2016年に読んだ本の記録

12/29

『地鳴き、小鳥みたいな』(保坂和志)に書かれていることを思い出す。周到に読者の誤解を避けようとしている。読む行為には必ず誤解が生じるというのは大前提だ。そして、一言で伝わることなら小説を書く必要も無い。
 
12/22
『地鳴き、小鳥みたいな』(保坂和志)に書かれている思考の跳躍・飛躍は、酔っ払いのようだ。DOMMUNEに出た保坂和志の映像を見た人の感想に「保坂和志がただの酔っ払いみたいだ」と言っていたのがしっくりきたからそう思った。『記憶』と『記憶を語ること』の間に生じるズレにはいろんな原因があって、彼はそのズレを創作の中で試行錯誤しながら楽しんでいる。
 
12/15
『地鳴き、小鳥みたいな』(保坂和志)を読み始めた。
読点の使い方が日本語のネクストステージ、あるいは、別世界に向かっている。『夏、訃報、純愛』は『未明の闘争』の時よりも思考の変遷を追体験するような小説になっていた。遠藤と近藤は実在したのだろうか?こんな用意されたような名字の2人が近くに存在し得るのか?



12/13〜12/14
『ババァ、ノックしろよ!』(TBSラジオ「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」編)、読了。
全てラジオで聴いた内容だったが、文字でまとめて読むと、フリとオチが素早くわかるような感覚があって、また違った味わいで面白い。いろんな親子がいて、どの親子の関係も他人からは何とも言い難い微妙さがあるが、ちゃんと必ず普遍性の土台があるから、読み物になっている。



11/1〜12/12
『砂の本』(作:ホルヘ・ルイス・ボルヘス/訳:篠田一士)、読了。
全てが始まる前から決定しているという超常状態を感じられる。それは神の視点で、語られているのは神話のような手触り。話はいつもなぜか不思議な居心地のする方向へ進んでいく。これぞラテン文学か。『他者』や『砂の本』が好きだったけど、一番面白かったのは登場人物がおかしい上に、最終的にわけのわからない話になる『会議』。断片が脳の片隅に居座り続けていて、またどれかを読み返したくなると思う。
 
11/1
『砂の本』(作:ホルヘ・ルイス・ボルヘス/訳:篠田一士)を読み始めた。
いつもどこまで読み進めていたのかわからなくなる。つまり、覚えていられない。しかし、読んでいる間は確かに沸々と興奮を覚える。それが不思議だ。




10/18〜11/1
服従』(作:ミシェル・ウェルベック/訳:大塚桃)を、読了。
世界情勢や宗教観に疎いので、この小説が精緻なシミュレーション小説だというのはわかっても理解できない部分が多かった。解説が引く補助線を読んでようやく腑に落ちた。今のヨーロッパが抱える空気を近未来(限りなく現在に近い)から照射してくっきりと描いていた、ようだ。欧米中心の社会も文化も終局を迎えるのだろうか。イスラム教への関心は深まった。活気と生活力に欠ける厭世的なインテリとして描かれる、旧世代的な主人公。彼がなす術も無く転向していくのは、時代の流れを予言的に象徴しているのかもしれない。どの時代に読んでも『2015年のフランス』を知れる古典に既になっている。



10/11〜10/17
『ドリーマーズ』(柴崎友香)を久々に読了。
本棚にあるのになぜか未読の本だと焦って読んだら、一つ目の短編を読み始めてすぐに読んだことがあると気づいた。その気づくまでの読書体験はとても不思議な感触があって、読んでいる内容と朧げな記憶のそれぞれが不安混じりの期待のような感情を喚起するので、そわそわした。それはある種の夢で起きる感情に少し似ていた。どの短編もとても印象的で、人間が世界に接する時に感じる細やかな感情が、行為や状況の描写だけで豊かに感じられる。それが柴崎友香を読む醍醐味だと改めて感じた。解説を読むと更にわかるのだが、わからない部分が多々ありながら事態が進行するという夢と現実のあり方を、見事に本の中に閉じ込めている。『ハイポジション』のシチュエーションや、『夢見がち』での駅で待つ描写や風景と会話が作る雰囲気や、『束の間』の年末年始の静かな高揚感や、『寝ても覚めても』のSATCっぽさや、『ドリーマーズ』の意識が揺れる楽しさが、好きだ。




