現状は不気味だ。自分も含めて。

作中で徐々に語り手の情報がわかってくるやり方が面白かった。母と同居している大人の女性→小学生の女の子→大人の女性の回想録、という風に、語り手は変わらないのに、その語り手の情報は移り変わっていて、その謎が展開を作っていた。主人公と周囲とのズレにある居心地の悪さは、震災以後感じる不穏さを無視している読み手にも、そのまま居心地が悪い。現実を直視しないための方法は考えないことだ。作中では綺麗な言葉で現実を覆い隠して、それを他の人にも強要して、思考停止を促す。このやり方の暴露は、まっすぐに今の日本を糾弾している。作家の勇気を感じる。

自分もみんなも気味が悪い。

 

 

9/1〜9/6
『パルプ』(作:チャールズ・ブコウスキー/訳:柴田元幸)、読了。
『L.A.ヴァイス(インヒアレント・ヴァイス)』や『ビッグ・リボウスキ』みたいな、探偵小説モノを下敷きにして面白おかしく再解釈した作品群を思い浮かべながら読んだが、最終的にそれらとは違った。

小説自体がジョークのような代物だった!

物語は酒場で進展する。主人公の探偵は奮闘しているが、大抵は展開と無関係にお酒を飲んだくれているだけだ。ワケあり美女と、頭の悪い大男が頻出するが、それが探偵小説の定番なのだろう。そんなハードボイルド風の物語に宇宙人や死神が滑らかに物語に入ってくるのが、めちゃくちゃ面白い。

また、事件が動きそうでも、主人公がすぐに動かないのが可笑しい。その休憩のような時間が、まるで作者の休憩のようなリズムで頻発する。柴田元幸のあとがきを読むと、この小説に畏敬の念も抱いてしまうが、まあ、この馬鹿馬鹿しい話は馬鹿馬鹿しい話として受け止めておくのが一番楽しめるし、ふさわしそうだ。

  

 

7/21〜8/31
『ゲンロン0 観光客の哲学』(東浩紀)、読了。
世界の状況を確認して絶望しつつも、可能性が見える新たな希望を作り上げていた。全編にわたるその姿勢が感動的。

気づけば、著者の本は小説も含めて結構読んでいるが、本書でも書いてあるように、この本はそれらに連なる続編のようだった。著者の思想が一貫していることがわかる。

また、何かのインタビューでも読んだ表現だが、『要約力』が凄い。単語見ただけで難解に思えて辛くなる概念を、勇気を持って要約して説明し、読者の理解度を押し上げて著者の伝えたい内容に到達させてくれる。ネット上では今日もウヨクとサヨクが戦っている。その争いは醜く、彼らの多くが魅力的ではないし、彼らのどちらにも100%は賛成できない。そんな現状を傍観して悲観するしかない自分は最悪。

そんな悲惨な状況にある世界と自分を、少しでも変えるための最初の一歩になりそうな、新たな視点を得るためのカッコいい本だった。

 

 

7/20〜7/21
コンビニ人間』(村田沙耶香)、読了。
感情や心は、人間の中にあるのか?あるかどうかわからないそんな曖昧なものではなく、身体外部にあるコンビニの情報に動かされている人間の話。

読みながら、誰もが少なからずそういう部分があるはずだと気づいた。コンビニほどマニュアル化してある職場は一般的ではないかもしれないが、その職場で働きやすい役割もルールもあるので、それに合わせると生きやすくなる。その前提も踏まえた上で、人間が周囲からの影響を受けるものだというのは、全くその通りだと思う。人間が生きるために周囲の状況や人から情報を獲得して対応する様子に、感情とか心という名付けがあるのかもしれない。

主人公はそういった外部情報とそれから受ける影響に、過度に意識的なために『普通』からズレているように見えた。無理に『普通』に合わせようとするのがまた可笑しくて、会話から伝染したという『!』の使い方には笑った。ズレた会話の作り方がめちゃくちゃ上手い。いわゆる普通の人ではない人(むしろブッとんだ人)主観で語り切っているのも凄い。読み手もメディアも、作者と主人公を混同しやすいだろう。

地元にいる奴らがあまりにステレオタイプである点は少し気になった。 

 

 

7/16〜8/1
『マイ・リトル・世田谷』(しまおまほ)、読了。
過去だろうが現在だろうが、記憶が風景の見え方を大きく変える。たくさんの何気ない会話・言葉・気持ちが積み重なって、現実が出来ていく感じがする。しまおまほの周りはそうなっていて、いや、きっとみんなそうなってるはずなんだ、と想像すると何だか楽しくなる。

嘘っぽくなく、世界を肯定していた。

 

 