10/6〜10/7
くるりのこと』(くるり+宇野維正)、読了。
どうやら、くるりを聴くようになって10年が経っていた。このバンドが何度もメンバーを変えてきた経緯や理由と、アルバムによって大きくテイストが変わるのは密接に繋がっている。二つの事象の因果関係はくるくると逆転するが、その時に何が起こっていたのか、という話は作品と合わせて読むと読み応えがある。くるりがどんなに変わっても、どんな状態でも音楽に立ち向かう(立ち向かわねばならない)岸田氏と、それを楽しみながら共闘する(狂気じみた)佐藤氏だけは変わらないし、これからも変わって欲しくない。



9/29〜10/5
『なぜ人を殺してはいけないのか?』(永井均×小泉義之)、読了。
俺は安易な答えを求めていたのだろうか。考えるための端緒となる内容だったと思う。永井氏の話す内容は哲学者らしいのかもしれないが、どうにも現実味の薄い話が多いように感じた。ロジックを使って言葉を定義しながら、この問いに立ち向かっていて、古びない射程を持った話をしていた。逆に、永井氏も指摘しているように、小泉氏は現在の現実に即し過ぎていると感じた。普遍性を目指しておらず、俗物性すら感じたが、実践的なので納得する部分もあった。というように一長一短なので、自分で考えるべきなのだろう。



9/5〜9/28
『文学会議』(作:セサル・アイラ/訳:柳原孝敦)、読了。
表題作では語り手がまわりくどくてしつこくておしゃべりだった。光が強いから影も強い。そんな世界の描写が何度も現れる。そして、唐突に現実からの脱出が始まり、戸惑う。それは物語からの脱線でもあり、読者のアテは外れ続けて安心できない。もう一作の『試練』は傑作だった。前半は、主人公を通して、世界の感じ方がじわじわと変容していく様子がスリリングに描かれていた。主人公とそれを取り巻く2人の女性の対話が抜群に良くて、『対話』の与える影響と本質的な面白さがよくわかるやり取りだった。後半では、爆発的に世界が変容する。もう別の作品みたいだった。前半にその萌芽はあったはずだが、あそこまで行くとは思わなかった。どちらの作品も、いきなり変わる世界に戸惑いと興奮を覚えた。



8/29〜9/4
『鬼才 五社英雄の生涯』(春日太一)、読了。
なぜこんな強烈な監督を知らず、なぜこんな面白そうな映画達を見たことが無いのだ、俺は。タイトルが五社作品『鬼龍院花子の生涯』を引用していることも象徴しているように、本気で映画のような人生を送っている人だった。とにかく情念の激しさに圧倒される。関係者達も面白くてカッコイイ振る舞いをする。五社英雄は人生にもフィクションを注ぎ込み、現実離れして、映画そのものになろうとしていた。虚実入り乱れる人生を丹念に調べ上げた上で、荒唐無稽になり過ぎないように調整しつつ描き切った筆者の力量も素晴らしい。この仕事は五社英雄の評価見直しの端緒になるのではないか。



8/25〜8/26
『殺人出産』(村田沙耶香)、読了。
真面目で実直な思考実験の末に、筒井康隆的ナンセンスSFのような作品に到達しているのが面白い。その度を過ぎた真面目さや真摯な態度が、裏返ってユーモアも生んでいる。筆者は世間で皆が思考停止して受け入れている概念に、真っ直ぐにナイフのような疑問符を突き立てていく。表題作が特に凄くて、ルール説明のように世界観を読み進めていくと『殺人』『殺意』『死刑』『少子化』『セックス』とどんどん問題提起のようなテーマが挙がってきて、これちゃんと終われるのかよ、と心配になったが、それはいらぬ心配でやたらと綺麗に終わる。一貫してセックスという行為に対する強い疑問を感じる。これは『しろいろの街の、その骨の体温の』でも感じた。もっと詳細な描写が欲しいところで、急に文学的な表現だけで終わってしまうところには、少し疑問を覚えた。



8/21
『本を読むときに何が起きているのか ことばとビジュアルの間、目と頭の間』(作:ピーター・メーデルサンド/訳:細谷由依子)を読み始めた。



8/15〜24
『マンガ熱 マンガ家の現場ではなにが起こっているのか』(斎藤宣彦)、読了。
ユリイカなどで読んだことのあるインタビューは結構あった。マンガ家達の個人史、マンガの描き方、マンガ観などがよくわかる対談集だった。やはり表現者は何かから影響を受けている。表現のバトンをもらい、渡す。田中相というマンガ家を知れたのは大きな収穫だった。



7/26〜8/15
『21世紀を生きのびるためのドキュメンタリー映画カタログ』、読了。
やはり我々は3.11の扱い方と戦っているな、戦わねばならいのだな、と多くの作品から感じた。また、ドキュメンタリーというのはとても実験的で、どの作品もそのドキュメンタリーという構造自体に懐疑的な視点があるようだ。観たい作品は増えたので、カタログとしては優秀だった。



7/15〜7/26
『道徳の時間/園児の血』(前田司郎)、読了。
この二作品は全く違うアプローチだが、共通して【社会】の原始的な部分の描写に挑んでいる。社会は他者から見られる意識から発展していくようだ。『道徳の時間』は寓話として大人の世界に引き込んで教訓的に読むこともできそうだが、そのままの意味で読むべきだろう。例えば、浣腸をレイプのメタファーとして捉えたりしてはいけない。大人と子どもの違いは経験値だけみたいだ。『園児の血』の主人公の意識は、大人と子供を混ぜ込んでいてまだらだ。子どもは絶対にそんなこと言わない、という台詞も多々あるが、一たびそれを許せば喜劇として楽しく読める。小説は懐が深い。



7/9〜7/14
『もっと自由に家をつくろう』(増井真也)、読了。
とても丁寧に真摯に明快に、家づくりの真髄を説明してくれる。作った家に暮らしている人の後日談が載っているのがまた良い。家のデザインは生活のデザインだと改めてわかる。セルフビルドの実践的な説明も面白かった。家を作るための意味・目的・方法を考えるための機会を与えてくれる。これなら、家も楽しく作れそうじゃん。



7/8〜7/15
『IP/NN 阿部和重傑作集』(阿部和重)、読了。
どちらの作品も、自分勝手で強烈な妄想と思い込みが小説を展開させていった末に、破滅を迎える。解説でも挙げている『孤独』が一番の戦犯であろう。『IP』は途中で『ボーン・アイデンティティー』や『ファイト・クラブ』を彷彿とさせる展開をみせるが、文学的としか言えない意識の混濁に向かっていくその流れが、滅茶苦茶に刺激的で面白い。『NN』はとても綿密な取材に基づく緻密な思考実験となっている。主人公の思考は極端ではあるが、一つ一つの感情は決して特異なものには思えない。突飛過ぎない思考がもたらした結果に、身近な不安を覚える。



6/14〜7/7
『17歳のための世界と日本の見方』(松岡正剛)、読了。
ああ、17歳の頃に出会いたかった…。あまりにも無知で、無謀で、無防備に勉強に臨んでいたのだと思い知った。この本で世界と日本の見方の背骨を作ってから勉強したかった。物事を単純化することは簡単かもしれないけど、これを読んで複雑なものにそのまま取り組む姿勢を忘れないようにしたい。