7/5〜7/19
『自生の夢』(飛浩隆)、読了。
毎度のことながら、機械や無機物などに生命力(もしくは魂)を漲らせて蠢かせる描写にとても動揺する。そして、名作『グラン・ヴァカンス』を彷彿とさせる、人間のいない世界による人間のエミュレート描写は、その虚構の構造自体も含めて面白くて、この小説群が実は人間ではないもの(もしくは人間+機械)による作品なのでは、と一瞬でも疑えるメタ性が面白かった。

また、あとがきを読むまでどの作品から書かれたのか全然わからなかった。アリス・ウォンの作品群は凄い。文字の暴走という表現にはもの凄く脳が刺激を受ける。このシリーズはまだまだ書けそうだし、この先も気になる。

 

 

6/7〜6/23
団地のはなし〜彼女と団地の8つの物語』、読了。
団地いいな、と思ってしまった。それは東京R不動産の思うツボ。この本は『団地』という概念自体の広告としても機能させる特殊な本だった。団地そのものを本の形に落とし込んだ装丁も良く出来ていて、小説、漫画、写真、対談、エッセイという内容の多様性も、団地の懐の大きさを表現していた。
アプローチの方法は色々だが、どの作品も、自分の得意な分野に上手に『団地』を持ち込んで、古き良き団地の素晴らしさと、現代の社会生活にフィットさせた団地の新たな価値の見直しに繋げていた。唯一、冒頭の山内マリコの短編には「書きたい」という意欲が感じられなかった。「依頼のあったテーマで書いた」。それ以上でもそれ以下でも無いように見えた。別に悪いことではないが、もう書きたいこと無いのかな。

エントランスの屋根が低いというのは、団地に通底する共通のイメージらしい。

 

 

5/29〜7/3
『時間のかかる読書』(宮沢章夫)、読了。
慌てて読み進めないことと、時間をかけて読むことは大変難しい、と初めて思い当たる。もっと脱線したり、日記のようになったりするのを想像していたので、ゆっくりでもちゃんと読み解こうとしている姿勢に少し驚いた。このやり方で最後までやれるのか、とずっと疑問を抱いたまま読み終わった。やり切っていた。

『小説』として読めるが、『壮大な冗談』として読める点が素晴らしい。意図的な勇気ある誤読には笑った。最後に横光利一の『機械』が入ってることに、また驚いた。宮沢氏による時間のかかった『機械』論を読んだ後に本編を読むことになるのだが、自分で読むと宮沢氏の読み方の可笑しさがよくわかる。

そして、宮沢氏の『機械』論を読んだ後に『機械』を読んでしまったことで、真っさらな気持ちで『機械』を読んだらどんな心地がしたのだろう、と作品享受の不可逆性を強く感じた。

 

 

2/12〜6/7
『ダメをみがく "女子"の呪いを解く方法』(津村記久子 深澤真紀)、読了。
トイレで少しずつ読み進めた。ダメな人の肯定をテーマにしてて、実際にこの本はそれを実践できているのだが、深澤真紀の発言が若干過剰な気もして、納得しづらい部分もあった。どうやら、ダメであることの過度な肯定に自分は不安を感じるみたいだ。

しかし、ダメであることを受け入れつつ社会適応するためのテクニックはどれも面白くて、特にポモドーロ・テクニックはぜひ試したいと思った。ダメであることは言わば個性の一部なので、どうにかして付き合っていくしかない、という姿勢がこのテクニックによく表れている。

また、子どもの有無によるステージの変化については、最近よく考えることだったので、腑に落ちるものがあった。子育てが趣味や交友関係を制限するのは一時的なものだと思う、多分。

そして、転職はできればたくさんした方がいいのかもしれない。いきなり失職したらどうすればよいのだろう。

などと新たな悩みは尽きない、というか、増やしかねない本でもあった。 

 

 

5/26〜5/28
VTJ前夜の中井祐樹』(増田俊也)、読了。
なるほど、確かに『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』『七帝柔道記』というサーガの中に属する本で、その二冊を読んでいた方がより楽しめるのは間違いない。『木村政彦は〜』が未読だったので、少し読んでしまったネタバレを、今必死に忘れようとしている。

表題作『VTJ前夜の中井祐樹』は『七帝柔道記』に比べると、筆者が当事者ではない上に、ノンフィクションにより近い形式内での記録者・報告者である分、熱量が低いようには見えるが、伝えようとする静かな気迫をしっかりと感じる。『七帝柔道記』の登場人物も多数出てくるので、やはり『七帝柔道記』を読んでから読んだ方が感慨も深まるだろう。もちろん、『七帝柔道記』を読んでなくても、中井祐樹の魅力で存分に楽しめる内容ではある。

次の『超二流と呼ばれた柔道家』は、他の短編集で以前読んだ内容だったけど、中井祐樹の物語の後に読むと、同じテーマの通底が感じられて読み味が違った。最期の和泉唯信氏との対談は、『木村政彦は〜』と『七帝柔道記』を著者と和泉氏が俯瞰した視点で捉えつつ、『七帝柔道記』以上に和泉氏自身の魅力を伝える内容になっていた。和泉氏の発言の真摯さには感動した。

中井祐樹、堀越英範、和泉唯信。こう並べると、この三人は人生において相手との勝ち負けではなくて、目の前の自分との戦いを大事にしているのが確信できる。それが武道なのかもしれない。 

 

 

4/27〜5/15
『ゴッドタン完全読本』、読了。
やっぱり最高に最低!膨大な量のインタビューと文章が、ゴッドタンが如何に特別な番組であるかを教えてくれる。

考えてみれば、俺は前番組の『大人のコンソメ』から見ていた。『ブルードラゴン』という口論だけで相手に罰ゲームをさせる企画があったのだが、それで小木ドラゴンが『自分を人質にして相手を脅迫する』という荒業のために、ライターで手を炙ったのを今でも鮮明に覚えている。受験勉強を放ったらかして俺は大爆笑していた。だから、あの頃からずっと特別な番組だった。そんな風に色々思い出してしまう内容だった。

その中で、特に面白く感じたのは、多くの人が劇団ひとりの天才性に言及している点であり、ゴッドタンが劇団ひとりの番組であるという点だ。言われてみれば、あの人天才で、そのためにある番組かもしれない。そうか、下品なことやブッとんだことにも天才はいるんだ、と改めて気づいた。

 

 

4/18〜5/25
アメリカ』(作:フランツ・カフカ/訳:中井正文)、読了。
カフカの本が世の中に沢山あって嬉しい。冒頭から最高じゃないか。その瞬間を懸命に生きているだけなのに滑稽に見える。これは全ての生き物に当てはまるとも言えるかもしれず、目新しくないけれど、それを小説で読める歓びは、そう簡単には経験できない。

俺の大好きなロードムービーである点も最高だった。訳の分からない奴らがどんどん現れて、いつの間にやら主人公が予想外過ぎる展開に巻き込まれるのが滅茶苦茶面白い。その展開の分からなさによって、不思議と先が気になる。それに、この小説の基礎と言えるコミュニケーション不全っぷりが、笑えて仕方ない。

それにしても、訳が古い。一人称が『拙者』はあり得ない。忍者かよ。

 

 

4/11〜4/18
『観なかった映画』(長嶋有)、読了。
観なかった映画も、観ていない映画も、観ない映画も、いっぱいある、と改めて思った。

でも、やっぱり観たい映画がいっぱい増えた。映画を映画の外から語るようなこのやり方は、長嶋有の小説などから感じる創作のスタンスに近い。いつの間にか見たことない視点に連れて行かれていて、大変楽しかった。 

 

 

4/10
『柿の種』(寺田寅彦)を読み始めた。落ち着いて読んだ方が良い。忙しない電車の中とかでは読めない。

 

 

3/29〜4/6
『七帝柔道記』(増田俊也)、読了。

読んでいる間ずっと苦しいし、読み終わったからと言って、その苦しさから簡単には解放されない。練習風景の描写は地獄のように苦しいし、物語自体も極限に苦しい。夢中で読み通しても結局安易なカタルシスは得られない。ずっとこの小説に首を締められているようだった。それでも、その苦しさと同時に強烈な面白さを感じて、胸を打たれる。
癖のある魅力的な登場人物、極限状態の心身、微妙な人間関係、青春を感じさせる会話や行動、北海道の景色や気候。それら全ての描写がリアルで、熱を帯びている。
こんな青春があり得たのか。いや、殆どの人が経験し得ない。絶対経験したくないのに、その経験が羨ましいという不思議な感情を覚えた。とにかくずっとのめり込んで読んだ。柔道のことがわからなくても全然問題無い。どっちみち、この七帝柔道を知ってる人はきっと少ない。
知ってよかった。努力は報われるのか?報われるに決まってる。どんな形かは問わない。

続編が刊行されたら読みたい。

 

 

3/21〜3/29
『ヒットの崩壊』(柴那典)、読了。

答えが欲しくて急いで読んでしまった。『音楽がヒットする』という現象に注目して、今までとこれからを論じていた。それは、「どのように音楽にお金を払うか」という形態の変容と密接に関わっている。音楽が「所有する」対象から「アクセスする」対象に変わったというのは、感覚的に気づいていたが、明文化されてとんでもないパラダイムシフトだったと気づいた。

著者が他の業界の先行指標にしてほしいと発言していたが、全くその通りだ。

 

 