6/2〜6/14
『ヒップホップ・ドリーム』(漢 a.k.a GAMI)、読了。
存命の人の自伝を読んだのは『五体不満足』以来かも。半信半疑で楽しむエンターテイメント。沢山のストリートのリアルな話。嘘でも本当でもいい。なぜなら、とにかく漢さんがワルくて強くてカッコいいから。意外な細かさやギャグセンスも愛嬌たっぷり。
一方で、普段自分が小説を読む時にどんな構え方をしているのか、も逆説的に気になった。騙されたい、とか登場人物に感情移入したい、とかではないようだ。



5/28〜6/2
『生きる歓び』(保坂和志)を久々に読了。
生きることの歓びを力強く讃えて肯定する力に深く感動する。いつでもどこでも何度読んでもきっと感動する。



3/30
『アフリカの印象』(作:レーモン・ルーセル/訳:)を読み始めた。奇想天外奇天烈。



3/11
『トムは真夜中の庭で』(作:フィリパ・ピアス/訳:高杉一郎)を読み始めた。



2/16〜3/30
ゴダール原論 映画・世界・ソニマージュ』(佐々木敦)、読了。
やはりゴダールは映画本編よりそれを語る作品の方が面白いのではないか?少なくとも、ゴダールの映画から、ここで著者が述べていたような面白さを発見できたことがない。それは単純に映画を見る素養不足が原因だけど、この本を読めばどう観れば面白いのか少しわかる。それにしても、一つの映画を延々と解説し続ける本というのは、他にもあるのだろうか?



2/4〜2/12
『アルタッドに捧ぐ』(金子薫)、読了。
作家と作品を小説内に持ち込むと、入れ子構造や強いメタフィクション性を持ってしまうものだが、この作品はそういった単純な図式に陥ってなくて、そこが一番奇妙な感触のある面白い部分だった。作者も主人公も『書く』行為を見つめ続け、意味や難しさを問う。主人公はわかりやすい男女の関係にも陥らない。既存の小説にありがちな構造や展開をほのめかしながら、スルスルとマジックシュルレアリスム小説のような様相を保ち続ける。確かに、保坂和志の言うように、こんな小説は読んだことが無い。



2015/12/21〜2016/2/1
『完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯』(作:フランク・ブレイディー/訳:佐藤耕士)、読了。
天才の逸話はなぜこんなに面白いのか。強い思い込みや強いこだわりを周囲に押し通す意志の強さとチェスの強さ。チェスの天才ボビー・フィッシャーという人物の良い面も悪い面もフェアに描いて、彼の真実だけに迫ろうとしていた。究極のところ、彼の魅力は『天才的なチェスの強さ』に尽きる。だから、いろんな人に沢山の迷惑をかけても、誰かが見捨てなかった。その点を除けば、あまり近くにいて欲しくない人に思える。



1/17
神聖喜劇』を読んでいる。
面白い。論理・屁理屈・口喧嘩で、戦時中の軍隊にある縦社会の理不尽と戦えるのか?この下級兵の無謀な挑戦は、結末を見届けねばなるまい。
 
1/5
神聖喜劇 第一巻』(大西巨人)を読み始めた。



2015/10/29〜2016/1/4
赤毛のアン』(作:モンゴメリ/訳:村岡花子)、読了。
喪失の悲しさに激しく動揺した。これまでの経験でもあり、これからの経験でもあるという圧倒的な普遍性に狼狽えた。

11/18
赤毛のアン』を読んでいる。
アンはおしゃべりで五月蝿くて、自意識過剰で、わがままだ。アンがリンド小母さんに暴言の謝罪に行くうちにすっかり悲劇のヒロインになる場面や、マシュウがアンに膨らんだ袖の服を買うために苦手な女性と話す場面は笑えた。笑えて印象に残る場面が散りばめられている。多くを事後に語るスタイルも面白い。