2/25〜3/17
『誰が音楽をタダにした?巨大産業をぶっ潰した男たち』(作:スティーブン・ウィット/訳:関美和)、読了。

MP3開発者、MP3を使って違法行為にのめり込む海賊、MP3に次第に翻弄される音楽業界の人間、という三者三様の立場から、音楽の在り方を塗り替えたMP3の興亡史を描いていた。

膨大な調査による肉付けによって魅力的に描かれる三者が出会うことは無く、それぞれが自分達の世界でやるべき事をただやっていただけで影響し合っている点がまず面白い。インターネット社会がその要素に拍車をかけている点もある。それに加えて、男が成功するまでを描く伝記的な要素や、捕まえたい側と逃げる側との攻防を描いたスリリングな犯罪小説的な要素など、エンターテインメント要素をたっぷり詰め込んだ上で、音楽の在り方と時代の移り変わりを描き切っているのがすごい。

  

 

2/17〜2/24
ガケ書房の頃』(山下賢二)、読了。

「何がどうなってもなんとかなる」と思わせられる超ローリングストーンな人生の記録。読むと元気になる。人が人生で必ず一冊は書けるという種類の一冊。

ガケ書房を経営してる部分がハイライトというわけでもなく、人生全てにドラマがあるから、全てにハイライトを照らしている。本当に本が好きで、読書という文化を未来に継承するためのことを考えている姿が嬉しい。俺もそうありたい。

書店経営の考え方や、スマートフォンについての思索など、エッセー的な部分も感心する文章が多い。

  

 

1/20〜2/16
車輪の下で』(作:ヘッセ/訳:松永美穂)、読了。
超俯瞰で物語世界を掌握する神(作者)視点の小説は久しぶりに読んだ。その点はいかにも古典で、人物の心情まで説明してくれる余白の無さには、なかなか慣れなかった。

それでも、光り輝くような瑞々しい情景描写や、若者特有の悩みをしつこく丹念に描く心情描写には、嫌でも心動かされる。また、鬱病みたいな症状も凄くリアリティを感じる描き方だった。青春は始まった時から失われる予感を含んでいることに気づいた。

 

1/23
車輪の下で』を読んでいる。冒頭から独特の読ませる力を感じる。老成した若者が懐かしむ青春時代の瑞々しさが、読んでてかなり面白い。風景の美しさは読んでて楽しくなる。

しかし、この通底している切なさは何だ。青春が失われたという事実、あるいはハンスから青春が失われる予感に寂しさを感じているのでは、と推測した。

 

 

1/5〜1/18
『観ずに死ねるか!傑作音楽シネマ88』、読了。
知っていて観てない映画や、観て面白くなかった映画も載っているけど、わざわざ紹介されてると面白くみえる。極めて私的に見える映画の感想なんかでも、やはり面白そうに見える。その度合いにはバラつきがあるけれど、映画を介して評者との親密さが増すような錯覚を覚える。

青春シネマより評者は冷静に見える。

 

 

2016/12/16〜2017/1/5
『地鳴き、小鳥みたいな』(保坂和志)、読了。
どの作品も、脱線だろうがなんだろうが、ひたすら思考の変遷を書いていくというスタイルで、それが徐々に実験的に更新されていく感じだった。

表題作の「あなた」に語りかけて始まる実験性も面白かったけど、最後の『彫られた文字』が保坂和志の最新の小説観なのだと思う。この作品では、人称と脈絡の撹乱が最高潮に達しており、論理性などを度外視している部分がある。この『撹乱』という言葉は本文からの引用だった。自分の語彙に無い。

今回、著者は一貫して〈感じ〉や〈雰囲気〉みたいな漠然としたものを、言葉で限定していき、読者との共有を図ろうとしていた気がする。だから、読んでいる間、何かを共有している感覚がずっと面白かった。

 

2016/12/29
『地鳴き、小鳥みたいな』(保坂和志)に書かれていることを思い出す。周到に読者の誤解を避けようとしている。読む行為には必ず誤解が生じるというのは大前提だ。そして、一言で伝わることなら小説を書く必要も無い。

 

2016/12/22
『地鳴き、小鳥みたいな』(保坂和志)に書かれている思考の跳躍・飛躍は、酔っ払いのようだ。DOMMUNEに出た保坂和志の映像を見た人の感想に「保坂和志がただの酔っ払いみたいだ」と言っていたのがしっくりきたからそう思った。『記憶』と『記憶を語ること』の間に生じるズレにはいろんな原因があって、彼はそのズレを創作の中で試行錯誤しながら楽しんでいる。

 

2016/12/15
『地鳴き、小鳥みたいな』(保坂和志)を読み始めた。
読点の使い方が日本語のネクストステージ、あるいは、別世界に向かっている。『夏、訃報、純愛』は『未明の闘争』の時よりも思考の変遷を追体験するような小説になっていた。遠藤と近藤は実在したのだろうか?こんな用意されたような名字の2人が近くに存在し得るのか?